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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百合アンソロジー『innocence』シリーズ

蝶の踊る草原で

作者: 芝井流歌

 九月も下旬だというのに、避暑地だというのに、芝生の上だというのに、八ヶ岳の秋はやたらと暑かった。

 子供の頃の記憶だからだろうか、八ヶ岳といえば、小学五年生の秋の林間学校で行った時は昼間でも涼しく感じていたのに、あれから八年も経っているから体感気温が違って感じるのだろうか。それとも温暖化現象という奴なのだろうか。東京のしけった熱風から逃げて来たつもりだったが、こうも暑いと八ヶ岳まで来た意味が全くない。

 そうブツクサと心では思うものの、背中に感じる芝生の柔らかさも草木のざわめく音も、どこからともなく香ってくる花々の匂いも、やっと二人でここまで来たのだと、五感は満足げに草原を味わっていた。

 親の車で、しかも取り立ての免許でプチ旅行をしようと提案された時は、正直嬉しさ三割、不安七割だった。高校を卒業して初めての夏休みに取得したばかりの運転には「ほんとに大丈夫なの?」という率直な第一声以外には他に何も出て来なかった。

 嬉しいけれど、誘ってくれた事はとても嬉しいのだけれど、いくらしっかり者の恋人といえど、初めての遠出の運転に心配ない訳がない。

「そ……じゃあやめる?」

「うぅ……い、行くけどさぁ……」

「けど? 行きたくないのかな?」

「い、行きたい! 二人でプチ旅行行きたいー!」

「あははっ、よしよし、最初から素直にそう言えばいいのにさ。じゃ、決まりだね」

 そんな会話から始まったプチ旅行企画発案から三日後、わたし達はこうしてただ草原に寝転がっているだけで……。

「お尻痛い……」

「文句ばっかだなぁ。運転してたあたしの方が身動き取れなかったんだからね? 助手席であっち向いたりこっち向いたりしてた緋菜より腰痛いんだからさぁ……」

「ごめんてば……でもお尻痛いのはしょうがないじゃん。三時間以上も座りっぱだったんだし。だからトイレ休憩くらいしようって言ったのに、サービスエリア寄ったら高速戻れなそうだからとかなんとか言って降りなかったのは……」

「はいはい、あたしが悪ぅござんした……よっと!」

 優葉はそう言って上体を起こした。勢いよく起きたせいか、背中に貼り付いていた草がパラパラと落ちていく。わたしはそんな背中をじっと見つめていた。だけど優葉はわたしの視線になんて気付かず、両手を後ろについてあんぐりと空を仰いでいた。小さく「あーぁ」というため息をつきながら。

「……暑いね」

「……暑いね……」

「……優葉ぁ、ごめんってば……」

「……緋菜」

 優葉がちらりと横目でこちらを見た。わたしはついその目にドキッとしてしまう。恋焦がれてしまったあの日から、わたしはずっとこの目に弱い……。

「な、何? だから謝ってんじゃん……」

「それはもういいよ。そうじゃなくてさ、緋菜はあたしと旅行出来て嬉しい訳?」

「……な、何で?」

「いいから」

 ずるい、そんな目で改めて聞くなんてずるい……。きっと知っている。わたしがその目に弱い事を。だからわざと横目で見てくるんだ。

「嬉しいに決まってんじゃん……。言ったでしょ? 誘われた日はほとんど眠れなかったって……。わざと聞いてるよね?」

「わざと? 人聞き悪い事言うなって。あたしは緋菜が喜んでくれてたらそれで嬉しいんだ。改めて聞いて何が悪い?」

 にっと笑うその横顔には嘘一つない。だから余計に嬉しくて頬が熱くなる。同じ気持ちを確かめあっているのに、わたしだけが照れてしまっているようで悔しい……。

 ごろりと背を向けて寝返りする。膝丈のスカートが少しはだけたのを感じて裾を直した。何でもないふりをしている素振りをしても、きっとごまかしきれていないのだろう。背後からくつくつと笑う声が聞こえた。

「何笑ってんの?」

「何怒ってんの?」

「怒ってないし……。優葉、今笑ってたでしょ?」

「あぁ、うん。緋菜は変わんないなって思ってさ」

「……何それ。まるでわたしが子供っぽいって言ってるように聞こえるんだけど?」

 またもくつくつと笑う声が聞こえて、さすがのわたしも少しむっとした。恨めしそうに振り返ると反省するどころか、優葉はにやにやしながらこちらを見下ろしていた。恥ずかしいやらムカつくやら、感情を振り回されてる気がしてじっと睨み上げた。

「優葉はいいよね、いつも余裕ぶっこいててさ……」

「余裕? 余裕なんてないよ。ダンススクールはプロ志望の奴らばっかだからあたしなんか中の下だしさ、バイト代は教習所で使い切っちゃったしさ、夢も金も現実は厳しいもんだって突き詰められてる感じ」

「違う、そうじゃなくて……」

「じゃあ何?」

 わたしとの事だよ、と続けたいのを飲み込んだ。急に視線を逸らされて拍子抜けしたのもある。だけどそれと同時に寂しそうな顔を一瞬だけ見てしまったからというのもある。

 高校こそは違うものの、昔から近所に住んでいたわたしと優葉は、小・中学生時代を同じ学校で過ごした。特に勉強したい事がなかったわたしは大学へは進学せず、小さい頃から密かに憧れていた声優の養成所へ通っている。それに比べて優葉は、七歳から続けているジャズダンスをもっと学びたいと、高校卒業後はアメリカにも支部のあるダンススクールに通っている。

 夢と呼べる程叶えたい訳でもなく、ただなんとなく養成所に通っているわたしと、必死に夢を追ってスクールに通っている優葉……。二人の気持ちの温度差の話で『余裕』だと言ったけれど、進路やこれからの事に余裕を感じていないのは優葉の方だったかもしれないと、自分の御目出度さに嫌気が刺した。

「優葉はかっこいいよ! 優葉はずっとわたしのかっこいい王子様だもん。踊ってる時はキラキラ輝いてて、誰が見たって一番キラキラ踊ってる! 駅前のデパートが閉まった後、シャッターの前でCDかけて踊ってたの高校の友達に見せたくて連れてきたの覚えてるでしょ? スクールで何番か知らないけど、わたしはいつでも優葉が一番かっこいいって、上手いって思うよ!」

「……あははっ、それ慰めてるつもり? でも、ありがと。緋菜が褒めてくれるから、連休明けも頑張れる気がしてきたよ。……ありがとね、緋菜」

 優葉の長いポニーテールが、草原の風に吹かれて揺れていた。草も木も、優葉の長い髪とさらさらと踊っている。それをぼんやりと見つめながら優葉のダンスコンクールの姿を思い出していた。この風のようにしなやかに踊っていた姿を、風のような姿を。

 その長い髪に触れたくて、わたしは少し上体を起こして手を伸ばした。

「……どした?」

「伸びたね、髪」

「いつまでも男の子みたいな髪型じゃあねぇ。それこそ短かったのは中二までだよ? まさに厨二病と共に卒業したけどな。緋菜は短い方が好きなんでしょ?」

「長いのも似合ってるけど、わたしはやっぱり短い方が好き、かな……」

「……おやおやぁ? もしかして、八年ぶりのここで、も一回告ってくれるのかな?」

「ち、違うし!」

「なーんだ、ざんねーん」

 優葉は笑いながら立ち上がった。逆光で見上げる姿はお日様に照らされていて、眩しくて思わず目を細めた。ステージで踊っていた優葉も、こんな風に眩しかったのを覚えている。スポットライトを浴びて、たくさんの観客の視線を浴びて、眩しくて別人みたいだった。別人みたいで寂しかった。どこか遠い所へ行ってしまったようで寂しかった。

 だけど今、振り返った優葉は、優しく笑ってわたしの名を呼んでくれた。「緋菜ちゃん、お手をどうぞ?」と。八年前のあの時と同じように……。

「優葉、あの時わたしが勘違いしてなかったら、うちら仲良くなんかなかったよね、きっと」

「んー……どうかなぁ? あたしはあの林間学校のしおり見てキャンプファイヤーやるって知った時から、緋菜の事誘おうと決めてたけどね。だから緋菜があの時あたしを男子と間違えてなかったとしても、あたしは何らかのチャンスを見付けて緋菜に近付こうとしたと思うよ? そう考えると仲良くならないルートは存在しなかったかもね」

「……こんなイケメン男子、うちのクラスにいたっけってキョトンとしちゃったんだよ。林間終わって優葉の姿探したら……」

「赤いランドセルでびっくりしたって話でしょ? 騙すつもりなかったけど、勝手に騙された緋菜が林間の最終日に告ってくれたからしめしめって思ったよ。こっちからお近付きになりたくて誘ったのにさ、結局恋に落ちたのは緋菜の方だったもんね。一目惚れ、ってやつ?」

「う、うるさい! キャンプファイヤーなんて海水浴場とかゲレンデと同じでフィルターかかっちゃうのよ、きっと! ぼっちでベソかいてるとこに付け込まれたら、あたしじゃなくたってグラッときちゃうってば!」

 逆光でも優葉がにやにやしているのが判別出来て、わたしはまたむすっと口を尖らせた。すぐからかう、それはあの五年生の夏から今も変わらない。わたしが魅かれたあの日から、ずっと変わらない。

 ずっと、変わらなければいいのに……。

「ねぇ、緋菜」

「……何?」

「踊ろっか、あの夜みたいに」

「……へ?」

 気の抜けたわたしの返事とは裏腹の、優葉の真剣な眼差しと白い手を向けられて、心臓がドクンと跳ねた。あの夜と同じ、かっこいいとときめいてしまった八年前と同じ……。あの時と違う事があるとすれば、今は優葉が女の子だと分かっている事。分かっているのにときめいてしまう。心臓が恋に落ちた瞬間と同じリズムを奏でてしまう。

 唖然と見上げるわたしがじれったくなったのか、優葉は強引にわたしの手を引いて「ほらほらぁ」と立ち上がらせた。勢いでつんのめったわたしを優葉はふわりと抱き留めて、そして……。

「夜は二人きりの舞踏会を開こうね」

 と笑った。

「え、えっ? ぶ、舞踏会……?」

「嫌、かな?」

「そういう事じゃなくて……舞踏会って何? 優葉と違ってわたし踊れないよ!」

「あはは、暴れんなって。知ってる知ってる。緋菜がドンくさい事くらい知ってるよ! そうじゃなくてさ……」

 じたばたと慌てるわたしをゆっくりと放し、優葉はじっとわたしを見つめた。まるでわたしの目の中に映っている自分を覗き込んでいるかのように、真っ直ぐ見つめていた。

「あたしさ、この連休明けに定期審査があるんだ。それで成績残せなければ上のクラスに行かれない。課題曲で五人ずつ同じ振り付けで踊るグループテストと、自由曲で自分の創作した振り付けで踊るソロテストとあってね……正直、グループテストはいい成績が取れる自信ないんだ」

「さっきも言ったじゃん! 優葉は誰よりもキラキラしててかっこいいって……。優葉より上手い人がいるの?」

「そりゃいるさ、みんなプロ志望だからね。運の悪い事に、うちのクラスでも上位に入る子達と同じグループで踊るはめになっちゃってさ……。弱音なんて吐いてたら緋菜に笑われちゃうぞって思って練習してきたけど、やっぱり自信が持てなくて……もう辞めちゃおうかなって……」

「……ぷっ、あはははは! 何その情けない顔ー! 優葉もそんな顔するんだね!」

 わたしがわざと茶化したように言うと、優葉は予想以上に曇った顔をして項垂れた。その表情にさっきまでの余裕は全くない。

「笑うなよ……。これでも真剣に考えてるんだぞ? ……まぁ、恋人って言っても所詮はあたしの人生だからな。緋菜にとっては他人事だよな……」

「そうじゃないよ! 優葉が弱音吐いてるから笑ったんじゃん! 優葉が言い出したんだよ? 弱音吐いたらわたしに笑われるって」

「屁理屈捏ねんなって。……はー、もういいや。計画なんて無視して、今日はパーッとストレス発散しようぜ!」

「計画?」

「舞踏会だよ。あたし、自由曲で勝負しようと思ってて、このプチ旅行の夜に緋菜に練習付き合ってもらおうと計画してたんだ……。でもどうでもよくなってきた! はーぁ……東京、帰りたくなー……」

 優葉はそう吐き捨てて、またころんと芝生に横たわった。腕を頭の下で組み、少しだけ足をバタつかせるその姿は、どう見てもいじけてるとしか思えない。どうでもいいなんて思ってるとは思えない。

 わたしはしばらくその姿を眺めていた。今の優葉には真っ青な空が映っているだろうか。白く柔らかな雲が映っているだろうか。優しく撫でる秋風を感じられているだろうか。木や草や花の匂いを感じられているだろうか……。

「ねぇ、優葉」

「……何?」

「付き合うよ、舞踏会! わたし、何したらいい? 何か手伝える事があったら言って? せっかくここまで来たんだもん、東京帰る前にいい思い出作ろ!」

「元気だなぁ緋菜、さっきまでお尻痛いだのってぶつくさ言ってたくせにさ。あたしの計画なんてもういいんだってば。旅館着いたらおいしいもん食べて、一緒にお風呂入って……一緒に寝てくれればそれで充分だよ。舞踏会はやめやめ!」

 隣に座って顔を覗き込むと、優葉はあくびをしながら目を閉じた。今まで散々かっこいいところを見せていたくせに、今は情けなくてだらしない姿にしか見えない。それが無性に腹立つ。優葉はいつだってわたしの王子様だったのに、いつだってかっこよかったのに、いつだって憧れの存在だったのに、いつだって自慢の恋人だったのに……。

「かっこ悪……。そんな優葉きらーい!」

「……おいおい、萌えキャラばりの猫撫で声で酷い事言うなよ。その声で励ましてくれたらやる気も起きるかもしれんがなぁ……」

「言わなーい! こっちこそ、優葉がかっこいいとこも一回見せてくれたら褒めてあげるのになーぁ……」

「……卑怯じゃっ、バカタレ!」

 優葉はむすっと口を尖らせながら飛び起きた。そしてずいっと顔を近付けて……。

「惚れ直させたろか?」

 と、わたしの髪をくしゃっと撫でた。……ずるい、本当にずるい。この人はもう……わたしをドキドキさせる天才なんだから……。

「じゃーさ、緋菜の得意なアニソン歌ってくれる? よくカラオケで歌ってる深夜アニメのアレ」

「アニソン? ……ダンス・ウィズ・ヴァンパイアの事? 何で?」

「それそれ! 実はさ、あたし自由曲をその曲で踊ろうと思ってたんだ! テンポも雰囲気もいい感じだしさ、なにより緋菜がよく歌ってたから思い入れがあるんだ」

「……もしかして、舞踏会とか計画とかって、それの事? わたしが歌って優葉がダンスの練習するって事?」

「ご名答! 王子様の人生かかってんだ、歌ってくれるだろ? 未来のアイドル声優さん!」

「……茶化すなら歌わないから!」

 まるで子供をあやすかのように「悪い悪い!」と言いながら、いつまでもわたしの髪をくしゃくしゃと撫で続けていた。さっきまでいじけてたくせに……そう思いながら優葉の顔を見つめる。子供っぽいのはどっちだかね、口にしかけて頬が緩んだ。

 秋風がわたし達の前髪を揺らす。暖かくて穏やかで、日なたのような優葉の尻尾も揺れる。

「舞踏会、お風呂上がったらにする? それとも、汗かいちゃうから入る前にする?」

「んー、どっちも、かな? あー、緋菜とのお風呂楽しみだなー! 大浴場、貸切だったらいいね!」

「ね! うちらの申し訳ないプロポーション見られなくて済むしね」

「『ら』? 緋菜だけだろ? あたしは残念なんかじゃないぞ? インドアの緋菜とは違って、しょっちゅう動いてるからな。一緒にすんな」

「ひ、ひどっ!」

「あはは、冗談冗談! そんな事よりさ、あたし、恋人が緋菜で良かったなって思ってるよ。……何でだか分かる?」

 少しだけトクンと心臓が跳ねる。そ、そんな事改まって言わなくても……ううん、ちょっと聞きたい、言って欲しい……。

「え、え? わ、分かんない……なー……。な、何で? 分かんないから、い、言って?」

「あれ? 分かんないの? だってさ、異性だったら温泉、別々に入らなきゃじゃん? その点緋菜とだったら一緒に入れるもん。せっかくの旅行なのにお風呂だけ別々だったら寂しいなって思ってさ。……ん? 緋菜? どした?」

「べ、別に……」

 ほんっとにこの人ってば、ドキドキさせる天才なんだから……。そのうちわたしの寿命も縮まりそう……。『好きだから』その一言を期待してしまった自分が恥ずかしい。

 優葉はわたしの頬をむにむにと抓んで楽しそうに笑っている。わたしもその愛おしい恋人の頬をむにむにと抓み返す。「変なの!」声が重なって一緒に笑った。

「緋菜は?」

「え? 何?」

「緋菜はさ、あたしと一緒に来て良かった?」

「……それ、さっきも聞いたよねぇ? ちゃんと言ったよねぇ?」

「違うよ、あれは旅行出来るの嬉しかったかって質問。今聞いてるのは、来て良かったかって質問」

 もちろん! わたしはそう言葉にする代わりに、大きく頷いた。それを見て納得いかない様子の優葉が「口で言えよー!」とわたしの頬を引っ張った。痛いけど、楽しくて嬉しくて愛おしくて胸が熱くなる。じんわりと滲んできた涙は、頬が痛いだけじゃないはず。

「痛いなぁ……優葉のバカタレー」

「緋菜がちゃんと言わないからだ、バカタレ」

「もう萌え声で褒めてあげないからね! バカタレー」

「はぁ? じゃあ褒めたくなるくらいかっこいいとこ見せてやんよ、バカタレ!」

 まだ熱の残る頬を摩るわたしを一人残し、優葉は広い広い草原の真ん中まで駆け出すと、くるりとこちらを向いてにんまり笑った。そして「ファイブ・シックス・セブン・エイト!」とカウントを口ずさんでから踊り出した。

 まるで蝶のように、今にも羽ばたきそうなしなやかな手足の動きは、この青空の下だからという演出だけではない幻想的な光景だった。先程まで芋虫のようにごろごろと地を這っていた少女とは思えない軽やかなジャンプも、幼虫や蛹時代を経てきたのだとは思えない、あでやかな蝶その物だった。

 草原で舞う一人の少女はとても楽しそうで、とてもキラキラしていた。派手な演出も煌びやかな照明もないけれど、少女は太陽の光を浴びながら、草原という舞台でたった一人、わたしという観客の為だけにとっておきのナンバーを踊ってくれた。

 それはわたし達が中学三年の時、優葉が最初で最後のジュニア大会に出た時のナンバーだった。忘れもしない、忘れる訳がない。何度も惚れ直した中で、一番夢中にさせられた瞬間だったのだから。

 でも、誰よりも素敵だった優葉はグランプリは取れなかった。準グランプリでもなかった。代わりに二人だけ選ばれる審査員特別賞をもらった。授賞式で優葉はすごく嬉しそうにしていたくせに……わたしの前でだけ、悔し涙を流した……。

「……はぁ……つっかれたぁ……」

「お疲れ様……。かっこよかったよ?」

「えー? 萌え声で褒めてくれるって言ったじゃんかー! 緋菜の嘘つき、緋菜のバカタレ」

「言ったっけ? 言わせるとは言われた気がするけど、わたしは言った覚えないもんねー、バカタレー」

「……泣くぞ?」

「……え?」

 そうだった。あの曲を踊ったあの大会の後も優葉は泣いた。わたしはそんな優葉を、いつもかっこいいくせにいじらしく思えた優葉を慰めようと、慰めてあげようと優葉に……。

「し、しないからね! バカタレー」

「……してくんないの? ちぇっ、あの時は初めて緋菜からチューして……」

「わぁー! 言うなぁ、バカタレー!」

 だけど……。

「してくんないなら、今日はあたしからしちゃうからね?」

 いつも、だけど……。

「……ずるい、こんなとこでするなんて……」

「そ? 誰もいない草原って、ロマンチックじゃん。こんなとこ、なんて言うにはもったいないシチュエーションだと思うけどなぁ」

「そうなんだけど……」

 いつもと違うのは、この澄み切った青い空の下だという事。わたし達の始まりの場所だという事。

 あの夜、あなたがここで誘ってくれていなくても、わたし達はここへ戻って来ていただろうか。こんな風に愛しい相手を思いながらじゃれていただろうか。あのキャンプファイヤーの一時がなければ、わたし達の八年間を大きく変えていたかもしれない。変わっていなかったかもしれない。

 あれから随分とホテルやゴルフ場が出来、この八ヶ岳も景色を変えている。空気も気温も、あの頃よりずっと熱を帯びている。草木や花々だって、成長したり入れ替わったりしているはず。そんな中でたった一つだけ、確実に変わっていないものがあるとすれば……。

「ほんとは言いたいんだろー? 我慢しないで『優葉かっこいいー、優葉大好きー』って素直に言えばいいのにさぁ」

「う、うるさい!」

「なーんだ。好きじゃないの? あたしの事。言ってくんないと分かんないぞー、バカタレめ」

「……好きだよ。言わなくても分かってるくせに、バカタレ!」

 ずっとずっと、今も優葉が大好きだという事……。



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