現実世界〜『チーターローション』の場合〜
「イソゲー!チコクだチコク!イソゲー!チコクだチコク!」
私の意識が睡魔の淵から起き上がる。私は寝ぼけ眼のまま、腕を伸ばした。
不思議の国に走っていきそうなウサギ型の目覚まし時計を少し乱暴に叩いて止める。
内心ではもう一度布団をひっ被って夢の世界へと向かいたかった。昨日は勝利を収めた後もゲームの仲間達と遅くまで喋っていた。その証拠を示すように私の枕の側にはVRの装置が転がっている。
だけど、一眠りしようものなら次は機械仕掛けのウサギではなく、口煩い母さんが起こしにくるのだ。それは避けたかった。
「行きたく・・・ないな・・・」
こぼれ出た弱音を振り払うように、私は意を決して身体を起こした。
大きく上に伸びをする。後頭部に手をやると、四方八方に飛び出た寝癖が出迎えてくれた。
癖毛ゆえに寝癖がつきやすいのは仕方ないが、こういう日にはいささか気分を重くさせる。
「ふぁ〜あ・・・」
私は布団を手でどけて、ベッドの手すりにに手を置いた。
両腕で身体をずらし、ベッドの淵に腰掛ける。
そして、私は手すりに体重を預けた。前傾になるような姿勢で腰を浮かし、震える足で僅かな距離を移動する。
そして、次に腰を下ろした場所は車椅子の上だった。
ブレーキを外して、車輪を回す。
開けっ放しのドアを通り、廊下を抜け、リビングへと向かう。
「おはよー」
弁当作りで忙しそうな母さんに一声かけて私は食卓の前でブレーキをかけた。
用意されているコーヒーに口をつける。ミルクと砂糖とカフェインが私の脳に活力を入れてくれるはずだ。
「ちーちゃん、今日病院だっけ?」
「ううん、明日。リハビリの日だよ」
食パンにピーナッツバターを塗ってひとかじり。
やっぱり朝は食欲が出ない。
VR世界で槍弓を持って駆け回り、『チーターローション』なんて名前を持っている私の現実はこんなものだった。
私、千代田 知寿は足が動かない。
いや、動かないわけではない。リハビリを重ねてなんとかベッドから車椅子への移乗ができるようになった。
でも、この身体を支えるにはあまりに心許ない。
「ごちそうさま〜」
母の背中に声をかけ、私は洗面所に向かう。私専用の低い洗面台の前で顔を洗って、歯を磨き、寝癖だらけの髪を整える。何度も浮かんでくる欠伸を噛み殺しながら私は学校に行く準備を進めた。部屋に戻り、ベッドに制服や下着を放り込んで、ベッドの上で着替える。足の動きが悪いから、寝転がった方が着替えが早いのだ。
携帯をチェックする。メールも電話もない。
「ふぅ・・・・」
思わずため息が漏れていた。
私は鞄を持ち、リビングに戻る。テレビの時計は7:30を示していた。
私が家を出るのはいつも7:45分ジャスト。そこから、電動車椅子に乗り換えての登校である。
時間になったので玄関に行き、外出用の電動車椅子に身体を移した。
これは高校進学のお祝いに買ってもらったものだった。せっかく、距離の近い高校に入学できたのだ。毎日、母に送り迎えしてもらうのは悪いと思ってのおねだりだった。
それに、今までの登校方法では友人と遊びにも行けないのだ。
「行ってきまーす」
リビングの奥に声をかけて、横にスライドさせるタイプのドアを開ける。
今日はいい天気だった。
門を出て左右を確認。
外には誰もいなかった。都心から少し離れたベッドタウン。今から出勤するには少し遅いし、学校に行くには早すぎる。
私は道に沿って車椅子を進めた。
私の家のすぐ裏手には大きな公園があり、ここを突っ切っていけば随分と近道できるのだが、生憎と階段が多い公園なので私は通れない。大きく迂回して公道を行く。
車通りは少ないが、すぐ右手に土手が迫っているため少し圧迫感のある道だ。
だが、ちゃんと歩道があるので私としては安心して通学できる。
木漏れ日が眩しくて、手を翳した。
春ももう終わりそうな季節、夏服が待ち遠しいが、それは雨の季節の到来でもある。
車椅子通学の私には辛い時期だ。
雨の日は自分が不自由な存在であることを否応なく突きつけてくる。
「はぁ・・・」
俯いた私の視界に入ってくる両足。
スカートから突き出たその足は骨と皮だけなのではないかと思うぐらいに細く、痛々しい。
それに対して車椅子を押し続けてきた二の腕の逞しいこと。掌も分厚く、大きくなってしまった。
私はこんな自分の身体が大嫌いだった。
子供の頃、ある病気のせいで足に体重をかけることを長いこと禁じられていた。
悪性腫瘍、早い話が癌だった。抗癌剤のお陰でなんとか中学2年には入院生活からオサラバできたが、弱り切った足腰は度重なるリハビリを続けてもちっとも発達しない。
お医者さんはいつか必ず歩けるようになると言っていたが、その『いつか』は大分先になるだろうと私は思っていた。
没入型VRゲーム
それが発売されるまでは。
電脳世界にアバターと呼ばれる仮想肉体を作り、それを首からの電気信号を拾って動かす。
それは電脳世界にもう一つの肉体を生む技術だった。
こんな私にとって没入型VRゲームの存在はどう控えめに言っても神様からの贈り物だった。
私は何年かぶりに自分の足で立って、走る感動を手に入れたのだった。
あの日のことは今でも忘れない。
仮想の身体で、仮想の大地だったけれど、あの日、私は確かに歩いて、走ったのだ。
校門が近づき、警備員のおじさんに挨拶。私は今来た道を振り返った。
まだ、8時過ぎ。登校している生徒はまばらであった。
下駄箱で靴を履き替え、スロープを登る。
バリアフリー化している学校は本当に有難い。
教室の私の席は出入り口に1番近い、ドア側の1番後ろでほぼ固定だ。
「おはよー」
まだほとんど空席の教室だが、皆とは既に結構な顔馴染みである。友達を作るのは上手いほうだ。
入れ替わりの多い病室にいた頃の経験なのであんまり嬉しくない話ではあるが。
いつもは仲の良い人達と雑談でもして過ごす朝の時間だが、今日は少し趣きが違った。
「千代、お願いがあるの!」
パンッ、といういい音で拝み手をしてくる友人が待ち構えていた。
バスケ部の彼女は朝練終わりで制汗スプレーの匂いを放っていた。
「どうしたの?」
「実は・・・今日、遠足の栞作りがあるんだけど」
「ああ、そういえばそんな当番に当てられてたね」
「お願い!代わって!今日、顧問がレギュラー決めの紅白戦やるって言い出して!絶対に部活にフルで参加したいの!お願い!埋め合わせは絶対するから!」
私は部活に一生懸命な人は好きだ。自分に出来ないからこそ、憧れるし、尊敬する。
そんな友人が頭を下げて頼みに来てくれたのだ。
断る理由なんかない。
「いいよ」
「ほんとっ!良かったぁ・・・千代に断られたどうしようかと」
「あれ〜?他に友達いないのぉ?」
「いるよ!いるけど・・・バスケ部の奴はダメだし、他もみんな断られた」
遠足の栞作りなど手間暇がかかるだけの単調な作業だ。
進んでやりたがる人なんてそういない。
「千代に頼むのは気が引けたけど、もう最後の砦だったんだよ」
「えっ?それこそ最初に相談してくれたらいいのに。私、リハビリの日以外は大抵暇してるよ?」
「いや・・・だって・・・」
彼女が何を言い澱んでいるのかはすぐにわかった。
「それこそ気にしないでよ。別に学校の中どこだって行けるし、下手な荷物運びなら男子並みに力になれるよ」
「あ、そういや、そうだな」
車輪付きなので下手したらそこらの文化系男子よりも多くの荷物を一度に運べる私である。
「私としてはあんまり気を使って欲しくない。車椅子だからってハンデでもなんでもないから」
「あ、うん・・・ごめん、気、悪くした?」
少し恐る恐るといった彼女。
私は威嚇の意味を少し込めてニッコリと微笑んだ。
「次、似たような気遣いしたら。私怒るから」
「い、以後、気をつけます」
ピシリと直立して、敬礼。さすがにノリが良い。
「ってなわけで、今度スイーツで手を打ちましょう」
「ははぁっ!ありがたき幸せ!本当にありがとうございまするー」
「いいのいいの、どうせ今日暇だし」
再び拝み手をする友人に私は普通の笑顔で笑いかけたのだった。
――――――― ※ ――――――― ※ ――――――― ※ ―――――――
「ごめん・・・ほんっとうにごめん!」
私は土下座するような勢いで親友に頭を下げていた。
相手は髪を肩で綺麗に切り揃え、細縁のメガネをかけた女子だ。身長の割に大きな胸が女子の私からしても羨ましい。
ちなみに私はどう取り繕っても『控え目』という評価に落ち着く。
彼女は『捨て鉢』のヒーローネームで私とよく一緒にプレイしている『蜂巣 華美』である。
「ねぇ、千代」
「はい・・・」
私は千代田という苗字を略して千代と呼ばれることが多い。
「あなたが言い出したことだったよね。今日、買い物に付き合って欲しいって」
「はい・・・」
「それなのに今日予定を入れるってどういうこと?」
「ごめんなさい・・・」
華美は大仰にため息をついた。
「あなた、頼まれごとを手当たり次第引き受ける癖、いい加減なんとかしなさい」
「いや、うん・・・わかってますよ。わかってますけど・・・」
「けど、なに?」
「なんでもありません」
逆らえる雰囲気ではなかったし、私に何かを言い返す権利はないように思えた。
華美は私を冷たい視線で睨みつける。
ここはひたすらに反省のポーズで耐えるしかない。
「反省してる?」
「もちろん!」
「じゃあ、もう頼みごとをひょいひょい引き受けたりしない?」
「・・・それとこれとは・・・」
「友達やめていい?」
「ああっ!ごめん、ごめんなさいぃ!」
だが、こればっかりはしょうがないのだ。
私が人の頼みごとを断ったりしたら、例えそれがどんなことでも『車椅子だから仕方ない』と誰もが思うだろう。そして、そう感じた人は二度と私に頼みごとをしてこない。それが私はたまらなく嫌なのだ。
そんな私の意地のせいで華美に迷惑をかけたのも一度や二度ではないので、私は基本的に彼女に頭が上がらないのだ。
「だいたい、あなた今の状況理解してる?」
華美は急に声のトーンを落として顔を寄せてきた。
話題の内容を察して私の顔の笑みが引いていく。
「夜遅くなることは控えろってあれほど言ったじゃない」
「うん・・・」
「誰かに相談した?」
「まだ・・・でも、大丈夫だよ。昨日は電話もメールも無かったし・・・」
私は半ば自分に言い聞かせるようにそう言った。
「大丈夫だって、昨日も今日も何も無かったんだから」
「・・・何かあってからじゃ遅いでしょ!やっぱりここは・・・」
「おーい!出欠とるぞー!」
まだ、何か言い募ろうとした華美だが、教師が来て話を飲み込んだようだった。
「じゃ、今日はごめんね。埋め合わせは必ずするから」
「千代、そんなことよりも・・・」
私もこれ幸いにと話を切って席に戻る。
華美は心配しすぎなのだ。
私は机の下でサイレントモードにしている携帯を見る。
ゾクリと鳥肌が立った。
着信が来ていた。
また、見知らぬ番号だ。
私は慌ててその番号を着拒の欄に放り込み、履歴を消し去る。
着拒に登録している電話番号が既に枠一杯になってしまっていた。
私は胸の奥で湧き上がった生理的な嫌悪感を飲み込んで、身体の震えを抑え込む。
「大丈夫・・・大丈夫だ・・・」
たかが、イタ電である。
私は自分にそう言い聞かせ、ホームルームに耳を傾けた。




