お姉さんのきくこ
硝子のドアに映る私の向こうに、小柄な女の子の姿があった。今日は小学生の授業はない曜日のはずだ。誰かを待っているのか、受付の方を見てじっとしていたその子が、ドアを開けて中に入った私を振り返った。すごく困っているのが分かる、表情豊かな子だ。
しばらく見詰め合ってしまった後、ここは年上の私が、と思って、話しかけようとしたら、
「あの……すいません」
先を越された。
「なに? どうしたの?」
「受付の人を待ってるんですけど、いないみたいなんです」
いつもは二人いる受付のお姉さんが、今日はどちらもいない。時計の針は午後六時を指しているから、何かの準備に追われているのだろう、と思った。
「夏期講習の申し込みに来たんですけど……」
夏期講習ということは、この子、もしかして六年生?
「六年生?」
「はい」
二つに分けて結んだ短めの髪が、肩の上で揺れた。黒い縁の眼鏡越しに私を見ている目はきらきらしている。小柄で太めというわけでもないのに丸い印象があるのは、輪郭のせいなのだと思う。かわいいなー、と思った。
「ちょっと待ってて。私、聞いてくる」
「あ、ありがとうございますっ」
ものすごい勢いで頭を下げられてしまった。
「い、いいよ、そんな。気にしないで。待っててね」
受付の奥にある部屋に入るのは気後れするけど、二階にある先生たちの部屋になら入ったことは何度もある。ちょうど、エレベータが一階まで降りてきたのを見かけてそっちに向かって急いだ。
エレベータが開くと、数学の森山先生がいた。
「お、花村ちゃん、どしたん?」
「あ、先生、受付のお姉さんたちが今、いなくてあの子がちょっと困ってて。夏期講習の申し込みなんだそうです」
「ありゃ。ちょっと、待っとってもらって」
私にそう言った後、女の子にも「ごめんねー! ちょっと待っとってねー!」と大きな声で言って、受付奥のドアを開いた。
「誰もおらん。どこ行ったんじゃろ」
腕を組んでしばらくじっと考え込んでから、受付にある電話を使って誰かと先生が話し始めた。
「ごめんね。ちょっと待っててね。時間、大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
入り口近くにあるベンチに座って、女の子を手招きした。
「座ってよっか」
「はい。あの、お姉さんは大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫。まだ授業まで時間があるし、先生、あの人だしね」
「そうなんですか」
「そ」
と返事をした私は、少し上の空だった。
多分、人生で初めて、今、私は「お姉さん」と言われた。制服のまま塾に来たから、私が中学生だというのは分かったのだろうけど。小学生から見たら中学生みんながお姉さんなんだろうけど。
お姉さんか。
うん。
「今、来るけん」
森山先生が私のささやかな感動を壊した。
「花村ちゃん、もう、こっちでやるけぇ、教室行っとってええよ」
私はお姉さんだ。
「もう少しくらいなら、ここにいても」
先生が少し笑った。
「そりゃ、かまわんよ。助かるし」
「ごめんなさーい!」
大きな声と共に、奥の階段からものすごい勢いで受付のお姉さんが飛び出してきた。手にはパンフレットを抱えている。踵の高い靴で大人の人は走れるんだな、とその様子を見てちょっと感動した。
「転ばないの、すごいですね」
「あー、私も思ったー」
「私も、大人になったらああいう靴で走れるようになるのかなー」
女の子のその言葉はひとりごとだったかも知れない。でも。
「なるよ。もしならなくても、それはそれでいいんだよ。きっと」
「そっかー。そうですね」
えへへ、と女の子が笑って立ち上がった。
「お姉さん、ありがとうございましたっ」
また、勢いよく頭を下げられてしまった。私も立ち上がって、
「こちらこそ」
と頭を下げる。
「二人とも、何しとるん。ほぃ、花村ちゃん、はよ上行き。あ、二階寄ってて、プリント持って行ってくれんかね?」
「いいですよー」
先生に返事をしてから、女の子に改めて向き直った。
「じゃあね。中学受験するんでしょ? 頑張り過ぎないように頑張ってね」
「はい。……あの」
手を振って階段に向かおうとしたところで、呼び止められた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「そんなに何度も、いいよ。なんだか、ばたばたして楽しかったね」
「はい」
「じゃあね!」
手を互いに振り合って、その子とは別れた。
なんだかすごく、楽しい気持ちだ。それはきっと、あの子の「ありがとう」という言葉が気持ちがいいからだ。
あんなふうに、「ありがとう」と言えたらいいな、と思った。
掲載日:2015年 12月06日 17時55分
最終更新日:2015年 12月09日 00時17分