29話
「う、美味い……」
ティーカップから漂うのは、鼻をくすぐる香しい紅茶の香り。
応接室という名の圧力の塊のような部屋に通され、あの蛇のような目に見つめられ、給仕の美女が紅茶を運んできた時には、「もう帰らせてくれ!」と心の中で叫び出しそうになっていた。
だが、一口含んだ瞬間にすべてのストレスが綺麗に吹き飛び、一瞬で自分だけの世界に没入してしまった。
――幸せ。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。こんな満たされた気持ちになったのは一体いつ以来だろうか。幼子だった頃か、あるいは前世の記憶まで遡らねばならないかもしれない。
「お気に召したようで何よりです」
ふと我に返ると、目の前には変わらぬ笑みを浮かべた奴隷商人デルモンドがいた。
せっかくの至福の時間を邪魔されたことにささやかな苛立ちを覚えつつも、緑田は口を開いた。
「……美味しかった」
「話には伺っておりましたが、やはり普通の方とは雰囲気が違いますね、アーサー様」
「………『様』なんて付けないでほしい」
「理由をお伺いしても?」
「俺はそんな大層な人間じゃない。この身なりを見ればわかるだろう」
緑田は自嘲気味に鼻で笑ってみせた。
「つい最近だって、浮浪者に間違われたばかりだ」
「このような仕事をしておりますとつくづく痛感しますが……人は外見で判断すべきではない、私はそう思っておりますよ」
「俺はそうは思わないな。外見というのは、その人間を推し量る重要な判断材料だ」
「意見の相違ですね」
デルモンドは愉快そうに、どこまでも上品に笑った。
「では、『さん』付けではいかがでしょう?」
「それなら、まあ……」
「交渉成立ですね、アーサーさん」
なぜだか妙に分の悪い取引に乗せられてしまったような気がして、緑田の胸騒ぎが静かに跳ね上がった。
「それにしても、実に剛毅な御方だ」
「何がだ?」
「つい先ほどまでは、酷く緊張しておられるように見受けられました。それなのに、出された紅茶をこれほど心から堪能されるとは。通常の人間であれば、緊張のあまり味すら分からないのが普通です」
「……それだけ、この紅茶が美味しかったんだ」
「なるほど、一本取られました」
(しまった……!)
緑田はここで、ようやく自分の失態に気がついた。
相手は自分より遥かに年上で、裏社会で大成している明確な格上の人物だというのに、なぜか自分はタメ口で会話を進めてしまっている。
二度目の人生だというのに、まともな礼儀作法すら満足にこなせない己の拙さが猛烈に恥ずかしくなった。
(……今からでも敬語に修正するべきか?)
「どうかされましたか?」
「いえ……なんでもありません」
「そうですか」
デルモンドは緑田の動揺のすべてを見透かしたような笑みを深めた。
「良ければ、紅茶のおかわりはいかがでしょうか?」
「……あ、ありがとうございます」
(ああ、自分が嫌だ……)
緊張と焦りと気まずさから背中は汗でびしょ濡れだ。それでも、あの至高の紅茶をもう一杯飲めると思うと、胸の奥でささやかな歓喜が込み上げてくるのを抑えきれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「ブックマーク」と「いいね」を頂ければ大層喜びます。
評価を頂ければさらに喜びます。
☆5なら踊ります。




