37日目
37日目?
世間では夏休みが終わったらしい。
春生も世の学生と同じく始業式に行ったことだろう。
私は、というと。
在宅ワークの社会人がパソコンと向き合う後ろで、逆さにひっくり返っていた。
通常は背もたれに背が、カーペットに足の裏があるはずだが、今日は背もたれに太ももを置き、カーペット側に頭を持っていきたい気分だった。彩人はカーペットの上に座り込み、よく分からない数字やら記号やらを打ち込んでいる。
「……有朱」
「……ん、なに?」
ソファの背もたれに投げ出していた脚をばたつかせた。行儀は悪いが、これはこれで運動になる。
「それ、やめない?」
十中八九、この格好のことだろう。
「やっぱり行儀悪いかな?」
「その、見えそうだし……」
数秒考えて、彩人の言いたいことを察した。確かに、ワンピースの裾が太ももの更に上まで捲れている。それでも下着は見えていなかった。
「私の下着は彩人が買ってきてくれてるんでしょ? なら、もう見てるし別にいいかな」
そもそも、ずっと前を向いているのに後ろの様子が分かることに驚いた。彩人は背中にも目がついているのだろうか。
「え、違うよ! 下着は春生ちゃんにお願いしてたんだよ……」
「え……? あー……やっぱり、趣味がいいなって思った」
用意してくれていた下着は、ほとんどが私の好む淡い色のサテン生地だった。流石春生だ。
「こういうワンピースも春生?」
今日の服はフリルの付いた甘い系のワンピースだった。大体同じような、女の子っぽい服を毎日用意してくれる。ついでにパジャマもリボンのついた可愛らしいものだった。ただこれらの服には、皆白っぽい色という共通点がある。
「有朱の服は春生ちゃんと一緒に選びに……いや、買ってきたよ」
「彩人、こういう服が好きなの?」
狼狽える片目をじっと見つめると、彩人はパソコンに向き直ってしまった。
本当に分かりやすい。
「部屋の家具も白が基調だし、好きなんだね、白。こういう女の子っぽい服、私も好き……」
必死になって言葉を続けていると、彩人がほんの少しだけ振り返った。それでもキーを打つ手は止まっていない。
「有朱に似合うかなって、思ったんだけど……」
これまでの人生で言われたこともない台詞に、背筋がむず痒くなった。何と答えたら良いのか分からない。頬の熱を冷ましていると、いつの間にか彩人が身体ごとこちらを向いていた。
「そうだ、折角可愛い格好なんだし海浜公園に散歩でも行かない?」
「え……?」
冗談かと思ったが、彩人がパソコンを閉じた。これは本気だ。
「でも、学校には療養中って言ってあるんだよね……?」
原因不明の頭痛により意識を失ってから、彩人は急に過保護になった。いや、以前から良く世話を焼いてくれていたのだが。
この間のように突然意識を失うと困るため、学校にはひと月ほど休養すると彩人が連絡していた。勉強が一番心配だったが、彩人が教えると約束してくれたためその問題はなくなった。
「家の中に篭ったままなのもどうかなと思ってね……今度はちゃんと日傘をさして行こうか」
前回のこともあり、先日彩人が日傘を買ってきてくれた。帽子ではなく日傘なのも、彩人の趣味なのだろうか。
2人揃ってマンションの部屋を出るのはこれが初めてだった。春生と2人の時や1人で出た時はなんだか悪いようなことをしている気がしたため、穏やかな気持ちで出たのもこれが初めてだ。
「有朱は海、好き?」
「海?」
エレベーターの各階ランプを眺めながら記憶を辿ってみた。
「うーん、行った覚えがないからなぁー……」
「ああ、そっか。有朱まだ小さかったからね。家族4人で1度だけ行ったんだよ。どこの海だったかまでは覚えてないけど……降りないの?」
「あ……!」
また、エレベーターのドアが開いていることに気づかなかった。
「え……4人で出かけたことなんてあったの? それ嘘じゃなくて……?」
あまりに疑うせいか、彩人が笑い出した。
「そりゃ最後はバラバラになったけどさ、最初から不仲だったわけじゃないでしょ?」
「確かにそうだけど……信じられなくて」
幼かったから覚えていない、というわけではない。嫌な記憶なら沢山ある。義母と父親の言い争い、理不尽な暴力、負の連鎖……。
「その気持ちは分かるよ。有朱が物心ついた頃には、もうあんな感じだったもんね……でもね、義父さんと母さんだって最初はお互いが好きで一緒になったはずなんだよ」
彩人の言うことはわかる。ただ、もう信じられなくなっていた。望んでいたことの結果があれだったのだろうか。その間に挟まれ続けた私たちは、なぜあんなに苦しかったのだろう。
「ほら、見えてきたよ」
彩人の声に反応して顔を上げた。
「え? どれ? 早いね」
灰色の道路の上に青い輝きが見えた。空とコンクリートの間に濃い青のラインが通っているのは、なんとも不思議な光景だった。マンションのリビングからいつも見える海があれだろうか。
「海、入れるの?」
「確か砂浜が少しあったと思うけど……タオル持ってきてないよ」
「そうだね……」
白いレースの日傘で顔を隠すと、彩人が少し屈んで覗き込んできた。
「今度はタオル持ってこようか」
子どもを宥める親のような言い方だったが、その輝かんばかりの笑顔に誤魔化されてしまう。
「うん……」
こうして一緒に歩いていると、まるでデートをしているような気分に……などと考えてみたが、そう言えば彩人は兄だ。
「こうしてると、デートみたいだよね」
「うん……え?」
思考を読まれたのかと思った。しかし彩人が突然歯が浮くような台詞をサラッと言うことはよくある。これもそのうちの一つであり、深い意味はないのだろう。
それ以降変な沈黙が流れたが、記憶の限り初めて生で見る海を前に、声を出さずにはいられなかった。
「わー! 彩人、すごいね! 藍色だよ!」
紐のサンダルをレンガの道に残し、白い砂浜を駆けていった。波打ち際の水は透明で、触れたら気持ちよさそうだ。
「彩人、海水って本当は透明なんだ!」
「うん、そうだよ……って、本当に知らなかったの?」
振り返ると、私のサンダルを片手に彩人がこちらへ向かっていた。
「あ……ごめん、ありがとう」
「いいよ、気にしないで。水遊びはできないから、砂の城でも作る?」
砂の城、と聞いて少し前の夢を思い出した。あの夢の中の公園で、私と父親は砂の城を作っていた。それをブランコに座った彩人が眺めていた。
そうだ。この夢のことを話したくて、あの日彩人の部屋に行ったのだ。
砂の城を築城しながら夢のことを話すと、彩人は何だか困ったように笑った。
「やっぱり夢を見るんだね……それは、有朱にとって良い夢?」
城を目指したものの、ただ砂を盛っただけの山になってしまった塊にトンネルを開けるため、開通工事を始めた。
「うーん、良いのかは分からないけど……悪くはないと思う」
「なら良かった」
そう言って笑う彩人は儚げで綺麗だった。背景が真っ青な海と空だからだろうか。
「あ……」
トンネルのこちら側と向こう側が繋がった。指先が温かい手にぶつかった感触がしたのだ。砂にまみれた指に手を掴まれ、爪の形を一つ一つ確かめるように触れられる。
「……」
山を高く盛り過ぎて、彩人の顔は見えない。今、何を考えているのだろう。
驚かせようと、こちらから指を絡めてみた。砂が擦れるせいか、繋いだ部分がとても温かく感じる。
「有朱……好きだよ」
まただ……。
その言葉を聞くと、喜びと不安が半々になる。心臓も穏やかではない。
「彩人、それって……家族としてってこと……だよね?」
「どっちもだよ……もちろん、有朱が望むほうでいいから」
彩人は大人だ。私よりもきっと色々考えて生きてきただろうし、こういうこともよく知っているのではないだろうか。それなのに私に任せるというのは少し荷が重い気がする。
「私に託すの?」
「だって、有朱がいやなら強要したくないからね。望むほうでいいんじゃない?」
狡い。
「じゃあ、彩人が本当に望むのはどっち?」
これから、彩人と2人で生きていく。例えどのような関係だろうとそれは変わらない。それでも答えが欲しかった。
「彩人……」
繋いだ手が解けた。喉が締まり、胸がぎゅっと痛くなる。
やはり、家族以上は望まないのだろうか。それがふつうなのだが……。
身体中から熱が引いた途端、耳元に息がかかった。彩人の気配をすぐ隣に感じ、目を見ようと横を向いたその時。
「あや……」
言葉が出てこなかった。甘く痺れるような感覚が舌を伝い、温かい息が口の中に入り込んできた。
脳が、視界が、赤く染まっていく。
よく分からないでいるうちに、重なっていた唇が離れていった。
「好き、だよ」
一瞬、潮風が止んだ気がした。




