44日目
44日目?
この日、10年ぶりに父親と再会した。
認めたくない、受け止められない、おぞましい……それでも、この日のこともまた忘れないように書いておかなければならない。他ならぬ私が、この罪を忘れないように。
夕方、彩人が仕事から帰る前に1人で買い物に出た。前回はできなかったから、今回こそは料理をして待ってようとしたのかもしれない。
春生とカフェで会ったあの日から、空はずっと曇ったままだった。今にも降り出しそうな空を見て早く帰ろうとした。しかしマンションから出た瞬間、夏の終わりには似合わない黒いコートを着た男に声をかけられたのだ。
「有朱、有朱だよな……? お義兄ちゃんが、なかなか会わせてくれなかったんだ」
私の面影を強く宿すその顔は、皺だらけですっかり生気を失っているように見える。それでも私を映す黒い瞳からは、何かの意志が感じられた。
「……お父さん……どうして、今になって……」
「つい一週間前もマンションを訪ねていったんだが、彩人くんがね……お前には会わせないと言うんだ。この間もお前が相模さんちの子と一緒にいるところを見たんだが、話しかけられなくて……それでも、どうしても確認したいことがあってな……」
何かの意志が感じられる、という表現は間違いだったかもしれない。まるで何かに取り憑かれているようだった。
父親は無骨な手で私の肩を掴むと、すべてを見透かすような目で私を見つめてきた。
「有朱、お前が……静を殺したんじゃないんだな?」
静、という名。殺した、という単語。
その時はすぐに頭に入ってこなかった。
「私……わたし、は……」
薄く綺麗なベールに落ちた小さな染みが、じわじわと広がっていく。やっと掴んだと思っていた幸福を、胸を撃つような衝撃が蝕んでいく。
「しずか……って、ころした……って……」
「お前の義母さんだよ、あいつが死ぬ瞬間、お前も一緒だったんだろう!」
吼えるような声が頭の中で響いた。身体を激しく揺さぶられる。すると、抑圧されていた嫌悪すべき記憶が次々と甦ってきた。
そうだ、あの日義母は死んだ。私が机の上に置いた、××××の花瓶の水を飲み干して。何もできなかった。そのまま苦しみ悶え、呼吸が小さくなっていく音を聞いているしかなかった。
あの人が自分から飲んだ。勝手に人を傷つけて、勝手に生から解放された。
私は、何も悪くない。
いや、私が……いや、私では……。
有朱は何も悪くない。
「悪く、ない……」
そのまま意識は暗転した。頬を打つ雨粒の冷たい感覚を残して。
「私は何も悪くない!」
道端でそう叫んで、足元のアスファルトが溶けて崩れていくような感覚がしたことまでは記憶にある。
遠くで誰かが泣いていた。
あの声は私だ。いや、あの女……静のものだろうか?
アンタが生きてるだけで大変なのよ!
それは2度目の言葉だった。続けて、呪いのような言葉が放たれる。
どうせアタシの苦労なんて分からないんでしょうけど……あのサイテーな男の子どもだもんね、平気で浮気するような、あの……浮気野郎の!
薄暗い居間、花瓶の置かれた机を挟んで静と向かい合っていた。時折窓の外が光り、互いの顔がはっきりと見える。それから少し遅れて、耳をつんざくような雷鳴が響いた。
「もう、いや」
美しくも憎らしい女の目が、じっと私を睨んできた。それでも怯むわけにはいかない。
「これでどちらかが死ねば、お互いが救われるの」
自分でも恐ろしいほど落ち着いた声だった。
静は目を見開いて、目の前の花瓶に視線をやった。
「でも、あなたには飲む覚悟なんてないでしょう!? ねぇ……」
身体の奥から絞り出した言葉は激しい雷鳴に打ち切られた。
目を覚まして最初に聞こえたのは、この世の終わりかというほど激しく轟く雷鳴。ベランダの床を叩く雨粒の音。まだ夢の中かと思ったが、ここはいつもの部屋のいつものベッドだった。
いつもウサギが座っていた椅子の方を見ると、やはり、白い耳の生えた塊が座っている。
「彩人……」
『ああ、目が覚めましたか』
懐かしい電子音。
「彩人……?」
『お腹空いていませんか? ご飯にしましょう』
ただ、今欲しいのはその声ではない。
「彩人!」
部屋の中がしんと静まり返った。
赤いふたつの目が、じっとこちらを見てくる。
「私、全部思い出したの。どうしてずっと黙ってたの? こうやって姿を隠して、私が思い出さないようにしてたの……? ねぇ、知ってたんでしょ? あの日、彩人は帰ってきたんだから……!」
その時、何かが割れるような音が響き、部屋の電気が消えた。近くに雷が落ちたのかもしれない。だが今は、そんなことを気にしている場合ではない。
「キミは見ていられなかった」
やっと、彩人自身の声で話してくれた。微かに声が震えている。
「でも、有朱は何も悪くない……母さんは、自分から毒を飲んだ。例え促されたからといって、その事実に変わりはないんだ」
あの日、生々しい嗚咽と肢体の痙攣を目の当たりにして私は動けなくなった。ただ目だけは、玄関の方から現れた彩人をはっきりと捉えていた。
「母さんの葬儀の後も、キミは酷く悩んでいて……何を見ても悲しくなって鬱いでいた。それから、自分の手で自分を傷つけ始めた……母さんが君に付けた傷痕を維持するかのようにね……だから、救うことにしたんだ」
葬儀の前後の記憶は今もあまりない。ただ彩人の、救うということがどのような行為だったのか今になって繋がった。
「その救う方法が、監禁だったの……?」
「有朱が悲しくならないように、視界を封じて……自分を傷つけないように、手足を拘束した……あの日のことを思い出させたくなくて、当分はこの部屋から出さないようにしたんだ……」
おかしな話だ。それで何が解決するのだろうか。ただ嫌なことから目を背けるだけだ。
「私……ずっと被害者だと思ってたの。どうしてこんな……忘れてしまったの」
「加害者として罪悪感に苛まれ続けるよりずっと良いって僕は思ってた……食事は食べてくれるようになったし、自傷行為はなくなったし、ね」
そうだ。彩人を責める資格はないのだ。結局私は現実から目を背け、都合良く全てを忘れ、被害者面をしていたのだから。
「……どうしてずっとこんな格好をしてたの?」
胸は鉛のように重い。鼻の奥がツンとして目頭が熱い。それでも涙は枯れしまっているらしく、泣いて楽にはなれなかった。
「キミがあの日の記憶を忘れてるって分かってから、目隠しを解いても大丈夫だと思った……でも、僕を見たらあの日のことを思い出すんじゃないかって……怖かったんだ。だから、姿も声も隠した。でも結局僕を見ても有朱はあの日のことを思い出さないでいてくれた……そのままでいられたら良かったんだけど」
そうして私は彩人の思惑通り、いや、偶然にも都合良くすべてを忘れてのうのうと生きていたのだ。この日までは。
あたかも自分が被害者のように。
ウサギの庇護に甘んじて。
彩人の告白に胸を踊らせて……。
「じゃあ、嘘だったの?」
暗闇の中、閃光が走る。ウサギの白い顔ではなく、愛おしい蒼白の顔が目に映った。
「好きって言葉も……」
光に遅れてやってくる雷鳴と声が重なった。声が届いたかどうかは、目の前の暗闇から迫る気配で分かった。
華奢で大きな手の熱が首に触れたかと思うと、強く抱きしめられた。温かい。酷く落ち着く彩人の匂いに混じり、雨の匂いがする。
「好きだから、苦しんで欲しくなかった……昔みたいに笑ってる有朱と、ずっと一緒にいたかったんだよ……」
すっかり憔悴し切った声に、罪悪感と苛立ちと……正体のよくわからない感情が様々湧き上がる。
「じゃあ、何があっても離れないように……繋がろうよ」
「……」
暗闇に目が慣れて、すぐ目の前の彩人がぼんやりと見えるようになった。軽く開いた唇に、自分のものを合わせる。
ほんの一瞬だったが、これまでの人生で最も緊張した瞬間だったかもしれない。
唇を離した後、恐る恐る彩人を見上げた。夜の空よりも深く黒い透明な瞳がひとつ、真っ直ぐに私を見ている。
「……意味、分かる?」
「……うん。いいの?」
その目は、苦しみと熱を同時に宿していた。
「うん……いい……」
言い終わらない内に口を塞がれた。これまでとは違う口付けに、頭の中が激しく脈打つ。
おそらく、どうしようもなくなったのだと思う。何をするべきなのか、何が正しいのか、分からなくなったのだと思う。
認めたくない、受け入れられない。
彩人と一緒にいるためには……。
自分のしでかしたことの重さに潰されないためには……。
ただ、その時は彩人に肉体を捧げたいと思った。それだけだった。




