34日目
34日目?
彩人の仕事が休みだった、その日。私がここに来て初めて、マンションの呼び鈴が鳴った。
「誰か来たの?」
部屋に戻ってきた彩人はなぜか息を切らしていた。
「ううん、宅配の届け先間違っちゃったみたい」
首を傾げて笑う彩人に違和感がある。
何だろう。何かを誤魔化している気がした。仮にそうだったとしても、私に深入りする権利はない。
リビングのソファに横たわり、ケータイの画面を眺めた。この1ヶ月の着信履歴は、春生、春生、春生……。約1日1回、20件近くだ。不思議なことに、担任や部活の顧問からは連絡が一件もきていなかった。彩人が学校には連絡を入れていたのだろうか。
突然画面が呼び出しに変わり、危うくケータイを落としそうになった。
先ほどから20回近く見ていた名前だったため、何も考えずすんなりと出ることができる。
「はい、うん、私だけど……春生?」
彼女は私がおかしなことをされていないか何回も確認すると、これからマンションへ向かうと言い出した。そのことを彩人に伝えると、一瞬微笑みが崩れた気がした。
「え、春生ちゃんが来るって?」
「うん、遊びに来たいって」
そもそも、彩人と春生は彩人が行方不明になる前から顔見知りだった。私と春生が近所の公園に遊びに行きたいという時は、淳くんと一緒によく監視役でついてきてくれていたものだ。
そんなことも、今の今まで忘れていた。
やがて春生がやってくると、玄関で彩人と春生が何やら話していた。ほんの僅かな間だったが、やはり気になる。
「何話してたの?」
部活帰りの春生は夏服のセーラーを着ていた。あまりにも外が暑いためか、首のスカーフを外している。長い黒髪をポニーテールにした春生の首には汗の玉が光っていた。
「ああ、アイツが有朱に何か不自由なことを強いていないかの確認だ」
嘘ではないようだ。ただ、本当にそれだけなのだろうか。
彩人は冷たい麦茶の入ったグラスを2つ持ってきてくれた。
「じゃあ、僕はお邪魔かもしれないから向こうにいるね」
「ありがとう……ねぇ、春生」
彩人が部屋を出たことを見届けると、早速切り出した。
「なんで、私のお風呂係なんかしてたの?」
いつもより強い口調を意識して詰め寄ると、春生は切腹前の武士のように背筋を伸ばし正座をした。
「え、なに……?」
ソファから降りて春生の顔を上げさせようとすると、強い力でソファに戻された。
「そのことについて私の口からは言えないんだ……すまん」
「……どういうこと?」
「私には、どうやってお前にたどり着いたかの経緯くらいしか言えない……」
ずっと頭を垂れたままの春生を、呆然と見下ろすことしかできなかった。
春生は、更に言えば彩人は、何かを隠している。そもそもあの監禁は何だったのか。あれだってまだ何も分かってない。
ウサギが彩人だったことくらいしか……。
「分かった、じゃあ話せることだけでも教えてよ……監禁される前の記憶が曖昧なの……だから、何かわかるのなら知りたい」
春生に無理やり聞き出そうとは思わなかった。知りたいことに変わりはない。ただ、好奇心よりも恐怖が勝った。何だか例の頭痛の予兆がしたのだ。
「……1か月前の終業式は覚えているか?」
春生はカーペットに座り込んだまま、少しずつ話し出した。何かを気にしているような、慎重な話し方だった。
「うん、部活行く前に話したよね。確か、私は最近変だ、って春生言わなかった?」
「ああ、あれは忘れてほしい……それから三日後か……課外が始まったんだが、お前が来なかった。ケータイに電話しても出ないから、何かあったのかと思ってな……それで担任の田中に詰め寄ったら、お前は家庭の事情で休むと連絡があったと聞いた」
家庭の事情?
「どういうこと、それ……?」
彩人はやはり学校に電話していた。
「私もよく分からず……お前が心配になって、田中から保護者の連絡先を聞いた。それでお前の兄貴に繋がったんだ」
春生の口調があまりに慎重だったことは気になったが、それよりも、だ。
「なんで私の保護者が彩人になってたの……? だって、彩人はずっと行方不明で……!」
春生は何かを迷っているようだった。
「……そうだよ、行方不明だった。お前と幼稚園の頃から一緒なんだ、それは私だって分かっている」
春生の懇願するような視線に目頭が熱くなった。少し汗ばんだ大きな手が、優しく私の両手を包む。
「……なぁ、有朱……今からでも、親父さんと暮らすという手はないのか?」
春生の言葉が一瞬飲み込めなかった。少しの間を置いて漸く意味が分かると、頭の中が沸騰したかのように熱くなった。
「なんで今そんな話……お父さんは自分から家を出ていったんだよ!どこにいるかも分からないし、それに……あの人は、やだよ……彩人じゃ駄目なの? やっと、やっと戻ってきた唯一の家族なのに……」
喉が渇いた。なだれる感情を抑えきれない私とは対称に、春生は静かに言った。
「分かった、分かったよ……有朱」
何が分かったというのだろう?
春生は何も分かってない。
この時、また例の頭痛が襲ってきた。目の前に降り注ぐ無数の黒い影が、何かを映し出している。
あれは、見慣れた居間だ。畳の上の簡易机に、ガラスの花瓶が置いてある。薄く紅色に染まった花瓶の中には、透明な液体が……。
どこか遠くで、誰かが叫ぶ声が聞こえる。
どうして私を愛してくれなかったの?
「有朱、有朱……おい彩人!」
春生が私を呼ぶ声が遠くでした。




