エピローグ
47日目
やはり、すべて都合良く夢では終わらないらしい。このノートに綴られた《記録》はやはり現実で、今病院のベッドに横たわっている私もきっと現実だ。
医師にはなぜ××××を挿していた水を飲んだのか何度も追及されたが、答える気はなかった。いや、答えられなかった。
「いつも使っているコップと花瓶の形が似ていて、間違って飲みました……」
勿論、この答えに医師も看護師も首を傾げた。
「高齢の人ならまだしも、10代の若者が間違えるかなぁ……うーん……」
そのうち初老の医師は追及を諦め、昨日の状態を説明してくれた。嘔吐と痙攣、その後呼吸困難にまで陥ったが、命に別状はない。後遺症も遺らない、と。そして、発見が早くて良かった、と最後に付け加えられた。
「誰が……いつ発見したの……?」
「誰って、君のお兄さんだよ。昨日の早朝、君はこの病院に運ばれてきたんだ。覚えてないのかい?」
その答えに大して驚きもしない自分がいた。この時初めて、彩人が追いかけてくることを期待していたのだと気づく。
結局あの日、花瓶の中の毒を飲む勇気など私にはなかったのだ。
気づいたら長い間眠っていた。身体をずっと動かしていないせいか背中が痛い。少し病室の中を歩こうとベッドから起き上がると、軽い目眩がした。
「あー……」
治まるまで少し待って、日焼けした黄色のカーテンまで歩いていく。
途中、右手に突っ張るような感覚があった。立ち止まって振り返ると、細い管が手の甲からベッドの向こう側の点滴バックまで伸びている。
動けない状態には慣れたかと思っていたが、やはり不便だ。
仕方なくベッドの縁に座ったまま、揺れるカーテンの隙間から見える夕日を眺めた。不気味なほど赤い太陽がビルの間に沈んでいく様をじっと見守る。
「おはよう、有朱」
突然の背後からの声に身体が跳ねた。振り返ると、ウサギ……ではなく彩人がドアの前に立っている。左肩には大きなトートバッグを提げていた。
何と答えたら良いのか迷った末、もう一度窓の方を向いた。そのまま声が震えないよう、何とか抑えながら言葉を吐く。
「……おはようって、もう夕方だよ」
「そうだね……ごめんね、遅くなって」
彩人の調子はいつも通りだった。おっとりした穏やかな様子でこちらに近づいてくる。
「どう? 身体の調子は」
彩人はトートバッグを下ろし、何かをベッドに付属している机に並べているようだった。
「……別に何ともない、かな」
「それは良かった! ほら、有朱の好きな豆乳プリン作ってきたから一緒に食べようよ」
ちらっと後ろを振り返ると、彩人がいつもの笑顔でプリンの瓶の上に紙製のスプーンを置いている。
「……それは彩人の好きな物でしょ?」
「でも有朱だって好きでしょ?」
何も言えなくなり、もう少しで日が沈む窓辺から離れた。ベッドに戻ろうとすると、プリンの横にノートが置いてあることに気がつく。
彩人はすべて見てしまったのだろうか。ノートには起きた出来事やその時の私の感情が乱雑に書き殴ってあるだけで、他人が読んでもきっと分からないようになっていた。自分で読めばその時のことは鮮明に思い出せる。それでも、心を見られたような苦しさが胸の中に押し寄せてきた。
「……その中身、見た?」
まだ、真っ直ぐ目を見ることができない。机の上に並んだ2つのプリンに視線を落としたままでいると、彩人の手が肩に触れた。
「見たのは46日目って書いてあったところだけだよ。そこのページが開いてたでしょ? だから、そこは読んでもいいのかなって」
「ふーん……他は気にならなかったの?」
「なったけど、書いたものは勝手に見ない約束だったから」
そういえば、ウサギが初めてこのノートをプレゼントしてくれた時、そんなことを言っていた気がした。
本当に彩人は何気ないことでも良く覚えている。ノートを見ていないと信じたい。
その時ふと、ある考えに行き着いた。
「……どうしてこのノート、私に返してくれたの?」
彩人が、ウサギが最も恐れていたのは……。
「また私があの日のことを忘れてたらって、思わなかったの?」
ベッドの縁に並んで座っていたため、この時の彩人の表情を見ることはできなかった。
「うーん、そうだね……そんな都合良いこと……少し思ったかな」
話しながら、彩人は豆乳プリンとスプーンを渡してくれた。保冷剤を詰めて持ってきたのか、プリンはとても冷えていた。
「でもこのノートを渡したってことは……」
滑らかなプリンの表面に、スプーンは何の抵抗もなく入っていった。1口含むと優しい甘さが口内に広がる。
「うん、もし忘れてたら大変かなって」
「大変……?」
意外な言葉だった。
「嫌なことを忘れてくれるのなら嬉しいけど、やっぱり僕のことまで忘れられるのは悲しいから……」
寂しげに目を伏せる彩人を見て、胸の奥が騒いだ。
私はやはり自分勝手だ。
「一緒に暮らしたことも、もう一度家族になったことも……繋がったこともね」
最後の言葉にプリンを吹いてしまいそうになった。咄嗟に彩人を見上げると、何事もなかったかのようにプリンを食べている。特に悪気はなさそうだ。
「ん? どうしたの?」
家族になった、は良いとして……やはり素でこの調子は非常にまずい。
「別に……」
残りのプリンを一気に平らげ、手を合わせた。
「ごちそうさま」
「はい、どういたしまして……やっぱりこうしてると、家族の実感湧いてくるね」
家族、という言葉が胸に突き刺さる。おそらくウサギの着ぐるみを身につけていた頃から、彩人は2人だけの家族を楽しんでいた。でも私は……。
「家族……でもあるけど、私たちは共犯者なんでしょ? 決して許されない……彼女はもういないんだから……」
まただ。
どんなに幸せな時間を過ごそうと、罪を許されない限りこうしてまた悲痛な感情はやってくる。
この無益で重苦しい感情から解放されたくて、私は彼女と同じことをしたのだろうか。
「許すのは……まぁ、有朱がそう思うなら、そういうことにしておこうか」
彩人の声は変わらず穏やかだ。それでも目を見ることはできなかった。どうしようもなく弱くて勝手な自分を見て欲しくなかった。
「でも僕は、許されたと思うけど」
それは都合の良い解釈だ。
ため息を吐いて首を横に振ると、彩人は徐ろに口を開いた。
「僕が帰った日、有朱は気が動転してたから知らないと思うけど……僕は少し母さんと話したんだ。まともに話せるような状態じゃなかったけど……」
息が苦しくなる。
彼女はどんな恨み言を彩人に話したのだろう。
「母さんは意識があった……けど、助けは求めてこなかった。このままでいいと言ったんだ……ただ、キミと僕に対する謝罪を繰り返してたよ」
「……謝った?」
「うん、そう……だから、そのまま楽にさせてあげようって思ったんだ」
息苦しかったのが嘘のように治まった。
有り得ない。
彼女が何に対して謝ったというのだろう。彩人の右目にか、私の身体の傷か、それとも心にか。
周りに美人ともてはやされ、自分が大好きで、私たちには日頃の鬱憤を晴らすかのように強く当たり続けた彼女が……。
「私たちへの罪悪感から、毒を飲んだの? それとも、お父さんとのことが嫌になって……?」
「それについては言わなかった。どっちもだったのかもしれないし、もっと違う理由があったのかもしれない……今はもうわからないよ」
どこまでも利己的で自分を1番愛した彼女が、自ら服毒し謝罪の言葉を述べるなんてことがあるだろうか。彩人は妙に納得したような顔をしているが、もしかしたら別に、何か彼女の最後の言葉を聞いているのだろうか……。
「昨日も、元の家でキミを見つけた時……キミが望まないならそのまま楽にさせてあげようって思った。そんなことできなかったかもしれないけど……」
いやだ。
「でも、昨日キミは生きることを望んだ。僕を見た時、助けてって言ったんだよ」
やはり私は望んでいた。彩人が来てくれることを。生きることを。
それが分かった瞬間、身体がこれまでよりずっと軽くなったような気がした。
「あの女が憎くて、誰かに助けて欲しくて、でも……私はあの女を愛してた」
死んで欲しかったのは、彼女を憎いと思うこの心だった。
「あの女に愛して欲しかったの……」
そう理解した途端、頭の中の黒い影が晴れる。目頭が熱くなり、堰が切れたように涙が溢れてきた。
「有朱はもう許されたよ……後は有朱が母さんを許してあげられれば、全部終わるんだ」
温かい手が濡れた頬に触れる。それに応えるように顔を上げると、彩人の真っ直ぐな瞳と視線がぶつかる。黒い、夜の色の瞳。彼女とよく似ていた。
「許したよ……もう。憎くて、大嫌いで恐かった彼女を……愛してた」
これからはきっと前を向いていける。彩人と共に生きていけるんだ。そう強く思う傍ら、私の心は矛盾した思いを抱いていた。
こんな意味のわからない感情も、不幸な出来事も幸せな出来事も、目が覚めたら全部夢だったら良いのに。
きっと明日の朝には、何もかもが白いいつもの部屋のいつものベッドで目が覚める。
そして、ウサギにおはようを言うのだ。




