27日目
27日目?
彩人については、幼い頃の記憶しかなかった。そのため何が好きなのか嫌いなのか、得意なのか苦手なのか、あまり知らなかったことに気がついた。
そのことを夕飯の準備中だった彩人に話すと、なぜか彩人の左頬を涙が伝った。
「え、どうしたの……!? 玉ねぎのせい?」
丁度玉ねぎをみじん切りにしていたところだったのだ。しかし彩人は包丁をまな板の上に置いて首を横に振った。
「有朱が僕のことを知ろうとしてくれてるから……嬉しくて」
「え……?」
涙脆いのだろうか。
とにかく料理ができるような状態ではない。白いシンプルなエプロンの裾で涙を拭う彩人に代わり、まな板の上に並んでいた玉ねぎを刻むことにした。
「キッチン、入るね」
カウンターからキッチンの方へ回り、よく磨かれたシンクで手を洗った。
「大丈夫、すぐに作るから……」
いつも優しい声色が、今は少し震えていた。
「お願い、手伝わせて。私だってできるから。家でずっと作ってたし……」
彩人の隣に立ち、包丁を握る。
「それ左利き用の片刃だから、切りにくいかも」
「え、彩人左利きなんだ……今まで気づかなかった」
これまでウサギについて知ろうとはしていた。ただそれは純粋な興味ではなく、監禁犯の素性を探る目的でのことだった。
「有朱は絵を描くことが好きだったね。いつもクレヨンで空を描いて見せてくれたよ。青と橙のクレヨンだけいつも先になくなって……」
振り返ると、驚いたような丸い目と視線が合った。
「だから、ウサギさんはクレヨンと画用紙をくれたの?」
「うん、そうだけど……有朱。そのウサギさんって呼び方はやめない?」
「どうして? だって、彩人がウサギさんだったんでしょ?」
「そうだけど……怖かった、よね。おかしな着ぐるみにずっと拘束されてたんだし……」
彩人の白い頬に、ほんのり紅が灯っていた。昨日動物病院で久々に顔を合わせた時は冷静な印象だったのだが、こうして見ると色々と顔に出やすいタイプなのかもしれない。
「うーん……でも、彩人って分かったから。それに……」
彩人と分からなくても、なぜかウサギに惹かれていた。この気持ちが、今ならばはっきりと分かる。
「何でもないよ」
まな板の方に向き直り、続きの作業を始めた。すでに中の種をくり抜いてあるピーマンを細切りにし、ニンジンも薄く刻んでいく。最後は鶏もも肉だ。
具を刻んでいる間、彩人は隣の電気コンロの前でフライパンに油を垂らしていた。
「もしかしてこの後、切った具材を炒めてそこにご飯とか入れる……?」
「そうそう、そしたらケチャップをあえるよ」
これは、もしや。
「じゃあ、卵を割っておかないとだよね?」
「うん、チキンライスは作っておくから、有朱は卵を割ってくれる? 一人2つにしようか」
間違いない。オムライスだ。
頬の緩みを隠そうと彩人の背後に回り、冷蔵庫のドアを開けた。
「そういえば有朱はオムライスが一番好きだったけど、今も好き?」
心臓がドキリと音を立てた。なぜ、覚えてくれているのだろう。
「今も一番好き……」
「そっか、良かった」
好きな物も、好きなことも、彩人のことは覚えていない。
「どうして彩人はそんなに覚えてるの?」
何だか悔しい気がして尋ねた。
「それは、有朱が好きだから。大切だったから覚えてるよ」
好き……?
開きかけた冷蔵庫を閉め、咄嗟に彩人の方を振り返った。
予想もしていなかった回答に、言葉が出てこない。火元を横目に見ながらこちらを振り返った彩人は、いつも通り微笑んでいた。
「ゆっくりでいいよ」
「え?」
「9年前は有朱だってまだ小さかったんだ。これからいくらでも時間はあるし、少しずつ僕のことも知ってくれたら嬉しいな」
輝かんばかりの笑顔に、金色の泡が弾けた。彩人の細い眉から、柔らかい目の縁から、艶のある唇から、その泡は立ち上っている。
「うん……」
その笑顔につい勘違いしそうになる。
彩人の言う、好き、とは妹としてだ。異性としてではない。そう頭の中で冷静に対処しても、口からは微かなため息が漏れた。
「好き、とか言われ慣れてないし……」
聞こえないようこっそりと呟いた。
彩人は天然タラシに違いない。
「卵はここに入れてね」
差し出された銀のボールを受け取り、片手で卵を割入れていった。
無心に卵を割っていると、ふと実感する。
こんなふうにウサギと……彩人と一緒に料理をするなんて、4日前までは考えられなかったことだ。
ずっと居なかった彩人がいて、ずっと私を縛り続けてきたあの女がいない。それにこれからは一緒だと彩人が言ってくれた。
夏休みが終わったら、ここから学校へ行って、帰ってくると彩人がいて、一緒にご飯を作って、寝て……。
ただ理想の生活を想像しただけなのに、例の頭痛が襲ってきた。3週間前より徐々に強まっているこの頭痛は、いつも突然やってきてはいなくなる。
「有朱……? どうしたの!?」
手が震え、せっかくボールに溶いた卵を零してしまった。
「ちょっと頭が痛くて……でも、大丈夫。時々あるだけだから……」
目を閉じた一瞬。暗闇に細い光が走った。見た事のある景色が映った気がした。
「あ、れ……? これ……私……?」
自分が何を呟いたのか、一瞬分からなかった。
目を開けると、彩人がいた。両手の指と指が絡まり、熱が伝わってくる。
「有朱……キミは何も悪くない、大丈夫だから……」
何のことだろう。
どこかで聞いたことがあるような言葉だった。それは暗示のように、頭の中に入り込んでくる。
そうだ、私は悪くない。




