きくこと鏡の前
「あちー。もうわし、たまらんわ」
男の子の誰かがそう言った。教室の前後のドアも、通路側の窓も、当然、グランド側の窓も開けているのに風が通らない。時々、窓をくぐって来る風は熱風で、言葉には出さなかったけれど、私だって暑い。
でも、男の子はまだいい。襟が開いたシャツにズボンという姿は女の制服から見ればずっと涼しそうだ。私たちの制服はブラウスの上にジャンパースカートが重なっていて実質、二枚重ねだし、ブラウスの下には下着もある。それも数えると三枚重ねで、肌にまで空気が全く、通ってこない。
ハンカチを濡らしてこようと思って席を立ったら、前の湯川さんと一緒になった。
「あれ、きくちゃんとなんか気が合った」
「なにそれ」
教室を連れ立って出て行く先が同じなのも、お互いになんとなく気付いているから何も言わない。トイレのドアを押して入ると、他にも何人か、先客がいた。やっぱり、みんな考えていることは同じだった。
「教室でこんなんしたら何言われるか分からんし」
綱本さんがジャンパースカートから手を抜いてブラウスの胸元を少し開き、濡れたハンカチを押し当てている。
「ちょっと、何してるんよ」
「涼しいでー」
手洗い場に湯川さんと並んで、ハンカチを濡らす。水の冷たさが気持ちいい。濡れたハンカチで首筋を押さえると、思っていたよりも熱を持っていた。
「暑い時にこの制服はありえへんわ」
さすがに綱本さんと同じことをしようという人はいなかったけど、スカートを持ち上げて足を濡らしている人はいた。少し濡れた状態でスカートをばさばさすると、風が入って涼しいのだ。
「こんな時、お腹痛くなったら最悪やね」
「あれしてると暑苦しいもんなぁ」
「上からもう一枚、穿くし」
「そう、なんか不安になるんよ」
みんなの話を黙って聞いているのは楽しい。それぞれが勝手にしゃべっていて、それがなんだか居心地が良くて、人によって居心地の良い場所というのは違うんだろうけれど、私はトイレの鏡の前がけっこう好きだ。男の子の目線を気にしなくていいからかも知れない。女にしか通じないことを話して、耳を傾けることにも恥ずかしさがない。
「戸次さんとか、胸の谷間に汗たまってそうやん」
湯川さんがそんなことを言った。戸次さんは胸が大きい。体育の着替えでは、女の私でも思わず見てしまう。
湯川さんが、自分の胸が小さいのを気にしているのを知っているから、
「何言ってんの」
私は笑いながら、そう返すだけにした。
掲載日:2014年 10月12日 12時02分