プロローグ〜3日目
夢か現実か
朝起きて目を開けた瞬間、分からなくなる時がある。
「ああ、有朱ちゃん起きたの!」
甲高い声に思わず耳を塞ぎたくなったが、腕は驚くほど重かった。ふと視線を落とすと、右手の甲から細い管が伸びている。皮膚と管の繋ぎ目を塞ぐガーゼに、錆びた赤色が染みていた。
「なに……これ」
「何言ってるの、点滴じゃない。あなた昨日緊急で運ばれてきたの、覚えてる?」
いつの間にか白衣姿の女の人が目の前にいた。いや、少し前からそこにいて私の様子を 伺っていたのだろう。看護師らしき女の人は、日焼けしたカーテンを開けるとこちらに向き直った。
「すごくいい天気よ! もう夏も終わりなのに 暑いわぁ。そうそう、気分はどう? 腕や脚に痺れはない?」
どう、と聞かれても。口を動かすことさえ億劫になるほど、身体中が重かった。
「へーき、です」
「そう……良かった、後遺症もないみたい。この後先生呼んでくるから、その時ちゃんと具合について話してね」
ころころ笑ってよく喋る看護師さん。薬品の独特な匂いや染みの残る古い壁。それに清潔なシーツ。どこかの病院だった。
「ついさっきまでお兄さん来てたのよ」
「え……?」
喉の奥がぎゅっと締まった。俯くと息が詰まる気がして、看護師さんが開けてくれた窓の方を向く。この位置からだと、ちょうど空の青だけが窓枠で切り取られたように見える。窓越しに聞こえるヒグラシの声を聴いていると、早い脈が少しずつ治まってきた。
「それで、目が覚めたらこれをあなたに渡してほしいって言われたの。持てるかしら?」
差し出されたのは一冊のノート。30枚綴りの、背表紙に赤いテープが貼ってある無地のノートだ。
表紙には題も名前も書いていないが、それがすぐにあの<記録>だと分かった。腕が容易に上がらないことも忘れ、慌ててそれを受け取る。
「あらぁ、何か読まれたらまずいことでも書いてあるの?」
看護師さんの口角にシワが寄っていた。冗談交じりの調子に合わせて適当に微笑んでみせる。
「ええ、そうかも」
すると更に、看護師さんの頬にシワが寄る。
「じゃあ私たちがいない時に読まなきゃね。今から先生呼んでくるから、その間にどうぞ」
看護師さんが部屋を出ていくと、ヒグラシの声がより一層はっきりと聞こえた。しかしそれ以上に、心臓の鼓動が煩い。<記録>を持つ手がじわりと汗ばむ。
「はぁ……」
一度深呼吸して<記録>の表紙を開いた。そこには丸みを帯びた字の羅列があった。みんな私の字だ。次のページも、また次も、やはり私が書いた字が続く。
「3日目、6日目……」
次々とページを捲っていくと、46日目という表記以降ページは真っ白になった。
今、どうやら私は47日目以降を生きているらしい。
徐々に速まる鼓動が恐ろしくなり、<記録>を閉じた。もう開きたくない。見たくない。
「でも……」
確認しなければならないことがある。看護師さんが医者を連れて来る前に。
もう一度深呼吸して、そっと表紙を開けた。
3日目?
微かなアラーム音で目が覚めた。今日も視界は真っ暗。手足は、やはり動かない。無理に動かそうとすると、ナイロンのスカーフが擦れる音が聞こえる。どうやらずっとセーラー服のままのようだ。
ここに来てからおそらく三度目のアラーム音が鳴り響いている。それと合唱するようなアブラゼミの声は、分厚い壁を隔てているのか本当に微かにしか聞こえない。
無機質なアラーム音を合図に床が軋む音がした。今私の全てを握る彼、もしくは彼女が起床したのだろう。
遠くでドアの開く音がする。軽快な足音がだんだんと近くなってきた。
『おはようございます、有朱』
パソコンのキーを打つような音と共に無機質な音声が部屋に響いた。もちろん返事はしない。したくない。
『それ、痛くないですか?』
それが指すものは手足を拘束している何かだということはもう分かっている。仕方なしに小さく頷くと、すぐにキーを打つ音が聞こえてきた。
『良かった。朝ご飯にしましょう』
するといつもの通りドアが閉まる音がした。挨拶だけすると出ていく彼、あるいは彼女はこの後しばらくすると戻ってくる。
『今日のメニューはスクランブルエッグとベーコン、トースト、サラダです』
芳ばしい香りを引き連れて戻ってきては、毎回ご丁寧に朝食のメニューを教えてくれる。空腹の胃を刺激する匂いに唾液が出てくるのは何とも情けない。しかし唇に食べ物の温かい感触が押し当てられると、無条件に口が開いてしまう。与えられるままに食べ続け、やがて食器の音が止むと食事は終了だ。
この後トイレまで運ばれ、それが終わると彼、彼女は出掛けていく。
どのくらいの間不在なのか正確には分からないが、お腹が空く頃には帰ってくる。学校に行っているのか、それとも仕事に行っているのか。
一人になる時間はこうして彼、彼女のことに思考を費やして過ごす。視界と手足の自由を奪われていては、他に何もすることがないからだ。
これはいわゆる監禁なのだろう、とは思う。
しかし、これは本当に監禁なのだろうか。彼、彼女の様子を伺っていると、何だか疑わしくなってくるのだ。
監禁といえば、
「暴行、脅迫、食事なし……?」
そういった方面に知識のないごく普通の高校生が「監禁」と聞いて思いつく言葉を口にしてみた。しかし奇妙なことに、これらは彼もしくは彼女の行動に一切当てはまらない。私に必要以上に触れてくる事はなく、脅すようなことも言わない。その上三食きちんと与えてくれる。
彼、彼女は何を考えているのだろう。そもそもなぜ私の名前を知っているのだろう。まさか、監禁犯は知り合いなのか。それとも鞄の中の生徒手帳を見て知ったのだろうか。
私はどうやってここから逃げればいいのだろう。
あれこれ考えていると意識が遠のいてくる。
『今日はお風呂に入りましょう』
この日帰ってきた彼、彼女が最初に口にした(?)言葉だった。
「え?」
思わず驚きが口に出てしまったが、彼、彼女からの反応はない。
誰とも知らないこの人物に身体を見られるのだろうか。そう考えると、顔中に血が集まってくるような気がした。抵抗の言葉が頭の中を旋回する間に身体が宙に浮いた感覚がする。柔らかい熱が太ももに伝わってきた。
「あ、あの……お風呂は……いや、です……」
咄嗟の否定の後。沈黙が訪れ、空気が冷えていくのを感じた。身体が突然柔らかく弾むものの上に投げ出される。脳が揺れ、一瞬の吐き気が襲い来る。何が起こったのか理解できないでいる内に、拘束された両手を強く掴まれた。
『あなたは今、ワガママを言える立場ではないんですよ』
平坦な機械音はいつもと同じはずなのに、言葉が胸に突き刺さる。拘束具の上から更に腕が握りしめられ、骨が軋むような気がした。
「痛い……っ」
思わず声が漏れると、急に痛みは消え去った。腕が解放され、上に覆いかぶさっていた人の気配が離れていく。
『……さぁ、行きましょう』
彼、彼女は何事も無かったかのように私を抱えた。身体の震えを悟られないようにじっと耐えるつもりだったが、それはできなかった。
とうとう監禁犯が本性を現した!
先ほどの出来事は夢ではない。鈍い痛みの残る両腕と激しく脈打つ心臓が、そのことを裏付けている。
やがて薄いマットのようなものの上に足が降ろされた。腕と足の拘束具が外され、更に数日間着たままだった制服も取り払われれば、羞恥を忘れて解放感に浸ることができた。久しぶりに肌が外気に触れ、ゾクゾクするような感覚が背中を這い上がってくる。
「あ、の……」
目隠しは取らないのか尋ねようとしたが、先程の恐怖が蘇る。余計なことを言えばまた……。
目を覆う布のようなもの以外纏っていたもの全てが取り払われた後、そっと背中を押された。この壊れ物を扱うような優しさが今は恐ろしい。
促されるまま進むと、足の裏に冷たいタイルの感触がする。そのまま立っていると、突如轟音が響いた。同時に熱い水が身体中を襲う。あまりの熱さに足踏みすると、シャワーの量を少なくしてくれた。ここでほっとしたのも束の間、腹のあたりにぬるぬるした何かが這い出す。
「ひっ……」
奇妙な感触に思わず喉の奥から声が漏れた。石鹸をつけたタオルだろうか。泡の弾ける音と息の漏れる微かな声が、頭の中をじんわりと支配していく。
胸や脚を這うタオルを意識すると、耳まで熱くなってきた。纏わりつくような視線を感じる。
この人物は彼なのだろうか、彼女なのだろうか。
これまで彼、彼女の目論見ばかりに気を取られ、この単純な疑問を忘れていた。身体を滑るように洗う優しい手つきは、女の人のような気がする。しかし普段身体を抱える時の腕はしっかりとしていて、男の人のような気もする。
彼、もしくは彼女は誰なのだろう。




