33話
その看板を目にした瞬間、全身に鳥肌が立った。
何を隠そう、俺は大の風呂好きだ。日本にいた頃は毎日欠かさず湯船に浸かっていたし、熱を出して風邪を引いた時でさえ入っていた。むしろ体全体が汗でべたつく病気の時こそ、さっぱり洗わないと寝つけない性分だったのだ。
この世界に風呂など存在しないと思い込んでいた。少なくとも俺が育った田舎の環境では、冷水を頭からかぶる水浴びくらいしか選択肢がなかったからだ。
ユウタの話によれば、田舎にはないが王都のような大都市ではそれほど珍しいものでもないらしい。
狂喜乱舞して暖簾をくぐろうとした俺だったが、直前でユウタに腕を掴んで止められた。
「着替えの服を買っておいた方が良くないですか?」
……なるほど、完全にその通りだ。せっかく風呂に入って身を清めても、上がった後にまたこの浮浪者同然のボロ布を羽織るのでは何の意味もない。精神的にも絶対に耐えられない。
だが、俺は肝心なことを忘れてはいなかった。
『無駄遣い厳禁』。
金を返せなくなっての奴隷落ちだけは、何としてでも回避しなければならないのだ。
そこで俺はユウタに、古着を扱っている市場へ案内してくれるよう頼んだ。
古着といっても、前世の日本のように「ヴィンテージ」だの「ファッション」だのといった洒落た概念はこの世界にはない。庶民が誰かのお古を着まわすのはごく当たり前の日常なのだ。
ユウタは「せっかくお金があるなら、仕立て屋さんにお願いしたらどうですか?」と勧めてきたが、冗談じゃない。手元にある金の輝きはただの錯覚で、この黄金はすべて膨大な『借金』なのだから。
というわけで、俺は念願の風呂を一度おあずけにし、まずは服選びから始めることにした。条件はただひとつ。汚れが目立たず、浮浪者に見えさえしなければデザインなんて何でもよかった。
そうして露店を巡り、小一時間ほどかけてようやく一着のグレーのシャツを見つけ出した。そしてサイズ感を確認しようと広げた、その瞬間だった。
ころり——と、小さな塊が三つほど地面に転がり落ちた。凝視すると、それはまだ新しいカメムシの死骸だった。
中古だから仕方がない。安いのだから我慢するべきだ。……頭では分かっていても、体が受け付けなかった。
俺は幼少期から虫という存在が大嫌いなのだ。この世界に転生してからというもの、前世とは比べものにならない虫の多さにずっと悩まされ続けてきたというのに。
店主は謝りもしなかった。「それくらい入ってて当然だろ」と言いたげな顔でこちらを見ている。
おかげで俺のテンションは一気にどん底まで急降下した。他の古着屋を探そうかとも思ったが、次の店が虫フリーだという保証はどこにもない。
……その結果。俺は高級テーラー(服の仕立て屋)の店内に立っていた。
手の中にある黄金の輝きが、「服くらい新品を買えばいいじゃん!」と悪魔のように明るく囁きかけ、俺の不屈の精神はあっけなく崩壊したのだ。
結果として、ジャケット、シャツ、パンツ、靴、帽子、果ては下着に至るまで一式すべてを新調することになり、総額で十五万ゴールドという大金を吹き飛ばすハメになった。
ユウタも店員も「お似合いですよ!」と手放しで褒めてくれたが、俺にはそれが地獄の底へと誘う悪魔の囁きにしか聞こえなかった。
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