45日目
45日目?
夢のような微睡みの後、彩人は言った。
あの日、すぐに救急車を呼んで処置を施せば助かるはずだった彼女を自分が見殺しにした、と。それは事実なのかもしれない。あの時点で帰ってきていたのなら、救急車を呼ぶ時間はいくらでもあったはずだった。
しかしそれは私も同じだ。息絶えるまで、ただ静かにその時を待っていた。身体が固まって動けなかったのは本当だが、彼女からの解放を心から望んでいたことも本当だった。あの瞬間、死の音を聞きながら考えていたことは、彼女がいなくなった後のことだ。
彼女からの解放。もう身体が、心が傷つくことはない。
「有朱は何も悪くない」
そんなことはない。同罪だ。いや、私の方がもっと罪は重い。ああいった状況に彼女を追い込んだのは、他ならぬ私なのだから。
「もう少し、あと少しだけ待っていられたら……彩人が私を迎えに来てくれたのに、ね……」
床に落ちたワンピースを丁寧に畳んでくれていた彩人の背中に、そっと身体をもたれた。素肌が触れるとまだ緊張するが、同時に安心する。
「……迎えに来たでしょ?」
彩人の手が止まった。
「でも……私は人を……してしまった……」
それも、彩人の母親を。彩人と一緒にいる資格はない。
急に現実が恐ろしくなる。もたれた身体を起こし、彩人から離れようとした。すると突然彩人がこちらを振り返る。いつもより鋭い目線は密やかな怒りを携えていた。
「有朱は何も悪くない、悪くないんだよ……もし有朱が自分のことをそう責めたとしても、僕はそうは思っていない。それに、誰も本当のことなんか知らないんだ」
そう、私たちの犯したことは他に誰も知らない。それでも……。
「あの後警察から事情聴取されたと思うけど……母さんのことは自殺で処理された。もう終わったことなんだよ。これからは2人で……2人だけで生きていける」
薄暗い中かろうじて見える彩人の笑顔が歪なものに見えた。その言葉は嘘ではないが、本当でもない気がした。
「彩人はそれでいいの? いくらその……私たちを愛してくれなくても、あの人は彩人の母親だったんだよ……?」
真っ直ぐに私を見る目が潤んだ気がした。眼帯で覆われた右目に手を添えると、彩人の腕が背中に回される。
愛しい義兄の温かい熱が嬉しくて、悲しくて堪らない。
義母の死、ウサギとの監禁生活、彩人の熱……すべてが、まるで夢の中の出来事のようだ。
激しい眠気が襲い来る最中、彩人が耳元で囁いた。
生きていればどんな罪も記憶から薄れていく。
それと一緒に悲しみも苦しみも薄れていくから、少しずつ忘れていけばいい。
忘れられなければ一緒に背負い続ける。
暗示のようなそれは、私に前へ進む力を与えてくれた。
きっと忘れることは難しい。あの日のことは、彩人と一緒にいる限り背負い続けるだろう。それでも彩人と離れることはできない。
それならば……。
彩人が仕事で家を開けている間、春生に電話をかけた。
彼女には沢山の迷惑と心配をかけたため、少し話をしておこうと思ったのだ。
『……そうか、おばさんのことも思い出したのか』
電話の向こうの声は明るく、優しい感じがした。おかげで落ち着いて話すことができたと今になって思う。
「うん、今まで変な気を遣わせてたみたいでごめんね……もう、大丈夫だから。ずっと彩人に口止めされてたんでしょ?」
おそらく義母のことについて。それらの周辺の記憶について。
『ああ……ただ、私も謝罪をしたい。最初彩人の奴に状況を聞いた時は、お前を閉じ込めておくということに賛成だった。お前が傷つかないように、忘れさせておくのが一番だと思ったから……だが、時間が経つにつれてこのままではいけないと思い始めた。それで、奴のところから連れ出そうと思ったんだ』
春生は優しい。
義母が目の前で亡くなり、私がショックを受けていることを気にしていてくれたのだろう。それでも春生は知らない。私の過ちと彩人の決断を。
「でも、春生のおかげで私は彩人と顔を合わせることができたから……ありがとう。それで、どうして春生がお風呂係をしてたの?」
このことはずっと気になっていた。しかし、なかなか答えようとしない。なぜか春生は言い淀んでいる。
「春生、もう私は大丈夫だから。教えて?」
『……お前の身体を、お前の目に晒したくなかった』
「え……?」
『だから、その……』
その時、彩人の言葉が頭をよぎった。
私が自分の手で自分を傷つけ始めた……確かそう言っていた。
「ああ、そういうことだったの……傷を見れば思い出すかもしれないから…………私のお風呂係、彩人に頼まれたの?」
『そうだよ……事情を知って、快諾した。奴は自分が許可なく有朱の身体に触れるわけにはいかないと言ったしな』
一応そういうことを気にしていたのか。
急に笑いが込み上げてきた。彩人はいつも私のことを考えてくれていたのに、私はやはり……。
「なんか、やっぱり色々とごめんね、春生。今度……もし今度があったら、あの小さなヒマワリみたいな花の花束持って会いに行くから」
『だから、ヘリオプシス、だ。それに、今度は絶対あるだろう? おかしなことを言うなよ……』
「そうだよね……うん、それじゃ、また今度ね」
電話を切った後。いつまでも覚えられない花の名前と、春生の優しい声が頭の中を旋回していた。それと一緒になって混ざり合う、不安とドロドロした感情。
足はいつの間にか脱衣所に向いていた。浴室にある全身が映る鏡の前で、着ていたワンピースと下着を一枚ずつ脱いでいく。いつもはシャワーの熱で曇っている鏡が今ははっきりと私を映している。
「これ……」
久しぶりに見た自分の身体から、目が逸らせなくなった。
陽の光をあまり浴びないせいでモヤシのように白い肌を、ゆっくり指先でなぞっていく。
首筋と乳房につけられた赤い跡。これは最近ついたものだ。そして、肩や腹部についた紫の跡。これが、彩人と春生が私に見せたくなかったもの……。
愛情と自責が同居した身体に、とてつもない嫌悪感が湧いてきた。
「みにくい……」
足りない。まだ、足りない。
この傷では、許してもらうにはまだ足りない。




