きくこと挨拶
今日は、朝から雨だった。霧のような雨に傘は役に立たない。風が吹き上げてスカートの中にまでその雨が入り込んでくるから最悪だ。空模様がそのまま心に映り込んでしまったかのようで、私は今日一日ずっと、溜息をついていたような気がする。
帰る時間になり、ようやく空が少し晴れ始めた。その明るさの中で、それでも降る雨は雲間の奥から時々差す陽射しに洗われ、光って見える。きれいだな、と思った。
帰り道がひとりになった時は、ほんの少し、遠回りをすると決めている。陸橋の先にある長い坂道を迂回して線路沿いの道を歩き、途中にある脇道に入る頃には、雨は止んでいた。
緩やかな登りの坂道を、少し湿った風に背中を押されながら歩く。普段とは違う風景の中を歩くのは、楽しい。道の脇に群れ咲く小さな花の名前はなんだろう、と考える。きっと、おばあちゃんたちなら知っているだろうから、今度聞いてみてもいいな。
水溜りを避けながら、坂道を右に左にとジグザグに歩いたところで、遠回りをする一番の理由が目に入ってきた。
この坂道を上がった先に、少し大きな家がある。庭と道を隔てる柵のそばに、いつも大きな犬が寝転がっていて、私が近づくと顔を上げて、わふ、と短く何かを言ってくる。初めて言われた時はびっくりしたけど、以来、時々こうやって顔を見に来ては、その「わふ」に、「こんにちはー」と返すようになった。
今日、大きな犬の姿がなかった。かわりに、小さな花が束ねて置いてあった。立ち止まって花をじっと見た後、何があったのかを理解した。
動き回っているところはあまり見たことがない。物静かで、ファンタジー小説に出てくる賢者のような、そういう犬だった。名前も知らない。ただ、挨拶を時々するだけの間柄だ。
最後に挨拶したのはいつだったろう。その時の「わふ」はどんな「わふ」だったろう。記憶の中に溶け込んでしまっているその風景を、思い出すことができない。
当たり前の日常が、こうやって静かに消えていく。
掲載日:2015年 11月23日 18時32分