現実世界〜静寂〜
俺は病室の中に座っていた。目の前には白いベッドに寝かされた意識のない知寿が横たわっている。その目は閉じられ、眠っているようにも見える。だが、先程から千代の母さんが何度声をかけても彼女の意識が戻ることはなかった。
病室の中に心臓の動きを刻む電子音だけが響いている。
ベッドで寝ている知寿の隣に座る俺。
こういったことは初めてではなかった。
思い出すのは知寿が1番辛かった時期だ。
抗癌剤という薬は投与してから1週間から2週間前後で副作用が出現しはじめ、それが更に1週程続く。
知寿は強烈な吐き気や頭痛を抑える為に大量の薬を飲んでいた。その中には睡眠薬に似た薬もあった。意識を手放すことで、痛みも忘れられるという理屈はわかりやすい。
知寿の見舞いに来ても、知寿はいつも終始夢見心地でろくに焦点の合わない目をしていた。声をかけても反応は鈍く、常に半分は眠っているような状態だ。
あの時もこうしてずっとベッドの側に座っていた。
長い入院生活で私物の増えた個室。知寿に一方的に話しかけるのも飽きて一緒にゴロ寝したこともあった。
吐瀉物を吐きかけられて病院でシャワーを借りた日もあった。
あの頃から俺は何が変わったのだろうか。
俺は唇を噛んで俯いた。
「何も・・・変わんねぇな・・・ほんと・・・」
俺は口の中だけでそう呟いた。俺は医者じゃない、看護師でもない。苦しむ知寿を前にして何もできない。あの頃の無力な自分から何も変わってやしなかった。
子供だから仕方ない。何もできないのが当たり前。
どんな言い訳も虚しく聞こえる。
俺が万能ならどれだけ良かったか。俺が最強ヒーローならどれだけ楽だったか。だが、現実はこうして何も出来ずに俯くことしかできない。
俺はさっきからずっとそんな堂々巡りを繰り返していた。
「母さん、ちょっと」
「・・・・・・」
廊下から与一さんが声をかけ、俺は一人で病室に取り残される。
廊下の向こうには千代の父親も来ているのが見えた。
帰ろう、と思う。
家族が揃ったこの場に俺がいるのがひどく場違いに思えた。
それと同時に湧き上がってくるのはさっき吹き飛ばしたはずの罪悪感だった。
千代の父親に合わせる顔が無い。
彼女が倒れる時に隣にいながら何も出来なかった自分をどう説明すればいい。
今すぐに帰りたいと思っていた。
俺は布団の隙間から知寿の手を探す。
最後にこいつの手でも握ってやろうと思ったのだ。
探りあてた知寿の手は酷く冷たくなっていた。その手に自分の手を重ねる。知寿の手は年頃の女子にしては分厚い皮に覆われ、肉刺が重ねって固くなっていた。車椅子を回し、リハビリを頑張ってこなしてきた手だ。柔な造りなわけがない。
この手をあいつは随分と嫌っていた。
女の子らしい、小さくて柔らかい手が欲しかったとボヤいていたのを思い出す。
「・・・・・・くそ」
さっきから昔のことを思い出すなんてどうかしている。これじゃあ、まるで・・・
俺は目頭が熱くなっていくのをなんとか堪える。涙をこぼすまいと目尻に力を込めた。
なんで泣いてんだ。知寿が死んだわけじゃあるまいし。
だが、一度忍び寄ってきた不安感はそう易々とは打ち破れなかった。
知寿がこのまま目覚めない未来が脳裏に浮かぶ。意識が回復しなければ彼女は弱っていくだけだ。もう、彼女の声を聞くことはない。彼女の笑顔を見ることもない。
もしそうなったら、俺はどうしたらいい・・・
「バカヤロウ・・・」
妙な考えを振り払うように俺は首を振った。その拍子に知寿の手の上に水滴が溢れ落ちた。
それは決して涙ではない。涙であるわけがない。
俺は袖で顔を拭った。
そして、ノックの音が聞こえる。
ドアが開いて、そこに千代田家の人達が立っていた。
俺は知寿の手を離して立ち上がった。
「あの・・・おれ・・・帰ります」
顔を見られたくなくて、俺は顔を伏せ、3人の隣を通り抜けようとした。
3人が止めようとする気配があったが、俺は無視して走り抜ける。
だが、その奥にはまだ人がいた。俺は勢いを止められずにその人に真正面からぶつかってしまった。
「あ・・・すみま・・・」
「おい、どこ見て歩いとんねん!ちゅうか、一人で帰ろうとすんなや!お前先週襲われたん忘れたんか!」
「・・・・・・・あ」
そこには見慣れた連中が立っていた。
猿、蜂巣、そして後輩。
俺は慌ててもう一度目元を拭った。
「なんやお前・・・泣いとったんか?」
「・・・うるせぇよ」
今更「泣いてない」などとは子供っぽくて言えなかった。
「そんな悪いんか?」
「そうじゃねぇけど・・・涙が出てきてたんだよ。言わせんな」
涙を拭き取り、顔を上げる。
「・・・千代はどうなの?」
蜂巣がそう聞いてきた。
「意識が戻らない・・・いつ、戻るかもわからない」
「・・・そう」
蜂巣は短くそう言った。冷たく聞こえる台詞だったが、蜂巣の顔には強い心労が浮かんでいた。
ここに来るまで随分と急いだらしい。彼女は部屋着にパーカーを羽織っただけというラフな格好をしていた。
「先輩、入っていいですか」
それは俺に聞くことじゃ無い。
俺は隣の千代田家の面々を振り返った。
3人は快く了承し、俺たちは病室の中へと入っていった。
もう一度近くに寄った知寿はさっきと同じように眠り続けたままだ。
猿達はさっきまで俺がしていたように声をかけたり、手を握ったりしていた。だが、結果は同じだ。誰が何をしても知寿を目覚めさせるような奇跡は起きなかった。
俺は一歩引いたところで皆を見ていた。今、知寿の隣にいったら涙を止められる自信がなかった。
皆が一通り知寿に声をかけた頃を見計らい、与一さんが「送っていく」と言った。
俺達はその言葉に従い、知寿の病室を後にしたのだった。
病院の外は既に真っ暗であった。
日が沈んでから外を出歩くのは襲撃を受けたあの日以来だ。
俺は夜空を見上げて、まだ痣の残る自分の首元をさすった。
「君たち、妹のために来てくれてありがとう」
与一さんがそう言った。
与一さんと面識があるのは俺と後輩君だけだ。猿と蜂巣は小さく「いえ」と返事をしていた。
俺は与一さんの横顔を見る。そこにはいつもの爽やかな顔はない。妹がこんな状態なら当然だろう。
「あ、あの、与一先輩」
「なんだい?」
「千代・・・知寿先輩は・・・なんで、急に倒れたんでしょうか?前からあった病気と関係が・・・」
後輩はそう尋ねた。
俺が答えても良かったが、与一さんが先に口を開いた。
「知寿の病気はもうほとんど完治してる。再発の可能性は今もあるけど、今回もはそれじゃない」
「じゃあ、原因は?本当にわからないんですか?」
家族なら医者から何か聞いてるんじゃないのか?
そんな声が聞こえてきそうだった。
それが良いことであれ悪いことであれ、知っておきたいという気持ちは痛いほどにわかる。だが、医者から聞いた話はそれで全部なのだ。他に伝えられることなど残っていなかった。
「・・・ああ、わからない・・・今は、な」
その言葉を聞き、友人達の空気がより一層重いものになる。
「・・・そう・・・ですか」
落胆が後輩から伝わってくる。
だが、僕は驚いて与一さんの顔を見上げていた。
与一さんは『今は』と言った。その言葉が出るということは『今後は』わからないということだ。
それは与一さんの希望的観測なのか、それとも確信のある事実なのか。
見上げた与一さんの横顔には悲壮感など微塵もなかった。今の与一さんは道場で剣を握る時と同じ顔をしていた。
目標を見据え、剣を振る顔だ。
与一さんは俺が見上げているのに気がついたのか、俺に目線を合わせてきた。
「・・・タケル、それと君達も・・・明日、知寿の見舞いに来てくれるかい?」
ともすれば、妹のことを思う兄貴の台詞だ。
意識のない妹に奇跡を起こせるのは友情だとでも言いたげな言葉だ。
だが、与一さんの目にはそんな奇跡に縋るような弱々しさはまるでなかった。
そこに潜んでいるのは相手を一刀両断せんとする、殺意と忿怒に身を焦がした炎だった。
そこには「この世の理不尽に対する怒り」なんて漠然な感情は乗っていない。この世の何か、もしくは誰かといった明確な相手に対する強い激情だ。
後ろからは与一さんの台詞を額面通りに受け取った猿と蜂巣の素直な返事が聞こえてくる。
俺は返事をすることができなかった。与一さんの熱量に押し込まれていた。
その目の圧力から逃れるように視線を前に戻す。視界の隅で後輩が戸惑ったように俺と与一さんの間で視線を迷わせていた。
俺の肩に与一さんの手がかかる。
その手は予想以上の熱がこもっていた。
「君達が来てくれたら、知寿も、家族も喜ぶ」
肩に置かれた手に力がこもった。
この人は一体何を考えているんだ。一体、俺らに何をさせようと言うんだ。知寿が大変なこんな時に俺たちが何ができるというんだ。
そんな俺の内心を見透かしたかのように与一さんの言葉が俺の胸に滑り込む。
「・・・君達が頼りだ」
俺にもできることがある。
そう言われている気がした。
それは無力感に囚われていた俺を慰めるために言っているだけだろうか?
頭のどこかでそんな疑問が首を持ち上げる。俺は首を振ってその考えを振り払った。
「・・・・・・はい!」
強く返事をした俺に与一さんは険しい顔のまま小さく頷いた。
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『いやっ!帰して!私を元に戻してよ!』
『なんでだ、なんでそんなことを言うんだ!僕は君を守りたいだけなんだ!』
『あんたなんかに守ってもらわなくてもいい!あんたに何かしてもらう必要なんて微塵もない!このストーカーの変態野郎!』
『・・・・・・・・・わかった。君はニセモノだ!ニセモノだ!ニセモノだニセモノだニセモノだ!僕の知寿はそんなこと言わない!僕の彼女はそんな目をしない!お前はニセモノだぁぁぁああ!』
私の脳裏にこの世界での自分に最後を思い出していた。
私は闇の中にいた。
意識はある。だが、あるだけだ。
身体を動かすことはできない。声をあげることもできない。私の世界は終わってしまったのだろうか。
私は目を開いた。
そこは青い世界だった。青い氷のような水晶の塊。
その中に私はいた。指一本動かすことのできない結晶の檻。ここには温もりも冷気も存在しない。痛みもなければ、苦しみもない。そんな世界で私はただの意識としてここにいた。
そして、この世界の外側にはいつもあの人がいる。
「知寿、どうだい?寒くないかい?」
「うん。だって快斗が隣で温めてくれるもん」
私の身体が、私の声が、金城 快斗に寄り添っていた。
その姿を見たくなくて、私は再び目を閉じてしまう。
だが、私の媚を売る声だけが、耳朶に響いてきていた。
「ねぇ、快斗。も、もうちょっと近くに寄っていい?」
「なんだい?やっぱり寒いのかい?」
「そんなんじゃないけど・・・ないけど、いいじゃん」
「しょうがないな」
私の意識はここにある。だが、私はここにいない。
私はただの雛形なのだ。そのことを私は朧げに理解していた。
私の思考を、私の声を、私自身を正確にトレースする為のコピー元。
現実と違うのは私の恋愛感情だけだ。
私は意識を失うことのできない地獄の中でその光景をずっと繰り返し聞かされ続けていた。
助けて
涙はこぼれない。電子の世界ではそんな機能は不要だった。
助けて
私の声は届かない。金城にとって私自身の意思はもう必要ないのだ。
助けて
指先に自分の肉体で最後に握った感覚が残っていた。
助けて
「あっ、やりやがったなこいつ」
「えへへ、ごめんなさい」
私が・・・壊れてしまう前に・・・




