きくことX
腰が重くて立ち上がる気になれない。私は座ったまま、湯川さんが体育の着替えを進めていくのをぼんやりと見守った。
星川先生のところに、今日の体育は休みます、と授業が始まる前に言いに行かなければならない。頭では分かっているけど、席から立つことさえ身体が嫌がっている。
「きくちゃん、大丈夫? 顔、白くなってるよ?」
「うん」
「今日、体育お休み?」
「うん」
朝、今日の体育の授業は休みなさいと母に言われ、生徒手帳に校則で親に書いてもらわないといけない "なにか" を書いてもらった。ああいうの、なんて言うんだろう。
なんとか届け。早退じゃないし。体育のお休み届け。
なんだろう。
カーテンを揺らして窓から入ってきた風の涼しさが、肌に当たった。気持ちがいい。
よし。立とう。
机に手を突き、その勢いで重くて鬱陶しい腰をどうにか上げて、息をついた。目の前に、湯川さんの背中がある。体操服越しに、下着が透けている。
Xだ、と思った。今日の数学はそういえば因数分解だった。そう思った時には、湯川さんの背中に透けている線に沿って、バツを書いていた。
「ちょっと、きくちゃん!?」
振り返った湯川さんがびっくりしている。その声で、教室中の女の子たちが私の方を見た。
「なにしたん?」
この声は多分、綱本さん。
「なにって?」
「きくちゃん?」
「ん?」
「あかんわ。誰か、保健室、そうや、なっちゃん!」
綱本さんが斎藤さんを呼んでいる。教室を出ようとしたところで固まっていた斎藤さんが、動き出したのが見えた。こっちにやって来る。
「きくちゃん、保健室行こう。ふーちゃん、きくちゃんの生徒手帳頼める?」
「あたしが先生のところに行ってくる!」
ふーちゃんが走り寄ってきて、鞄、ごめんねと言いながら私の鞄を開けている。
「きくちゃん、保健室でちょっと寝とき」
綱本さんが腰を後ろから叩いてくれた。少し身体が楽になった。
「大丈夫?」
湯川さんが心配そうに私の方を覗き込んでくる。
そこで、記憶がつながった。私は人の背中に何をした。
「ご、ごめん!」
「いいけど、どういうこと?」
「Xは、×(バツ)だなぁ、と思って」
「……意味が分からないし、あと、人の背中で遊ぶな」
「ごめん」
「きくちゃん、生徒手帳借りたから。先生のとこ行ってくるね」
「うん。ありがとう」
ふーちゃんが教室の外に走り出ていく。斎藤さんが私の手を引っ張ってくれている。湯川さんが背中を押してくれている。
みんな、優しいなぁ、と思ったら、泣きそうになった。
掲載日:2015年 11月22日 23時18分