色即是空
少女が発見された部屋は、異臭が漂うゴミ屋敷だった。
ゴミ屋敷と言っても世間的に言う「必要のないもの」が多く存在する「片づけられていない部屋」のことではない。
食べかけの弁当がもう何日間放置されていたかわからないほど原型を留めていないものが数百個とほぼ無意味にちかいゴミ箱から溢れキッチンをはじめいたるところに散らばっていた。
しかし、それらはこの空間では「必要なもの」で、冒頭で述べたような「必要のないもの」で構成された部屋ではなかった。
その部屋には食べ物とは呼べないソレを堂々と食みにきた虫という虫が住み着き、病原菌の巣窟のような場所。半年と開けていない窓を中心とした部分から青黒いカビが生え、暗く淀んだ空気をまとった少女が、決して広くない、一畳半のこの部屋の中央に膝を抱え込む形で座っていた。
少女には、名前がなかった。
辛うじてあるのがその部屋に一緒にいた母親であろう人間の苗字のみだったが、保護当時6歳だった少女は少女と同年代と同等の、あるいはその程度の過程で通常得られる語彙力・会話能力が皆無に近い状態だった。
後の調べで、この部屋に住んでいるのは如月美紀という22歳の無職の女性。
少女が生まれてからこの6年間出生届が出されていなかったことがわかった。
夫は不明。
当の如月美紀はたった一畳半しかない部屋のキッチンの片隅で、蛆の湧いた死後3週間程度の腐敗した死体として、まるでそこにあるゴミの山と自身の体を同化させ存在を消すかのようにひっそりと死んでいた。
通報したのはマンションの大家だった。
異臭がすると苦情がきたので見に行くと、鍵のかかった物音ひとつしないとても静かな部屋から鼻を指す痛いくらいの臭いに驚き、警察に通報したとのことだった。
警察が扉を開け中に入ると、少女はゆったりとゆったりとこちらに首を向け、不思議そうな顔をしたが、首を傾げることはなく、なぜ鍵が開けられたのか、その意味も少女には理解することができず、ただ茫然とただ悄然とこちらを見ていたそうだ。
何日も入浴していない肌には垢がたまりカビが生え油で妙に光沢のある、薄汚い灰色に見えた髪の毛は、入浴後に本来の白色に戻ったという。
如月美紀には親類がいなかったため、少女は自動的に孤児院へと移送された。
日本では奈良時代から孤児を収容養育した人物や寺社が存在する。現代では「孤児院」という呼び方ではなく「児童養護施設」という呼ばれ方が一般的ではあるが、少女にとってそれはどうでもよいことであった。
そもそも、自分が孤児であるという認識が少女には絶無だったため、周りの「大きな人」がただ「善意を行っていた」に過ぎない状態だった。
少女は生きてきた6年間まともな教育を受けていないため、知っていることが
・2、3日放置しておいたごはんは固くなる。
・騒いだり泣いたりしたら叩かれる。
・人の体からは虫が出てくる。
この三つだけだった。
施設に入ってから、固有名詞がないと「大きな人」が困るとのことで母親の苗字から如月と名がついた。
少女が自分の名前というものを理解するには遅すぎる年齢で、なかなか自分のことを呼ばれているという感覚がなかったのは致し方がないことなのだろう。
しかしその後、施設が閉鎖するまでの6年間で少女は自分のことが如月という名前なのであるということは理解した。
施設では周りも手もあって、施設閉鎖時の少女の年齢12歳で、とりあえず「生きていくため」に必要な、識字・語彙は身についていると当時少女を献身的に看ていた女性が語っていた。
しかし、識字については一通りのひらがな、カタカナと漢字は画数の少ない簡単なものしか書けず、語彙力は一般並みとは言えず、文法に至っては接続詞が上手く使えていない様子だった。
施設の閉鎖の理由はいたって単純な経営難だった。
地元の住民からの寄付と市からもらえるなけなしの金銭でやりくりしていた、5人足らずの孤児を預かる小さな施設は大きな施設との合併のため、閉鎖という形でこの「有珠の森児童福祉施設」はこの世からなくなることとなった。
施設で勤務していた人は合併される大きな施設への移動が決まり、子供は里親を募り条件の合う家に引き取られることになった者や、合併先に移動になった者、まちまちだった。
そんな時に、仕事の一環でその施設に訪れていた私は少女と出会った。
真っ白な肌に、真っ白な髪。
身体的特徴はまったく違うのに自分にそっくりなように思え、まるで鏡を見ているようだったのを覚えている。
少女は施設がなくなることが決まって一年経った今日になっても、引き取り手がなぜか見つからなかったのだが、のちに兄の調べで、施設の園長と市長が癒着して少女を嬲り者にしていたことがわかった。
施設で少女を一目見て、引き取ろうとなぜか思った。
その「色」はまるで誰にも染まったことのない真っ白なキャンバスのようで、この世界を知らない、理解していない、いや、そもそもわかってすらいない……そんな風に見えた。
純朴・無垢。
……無知。
それらの言葉は目の前の少女のためにあるような言葉にすら思えた。
少女は理解することもなく、私の手を取った。
いや、この場合、私の手を取ったというよりは、私が少女の手を引いたに過ぎない。
それに少女は応えたワケではなく、ただ、意味もなく理由もなく理解もできず、反動的に握り返しただけに過ぎないものだった。
それでも。
「いやいや、それでも、は、おかしいだろう?どちらかと言えば、だからこそ、じゃないかい?」
「……」
彼女の思考を止めたのは、先ほど施設から少女を乗せ、自宅へと向かう車に同乗している嬉々とした表情の似合う、つかさだった。
思考を止められたことと、話しかけられたことに苛立ちを顔に浮かばせるつむぎは、つかさと少女を挟んで横に座っている。
「いつから乗っていたのかしら?気付かなかったわ」
「最初から同乗していたぜ?キミが長ったらしい思考をしながらボクの横にいるこの幼女を施設から拉致するところまで、全部。むしろキミがボクに気付くのが遅いくらいだ」
つかさは相変わらず嬉々とした表情を崩さず笑っている。むしろ、彼女の表情はそれしかないかのように。
それを見てつむぎはより一層自身の中で不快感を覚えていく。
「人聞きの悪い。拉致じゃないわ。連れて帰るの」
「それのどこが拉致じゃないっていうんだい?カノジョは理解していないんだろう?いや、理解できないんだろう?カノジョの思考はそこまで及ばないから。だったら拉致も連れて帰るも引き取るも、この子の前では等しく平等だよ」
もっともだ。
つむぎはそう思ったが、そう思った自分に苛立ちを感じて眉間に軽く皺を寄せたら、車内のバックミラー越しに見えた兄様の顔色ですぐに平常の顔へと戻った。
「理解とは」
「は?」
「理解とは。[理を解く]と書くのだけれど。では、理とはいったいなんだろう?辞書的に言うと、物事の道筋、なんてのが一般的だけれども。では、その理とはいったいなんだろ?」
右人差し指を一本立て、つかさは首を傾げた。
「例えば。『理不尽』なんて言葉がある。例えば。『屁理屈』なんて言葉がある。これらの言葉にはすべて『理』という文字が含まれている。いや、ほかにもあるけど、これ以上深追いするのはやめよう」
「……」
「道筋とは、人間が決める以外ないものなのだけど。じゃあ、ボクの横で大人しく座っているこの子の理とはいったい何なのか。それはきっとわからないだろうねぇ。わからない、というか、わかる手立てがないというのが正しいのだろうけど」
「随分と回りくどい言い方をするのね。私への当てつけかしら?」
「別にそんなつもりはないよ。ただ、つむぎさんがさっきの思考の最中に『ただ、意味もなく理由もなく理解もできず』と考えていたようだったからね」
つむぎは組んでいた足を組みなおして、めんどくさそうにため息を一つついた。
これはただの揚げ足取りだ。
組みなおして宙に浮いている右足の先を数秒眺めて、再び顔を上げた。
「私の思考を勝手に読まないで変人。って、今更だったわね。それで?何が言いたいの」
「ふむ。ではつむぎさん。『無知の知』という言葉をご存知かい?」
「『ソクラテスの弁明』ね」
「……『無知の知』を聞いてソクラテスの弁明が出るキミもなかなかの変人だと思うけど。そもそも、つむぎさんはこの日本で最古にして最大の烏条財閥のご令嬢ってだけでも変人なんだけどさ」
「……烏条財閥の話は関係ないでしょう。で、その無知の知がどうしたのかしら」
会話をする二人に挟まれた、白髪の少女は、口を開かない。
「高校の教科書レベルで話すと、『あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている』という意味が一般的だけど、これは少し現代語訳されすぎている」
「ソクラテスのことは別にどうでもいいわ。哲学には興味がないもの」
「そうかい?ならこの話は少し省こう。確かにボクが言いたいことはそこにはないからね」
そう言って、つかさはポケットからおもむろに、林檎を取り出した。
妙に形の整った赤くて美しい、作り物のようにも見える林檎だった。
「えーと。つむぎさん。これ、何に見える?」
「……林檎でしょう?」
「なんでそう思うの?ボクが桃に塗料を塗ったものかもしれないよ?まぁ、この際、この林檎が偽物かどうかはおいておこう。これを林檎と断定させる理由はどこにあるんだい?」
「なんでって……」
停止。
つむぎはつかさの右手に掲げられた真っ赤な林檎をじっと見つめて小首を傾げた。
鼻を近づけると微かに林檎独特の甘酸っぱい匂いが鼻の奥に広がる。偽物ではないようだし、林檎以外のものでもなさそうだ。
「匂いも、質感も、形も林檎そのものだから……かしら?」
「珍しく疑問形できたね。断定的なキミの性格からしてまだ何か疑っているのかい?……いや、今はいいか。じゃあ、キミはこれ、何に見える?」
つかさは真ん中で静止している少女に、ひょいと林檎を手渡した。
それまで空を見ていた少女は自分の手に乗った重たい感触に目をやる。
ゆったりと、つむぎと同様に小首を傾げて、
「……とまと?」
と、小さく呟いた。
この回答を聞いたつさかは嬉しそうにニタニタと笑って
「ほら、これでわかったかい?」
と、言った。
「モノの尺度とは、自己の経験の積み重ねでのみ測ることができる。つむぎさん。キミはコレを林檎と理解することができた。つまり、コレが林檎だといえる幾つかの理由を知っている。色や形、質感、匂いなんかも理由になるだろう。しかし、この少女はそれがわからない。それはなぜだと思う」
思考し、理解する。
「…………林檎が何たるかを知らないから」
嬉々としたつかさがニヒルに笑う。
「大正解」
知識とは経験で得るものがほとんどである。
例えば。
人間の本能的な動きを除いては、他人と過ごすことによる過程(ここではこれをすべて経験に含むものとするが)で物事を覚えていく。
人間を絵の具に例え、自身をその色置きであるキャンバスに例えるとわかりやすいかもしれない。
絵本には真っ赤な林檎がイラストで描かれている。
これを幼少期に『林檎』と教えられれば、それは『林檎』になる。
ここで誤った知識を教えられれば(同本に描かれているバナナを林檎と間違って認識している)、自分に関わる他の繋がりの過程において補正修正されていく。
他人からの色(知識や経験談)を自分の器に置いていく。
その色が増えれば増えるほど博識となり、その色を試したことがある人を教養があると呼べるだろう。
しかし、この少女にはそれがなかった。
少女の器にはまだ、何色も乗っていない。
まさに、白。
真っ新なのだ。
そしてそれに誰も気づかなかったのだ。
「なぜか。なぜ大人に囲まれたあの施設で過ごした時間があったにも関わらず、この子は林檎を認識することができなかったのか。これは至極簡単な理由」
「周りの大人がこの子を理解していなかった……。これくらいのこと、わかっていて当然と思っていたから。共通認識だと勝手に思っていたのね」
「そう。林檎は何色で、どんな形をしていて、どんな味がするか。それを施設の大人は教えなかった。それくらいの知識、キミは先ほどから色で表現しているようだけど。みんながみんなその色を持っていると勝手に認識していたんだ。この子の六年間が知りたいよ。いや、生まれてからずっといろいろなものに対して随分とずさんだったように見える」
「……」
「世界は、キャンバスへの色の乗せあいの繰り返しで成り立っている。小さな物事であれば、身内という色だけで済むが、世界という大きな枠組みの中で生きるためには修正されなければならない様々な色が多く存在するんだよ。自分が今までそうだと思って生きてきたコトやモノが実は一般的にはそうではない場合がある。そういう場面に出会ったとき、自分の中で順応になれるかがとても重要なんだよね。それができない人間も数多く存在するから、この世界は生きにくいと感じるんだろうねぇ」
つかさは林檎を手に持ったままの少女から林檎をひょいと取り上げて、これもまた、どこからともなく出した果物ナイフで綺麗に6等分し、その一かけらを、林檎を取られたまま固まっていた少女の手に渡す。
「食べてみなよ。それが林檎、だ」
言われて、少女は数十秒林檎の欠片を見つめて、おそるおそると口に運んだ。
シャリという軽快な音とともに果汁が宙を舞った。
「……すっぱい……あまい」
「酸味と甘味を理解できていて何よりだ。それを世間一般では『甘酸っぱい』と言うんだよ。初めての林檎の感想はどうだい?」
「あまずっぱい……おいしい」
「はは、それはよかった」
つかさは乾いた笑いを一つして、残りの林檎を少女に手渡した。
よかった、という言葉には、林檎がおいしくてよかったという意味合いと、おいしいという言葉を知っていてよかったという二つの意味合いがあった。
「……ああ、だから『無知の知』?」
つむぎは林檎を黙々と食べている少女を母親のような気持ちで見ながら、ふと、先ほどのつさかとのやり取りを思い出した。
「『無知の知』とは、ソクラテスが放った言葉であるとおもわれがちなんだけど、と、いうか、そうやって習う人が多いのだけれど、そうではない。【よく知りもしないで知ったように話している奴らばかりだなぁ】ということなんだよ。だから、さっき知っているか聞いたんだ。キミに素質があってよかった」
自分が知らないことを、知っている。
無知を知っている時点でそれは無知ではないという屁理屈が返ってきそうな論題だが、ときどき教科書でも見ることのできる有名な文言である。
林檎について知っている。
と言っても、林檎がどうやって生成されるのかはわからない。
それでは知っているとは到底言えない。
では、どこまで理解すれば『知っている』と呼べるのか。
どこまで理を解き明かせば『知』となるのか。
「ボクはその辺別にこだわらないけどね。だってこういうのってどこにでも専門家がいるもので、そいつから言わせればそれ以外の人間なんて『にわか乙www』って感じだろうしね。そもそも、人間の知識なんて神に比べれば無に等しいものだ。神が何であるかとか、信仰心もここでは問わないから追求しないでくれよ?」
「する気もないわ」
少女にとっての不幸な生い立ちは、それが不幸だと知らないから、何が不幸かを知らないから、理解らない、少女にとってそれは『不幸ではない』のだろう。
そもそも、幸も不幸も他人が自分の積み重ねてきた尺度で測るものではない。少女にとってはこれまでの暮らしは何ともない普通の生活なのだ。
自分が置かれている場の良し悪しは他人と比べなければわからない。
家庭環境・金銭事情・友人関係……頭脳や体力、才能……
他人のほうが優れていても、疎ましいと思わなければ、思う気持ちが育まれていなければ、少女にとってそれはなんの変哲もない、代わり映えのない、白色のキャンバスそのものなんだ。
「だから、だからこの子は可哀そうではない……か」
つむぎは、窓から青空を仰いだ。
「今回は運がいいのか悪いのか、つむぎさんという人物にキミは出会って、しかも、つむぎさんにはボクという存在が付随してて、キミは林檎を理解するに至った。なんにせよ、きっかけというものがとても大切なんだよ。人生どこで何があるかわからないのが楽しいんだぜ?」
二つ隣に座る彼女のいう言葉はイブを唆す蛇の言葉のようで、しかも先ほど出した林檎は知恵の象徴とされている。きっと、林檎を出したのも、それをこの少女に食べさせたのも彼女の思う通りなのかと思うとゾッとした。
「まさに、【きっかけ(蛇)】ね」
「ん?何か言ったかい?」
「いえ、別に」
相も変わらず何がそんなに面白いのかというほどニタニタしているつかさは、「ああ」と思い出したかのようにつむぎの顔を見る。
「この子、名前がないんだっけ?呼称みたいなものはあったようだけど……この際だから、新しい名前を付けてあげたらいいんじゃないかな?キミが拾った命だろ?命には名を与えることで新たな存在になるんだぜ」
「名前……」
知らないことを 知っている。
それじゃあつまらない。
そこで思考が止まってしまったらつまらない。
これから少女はどのように生きていき何を感じて何を思うのか。
そんなことは一切わからない。
でも、この少女に出会ったのも、それに干渉できる権利を握ったのも、何かの縁だろう。
私の知る世界を少女に教えてあげよう。
そこで交わる世界を余すことなく拾えるような人になって欲しい。これは他人に対する思いやりでもなんでもない。
私自身のエゴだ。
「貴女はこれから新しい環境になり、見るもの感じるもの教わるものすべてが新しいわ。今まで人に教えてきてもらったものが崩れることもあるでしょう。貴女の理解を私が新しくするわ。
『新』
これから、貴女はサラよ」
知識も、思考も、理解さえも塗り替えていけばいい。
何度でも自身のキャンバスに他人の色を重ねて違う色を作っていけばいい。
たくさんの人と関わり、交わり、経験して、濃密な関係を築いて色が濃くなることもあれば、すれ違いで色が抜け落ちることもあるだろう。
そして、最期に出来上がった世界でたった一つしかない、言葉では表現することのできないその色こそが、貴女を表す色なのだから。
「『青は藍より出でて藍より青し』だよ、サラさん。キミはつむぎさんを超えていけるほどの可能性を秘めている。キミは無知なんかじゃない、未知なんだよ」
何も知らないのではない。
まだ何も知られていないのだ。
「この世界は未知の魅力で溢れている。これから知っていけばいいさ」
つかさはサラリと自身の長い髪を揺らしながら、すべてを悟っているかのように、この世界の理を知っているかのように、
ただ笑っていた。