29日目
29日目?
以前ウサギに何の仕事をしているのか尋ねた時、IT系と答えてくれた。
「いってきます、有朱」
「いってらっしゃい。お仕事頑張ってね」
ワイシャツと黒のパンツという全くいつもと同じ格好で出ていった彩人を、できる限りの笑顔で見送る。
そのIT系とやらは勤務時間が不定期なのだろうか。最近はお昼頃になると帰ってきていたが、今日は19時を過ぎると言って出ていった。
遅くなるということは、今日がチャンスだ。
玄関のドアが完全に閉じたのを見届け、作戦を開始することにした。
まず冷蔵庫を開け、中のものを確認する。
「うわ……キレイ……」
彩人は買ったものを使い切ってから新しい食材を買うタイプらしく、冷蔵庫の中には調味料と作り置きの麦茶くらいしか入っていなかった。
昨日の夕飯は、半端な食材を全て使って作ったという豪華なものだった。やはり食材は全て使い切られている。
「やっぱり買ってくるしかないか……」
そっと冷蔵庫を閉じ、一度自室に戻ることにした。
昨日、私のスクール鞄と制服を彩人が返してくれた。教科書以外にはケータイと財布、ハンカチ、それと学生証がきちんと整えられて入っていた。
鞄の中から財布だけ抜き取り、念の為にと受け取ったマンション入口のカードキーをその中に仕舞った。
リビングを抜け、玄関のドアを開く。
仕事から帰ってきて私が夕飯を作って待っていたら、彩人はどんな顔をするだろうか。
小走りでエレベーターに乗り込んだ。
「ええっと……」
確か地上は1階ではなく2階だった気がするが、本当にそうだっただろうか。
先日ここを出た時は春生に導かれるままだった。今思えば、春生はほぼ3週間ここへ通っていたのだ。
まだそのことを彩人に聞いていなかった。なぜ春生は……。
「あの……降りないんですか?」
声をかけられてはっとした。
「あ、すみません!」
気づけば、目の前には赤ん坊を抱いた女の人がいる。その後ろには、女の人の上品なブラウスと雰囲気の合うラウンジの景色が広がっていた。目がチカチカするようなシャンデリア、高そうな観葉植物、よく分からないオブジェ……。それらを横目に、マンションを出る。
「……」
久しぶりに見る青空は眩しかった。ガラス越しではない、目に染みる青だ。
確か、タクシーは大通りの向こうの角を曲がったはず。
「海浜公園……マリンタワー……」
歩いて数秒で、帽子か日傘を持ってこなかったことを後悔した。そもそもそんなものが彩人の家にあったのかすら分からないが。
「あつ……」
アスファルトの照り返しが想像以上にキツい。ワンピースの上に白く薄いカーディガンを羽織ってきたことがせめてもの救いだった。しかしどうしても我慢できず、日陰のあるベンチに座り込む。
こんな真夏日に頭丸出しなのは、木陰でヘタっている私くらいだ。買い物袋を提げた主婦も、手を繋いで歩く親子も、みんな帽子をかぶっている。
「買うか……」
そう決心したものの、帽子や日傘が売っていそうな場所はない。ふらふらとさ迷ううちに、見た事のある通りまで来ていた。
記憶に従い人通りの多い一本道を歩いていくと、緑のゲートが見えてくる。
あの看板は、グリーンロード商店街だ。いつの間にかこんな遠くに来ていたのか。
「やば……」
視界が歪んだ。
足元がふらつき、アスファルトが近づいてきたと思った瞬間。
「大丈夫!?」
冷たいジーンズの感触が頬に当たった。何だか不思議な匂いがする。
「えっと……」
青く染まる視界の向こうに、ぼんやりと男の人が見えた。
「え、有朱ちゃんじゃん! こんな所でどうしたの?」
「ん……淳くん?」
最近聞いたばかりの張りのある声だった。やっと目の焦点が合ってくる。
「あ、ほんとに淳くんだ……ありがとう」
「うーん大丈夫じゃなさそうだな。歩けそうか? ウチすぐそこだから、ちょっとだけ頑張れ!」
腕を引っ張られると、身体が浮いた。
「有朱ちゃんかるっ! 彩人のやつちゃんと食わせてるのか?」
背の高い淳くんに肩を担がれたら、当然こうなるだろう。
そのままひやま動物病院まで運ばれて、奥の椅子に座らせてくれたのは覚えている。しかし、出してくれた水を自分で飲んだ後のことはあまりよく覚えていない。
後から聞いた話だと、結構な時間眠っていたらしい。病院の方は大丈夫だったのか尋ねると、今日はあまりにも暑いせいか人があまり来なかったという。
「こんな暑い日に帽子も被らないで出かけて」
「俺がたまたま外に水撒きに出ていなかったらどうなってたか……」
大体こういった内容で淳くんにたっぷりお説教されたが、その内容もあやふやだった。
ただその後、私が何となく聞いたことはしっかりと覚えていた。
「淳くん、あのウサギはどうなったの?」
「ん? あのウサギって何だ?」
「淳くんが高校卒業したばかりの時、ウサギ小屋に遊びにきたでしょ? その時、パンダ柄のウサギさんが具合悪くなったの覚えてる?」
それともあれは本当にただの夢だったのだろうか。いや、それにしては記憶が鮮明すぎる。
「高校卒業したばかり……パンダ柄……ああ、いたな! 痙攣して倒れてるところを有朱ちゃんが見つけてくれたんだよな」
淳くんが頷いてくれてほっとした。
「そう、あの子。どうなったか覚えてる?」
「ああ、あれは毒成分のある草を食べたからだったな。あの後急いで親父の所へ連れていったけど、間に合わなかった……って、有朱ちゃんにその後伝えたような……?」
そうだった。その顛末についても以前きちんと聞いたはずだ。
「……その植物って何だったの?」
なぜ何もかも忘れてしまったのだろう。
「××××、だったな。今でもよく庭でペット飼ってる人に、××××には注意してくださいって言ってるよ」
胸が高鳴った。そうだ、私も一度その植物を世話したことがある気がする。
「それって、人にも有害なの?」
何気なく聞いたつもりが、淳くんはとても驚いたようだった。細い目が軽く見開かれている。
「あの時も有朱ちゃんそんなこと聞いてきたな……ああ、有害だ。最悪死ぬ」
死ぬ、という言葉が胸に重くのしかかる。これはウサギに対する罪悪感だろうか。あの日、あの花の葉っぱを採ってきたのは私だった。
「……私の、せい?」
「うん? どした?」
目の前を黒い影が過ぎった。また、例の頭痛が始まる。
「私のせいでウサギさんは……?」
いや、違う。そのことではない。
この頭痛の原因は……。
「何言ってんだよ、有朱ちゃんは悪くない!」
そう、私は悪くない……?
いつの間にか、病院のソファで眠っていたようだった。
目を開けると霞む視界に白衣のようなものが映った。淳くんがすぐ横に座っている。
「……ああ、そう。ウチにいるから……多分夏バテだ。熱もなかったし水も沢山飲んでたから、病院には運ばないでとりあえずウチに寝かせておいた……おう、じゃ、待ってる」
「淳くん……?」
「おおぅ!?」
突然淳くんがソファから立ち上がった。
「ごめん、驚かせた?」
「あ、ああ、大丈夫。起きたのか! これから彩人が迎えに来るから、それまでゆっくり寝てろよ」
はっとして起き上がると、もう窓の外は薄暗かった。寝過ぎてしまったらしい。
空を覆う紺色がもう少し濃くなった頃、彩人が迎えに来てくれた。一緒に淳くんにお礼を言い出ていったのだが、それ以降彩人は口を開こうとしない。
これは、もしかしなくても怒っているのだろうか。
「彩人……あの……!」
商店街の雑踏に掻き消されないよう、少し頑張って声を張った。
「ん……なに?」
少し前を歩いていた彩人が立ち止まってくれた。口角は上がっているが、目が笑っていない気がする。やはり怒っているようだ。
「ごめんなさい……勝手に家を出て」
黒い瞳が少しだけ細くなった気がした。
「どうして家を出たの?」
その時、彩人の手が腕に触れてきた。そのまま強く引き寄せられる。
「わっ」
何事かと振り返ると、自転車を押した人が慌てて通り過ぎていく。
「全然気づかなかった……ありがとう」
「どういたしまして。それで?」
「え? あ、ええと。今日彩人遅くなるって言ってたから、買い物に行って、私が夕ご飯作ろうかなって……思って」
最初は頑張っていた声量が徐々に萎んでいった。それと同時に視線も足元の石畳に下がる。
少し外に出ただけだったのだが、大罪を犯したような気がしてきた。額に嫌な汗が滲んでくる。
「そうだったんだ」
思いがけなく明るい声に、恐る恐る顔を上げた。するといつもの屈託のない笑顔がそこにはあった。
呆気に取られていると、彩人の左手が私の右手を掴んだ。そのまま軽く引っ張られるように進んでいく。
「帰ったら連絡先を交換しておこうか。心配しちゃうからね」
「うん……」
それよりも、人前で堂々と手を繋いで歩き始めたことに驚きを隠せない。兄妹とはこんなものだっただろうか。
「今日はもう遅いし、どこかで食べていこうか。有朱は何がいい?」
「え……私は……」
熱でまだ頭がぼうっとしているようだった。
その後、何を食べたのかよく覚えていない。




