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夜の巣

作者: 朝霧

 目に入った景色に、思わず「おお」と口に出してしまう。自動車はいつもより小さく見え、大通りの地平線は少し先まで視界に入り、電信柱のてっぺんを見下ろせる。もう周りの建物の明かりは消えていて、街灯だけがきらきらと輝いていた。人の気配はまるでなく、見上げると雲一つない夜空に月と星が踊っている。吹き付ける風は道路に立っているときよりも少し強い。


 フリークライミングで崖は登るが、こうやってビルディングの壁面を登るのは初めてだった。手足をしっかり使い登って見る景色は、疲労と気分の高揚も相まって、いつもと違って見える。まだ3階分ほど登っただけなのに、ずいぶん見える景色が変わっている。普段はこんなこと、気にも留めないのに。


 隣にいる尾崎と俺は暇を持て余したフリーターで、今は金がないことも忘れて灰色のビルの壁面を命綱もつけず素手で登っている。この街では他に見かけないくらいの高層ビルで、そのビルの壁や窓のくぼみに手足をねじ込み、少しずつ屋上に向かって進む。


 何のために登っているのかと気になる人がいるかもしれないが、そんなことは簡単で、ただ面白そうだったからだ。そこに山があるからだ。


 もちろん無断である。見つかったら逮捕されるだろう。警察に捕まるのはつまらなくてごめんだったので、俺たちは人目につかないように深夜にこっそりと登ることにしたのだ。


 尾崎も俺も冬にもかかわらず汗をかき、落ちたら死ぬというスリルに心を遊ばせていた。尾崎がいつものようにすかすかの自信に満ちた顔をして、俺に話しかけてきた。


「まだ少ししか登っていないのにこんなに高い。いい景色だ。やっぱり俺が言った通り、登って良かっただろう」


 俺は相槌を打つ。尾崎は俺の反応など目もくれず、続けて口を開いた。


「ただこのクライミングは決して快楽のためではない。法律を使い俺たち国民を縛る社会に対しての反乱だ」


 尾崎は口ではこう言っているが、ビルクライミング計画を立てていたときの奴のはじけた笑顔が俺の脳裏をよぎる。尾崎がクライミング動画をネットにアップロードするために被っている黒色のカメラ付ヘルメットが、月に照らされて白く浮かび上がっていた。


 尾崎のどうでもいい話に適当に相槌を打ちながら、適当なタイミングで返事をする。俺はそろそろ言葉を返しておくかと思い、尾崎の方を向いた。


 その瞬間だった。尾崎の頭に何かが覆いかぶさった。何だがふわっとしていて、もしゃもしゃしているものだ。

 暗くてよくわからないが、目を凝らしてじっと見てみると、その姿がじわじわと見えてくる。細い木の枝を寄せ集めて作られた、どんぶり型の器状。器の中には白い楕円形の物体が入っている。


 それは間違いなく、鳥の巣だった。




 尾崎と俺は大いに笑いあった。謎の物体が頭に落ちてきた当初こそ、尾崎も俺も驚いたが、その物体が鳥の巣であったこと、しかも中に卵が入っていて、その卵が無事なように見えること、尾崎の頭のヘルメットにうまく引っかかっていて巣が落ちないことは、気分が高揚している俺たちを爆笑させるには十分だった。


 俺は尾崎に笑いかける。


「ふざけた頭だ。アフロみたいに見える。どうしたんだいったい?」

「俺が聞きたいよ。前が急に見えなくなったと思ったら鳥の巣だもんな。びっくりした。この卵には感謝してほしいね。俺がいたから助かったんだ。面白い。乗せたまま上まで登ってやろう」


 俺はまた笑ってしまう。こいつは頭がおかしい。文字通りの意味で。


 尾崎は鳥の巣の位置を手で変えて視界を確保する。

 それが鳥の巣だとわかると、俺の目が慣れてその細部までよく見えるようになった。巣は細い木の枝や路地裏に落ちているワイヤーのようなものなどを寄せ集めて作られた半月型で、枝と枝の隙間はマスクメロンの網目と同じぐらいあいていた。中には白い卵が一つ、薄曇りの中に浮かぶ月みたいにぼんやりと座っている。




 ビルを登っている最中、たまに尾崎は「ブラウン管テレビが消えた時に出る音に似ているなあ」と俺に思わせるような声を出すようになった。巣から飛び出ている枝がヘルメットの脇を周って顔に刺さるのだ。尾崎は声を出した後、決まってこちらを向き、にやりと笑う。


 頭の上に物を載せているが、鳥の巣なので大した重さはないだろう。壺を頭に乗せて運ぶどこかの国の人々と比べたらずっと楽だ。しかし、鳥の巣は壺と違って顔に刺さる。もしヘルメットを着けていなかったら、巣が落ちてきたときに頭に刺さり、尾崎と巣は一緒に地面に落ちていっただろう。


 尾崎はまた巣の位置を調節し、頭に何かのせているとは思えないくらいにしっかりと首を伸ばして、少し上の壁のくぼみに手をかける。


 もうだいぶ登ってきた。下を見てみると、街路樹は針のように小さく、街灯は近くにある星みたいに見える。空を見あげると、月に少し近づけたように思えた。

 今何時ぐらいだろうか。町は無音と冷気で張りつめていて、たまに通る自動車や突風が俺をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。

 俺たちは海の真ん中を泳ぐようにビルを登って行った。


 そんな中、車でも風でもない音が街の静寂を引き裂いた。それは本で扇いだ時にでる音に似ていた。その音がだんだんと大きくなってきたかと思うと、ビルに影を落としながら尾崎に襲いかかった。

 大当たりの時に出でくるパチンコ玉のような激しさで尾崎にぶつかっていくそいつは、月明かりのもと姿を現した。


 スズメより大きくて、ワシより小さい、そいつの正体はハトだった。鳩がくちばしを使って、ものすごい勢いで尾崎の体を小突きまわしているのだ。


 尾崎はジェットコースターに乗っているみたいに叫び声をあげながら、亀のように体を丸めて鳩の猛攻に耐えた。俺は尾崎が鳩に襲われる姿を見て「うわあ」と思う。鳩ってこんなに獰猛なのか、と。尾崎と鳩の姿が逆光でシルエットに見えて、一枚の絵画のようでロマンチックだ。


 どう見ても危険な状況だが、俺は壁にしがみついているので文字通り手も足も出ない。俺はひとしきり鳩と尾崎の攻防(というより、鳩の一方的な攻撃と尾崎の我慢)を眺めた。


 すると鳩はくちばしを引込め、俺たちのもとを離れていった。ビルの陰に隠れたかと思うと、反対側から飛んで出てくる。どうやら俺たちの周りを旋回しているらしい。しばらくビルの周りをぐるぐると回ったら、ゆっくりとこちらに向かって進んできて、尾崎の頭上の巣に着陸した。


 そのころには尾崎はすっかり道端に捨てられた紙袋みたいになっていて、頭の上に鳩が座っていても微動だにしなかった。尾崎がぴくりともしないせいなのか、俺には奴と鳩の存在がすごく納まりよく見え、アルミ缶の上にあるミカンのように一体感があった。


 巣に止まったことで鳩をよく観察することができた。見た目はもう普通の鳩でしかなく、公園でベンチに座っている老人の近くでたむろしている奴らと同じだ。色は黒っぽい灰色で、他の鳥たちと一緒で何を考えているのかわからない表情をしている。鳩は体の中に足を収めて座り、どこを見ているのか一点を見つめている。


 その姿を見ていて俺は気づいた。こいつは巣の中にある卵を温めているのではないか、こいつは卵の親だ、親鳥だ。


 俺がそんな風に考えていると、尾崎が復活してこちらに顔を向けた。


「やれやれ驚いたぜ。こんなことってあるんだな。まあ、たいしたことはない」

「おい尾崎。その鳩きっと親鳥だぜ。巣の中の卵を温めている」

「そんなことはどうだっていいんだ。ふざけてるよ。ちくしょうこんな巣、はずしてやる」


 尾崎はそういうと、壁から片手を離し、ヘルメットについた巣を外そうとした。そして、鳩は近づいてくる手をプロボクサーのジャブみたいな速度で迎撃する。




 巣をなんとかするのをあきらめた尾崎と俺がまた壁を登りだしてから、結構な時間がたった。


 隣を進む尾崎をちらりと見てみると、なんでもないような顔をしながら首をがくんがくん揺らしている。重いのだろう。


 下を見てみると、さすがに心臓がはねた。随分な高さだ。車は蟻のようで、街灯は森の中のマッチの火のように心細い。もうこの高さまで登ってくると、降りるよりは屋上まで進んだ方が早いだろう。もちろん落ちたらトマトみたいに破裂して、確実な死が待っている。


 そんなことを考えていると、隣を行く尾崎が急に騒ぎ出した。


「臭い! くっせぇ! やりやがった!」


 俺がなんだなんだと思っていると、高所特有の突風とともに俺のところにもかすかな刺激臭が運ばれてきた。その臭いを嗅いだ瞬間、俺はなるほどなと思った。鳩が糞をしたのだ。尾崎の頭に鎮座しながら。


 尾崎は罵詈雑言を吐きながら暴れた。台座の動きに応じて揺さぶられる鳩は、容赦なくそのくちばしを振りおろした。

 



 数分後、そこには何事もなかったかのように居座る鳩と、心を闇に飲まれそうになっている尾崎の姿があった。


 臭い。鳩が力んでさらに糞をしたのだろう、尾崎の頭部は雪がうっすらと降り積もっているかのように見える。くちばしで突かれた額は血で赤く染まっていて、尾崎の見た目はビルを登りだしたときよりもほんの少しカラフルになった。俺はそんな奴の姿を横目に見ながら、本当に俺じゃなくて良かったと思った。


 そして、俺は尾崎と少し距離をとる。クライミングは少しの気の緩みが死につながるのだ。こんな臭い奴とは一緒にいられない。


 少しずつ離れていく俺に向かって尾崎が声を荒げる。


 「おい! どこに行くんだ! おい!」

 「どこって屋上だよ。決まってるだろ?」

 「そうじゃない。なんでちょっとずつ俺から離れていってるんだって聞いてるんだ!」

 「特に理由はないよ。こっちの方を通りたかっただけだよ」

 「うそつけ! 臭いからだろう! 俺が臭いからだろう! 一人だけ普通にクライミングしようなんて頭おかしいんじゃないか!?」

 「お前にだけは言われたくない! 自分の頭を見てみろよ! なんだその巣は!」

 



 俺たちの関係は険悪になり始めていた。ビルを登り始めたころは二人とも同じ、ただのフリーターだったのだ。何が俺たちの立場をこんなにも変えてしまったのか。


 言い争いをした俺たちは、ただ黙々とビルを登った。尾崎は壁面すれすれに顔を垂れ、ゆっくりと進んでいる。頭が重いのだろう。拷問でも受けているみたいだった。


 その時だ! 巣に座っていた鳩が急に首を持ち上げたかと思うと、どういうわけなのか羽をはばたかせてどこかに飛んでいったのだ!


 尾崎の喜びようはすさまじかった。どうやっているのかさっぱりわからないが、彼は両手を壁から離して天高くこぶしを突き上げていた。


「この解放感! 俺はこの時のために生きてきた!」


 俺はもう尾崎が気の毒で仕方がなかった。ビルにへばりつきながら糞まみれで喜ぶ男。きっと今カメラを持っていたら、いい写真が撮れるなと思った。尾崎の方角から吹いてくる風が臭くて仕方がなかった。


 尾崎はしばらく喜んだあと、空に突き上げていたその手をゆっくりと巣のほうに近づけていった。


「もうこの巣ともおさらばだ。ヘルメットに引っかかって外れないなんて関係ない。ヘルメットごと捨ててやるぜ」


 尾崎がそう口にした瞬間だった。遠くから本で仰いだ時のような、あの羽音が聞こえてきたのだ!


 しかし先ほどとは少し音が違う。尾崎も俺も耳を澄まして、その違和感の正体を探ろうとした。羽音はだんだんと近づいて来て、ビルの陰からゆっくりと姿を現した。


 その正体はやはり鳩だった。


 しかし、一羽ではない、二羽だ! 夫婦だ!


 ちらりと尾崎の様子をうかがってみると、奴はハニワのような顔をしていた。


 そこからの尾崎はすごかった。


 尾崎は一目散に逃げ出した。くぼみを掴むというよりは壁に手を突き刺してわっしわっしとすごい勢いで進んでいく尾崎の姿が、俺にはもう蜘蛛の化け物にしか見えなかった。月の光でぼんやりと輪郭だけを浮かび上がらせたその異形は俺に強烈なインパクトを残した。夢に見そうだ。心の底から笑わせてもらった。


 尾崎は必死に逃げた。この時の奴は、この世の誰よりもビル登りが早かったと俺は断言できる。しかし、人間がどれだけ早くビルを登っても、鳩から見ると止まって見えるのだろうか。鳩は簡単に尾崎に追いついた。そして陰湿な攻撃を始めたのだ。


 二羽の鳩はひゅんひゅんとビルの周りを飛びながら、すれ違いざまに尾崎をついばむ。それだけならまだいい。まあ全然よくないのだが、問題は糞である。申し訳ないがまた糞の話になる。鳩は空中から尾崎に向かって狙いすましたように糞を飛ばしてくる。そして爆撃を終えた飛行機のようにすっと離れていき、ビルの向かい側の陰からまた出てきて、次の攻撃を開始するのだ。とんでもなく恐ろしい光景である。


 俺がちょっと下の景色すごいなと目を離したすきに、尾崎は集中砲火をくらい、イカみたいに真っ白になっていた。さっきまでのカラフルな姿が嘘みたいだった。


 猛烈な攻撃をくらいすっかり弱った尾崎が歩を緩めると、待ってましたと言わんばかりに一羽の鳩が尾崎の頭上に着陸した。俺はこうまでして卵を温めようとする鳩の姿に少し感動したものだ。これが親の愛だ。見ているか尾崎。




 すっかり登るのをやめてしまった尾崎だったが、しばらくすると何かをぶつぶつと呟きだした。耳を澄まして聞いてみると、すごく小さな声で「なんだよこれ」「なんだよこれ」と言っている。もっともな疑問である。


 俺は尾崎を元気づけようと声をかけた。


「何かすごいことになっているな尾崎。まあ元気出せよ!」


 俺が言葉をかけたことが引き金になったのか、尾崎が発狂した。


「何で俺なんだよ! お前も同じ目にあえ!」


 尾崎はそう叫ぶと、先ほどまでのうな垂れっぷりが嘘のように、元気いっぱいに俺の方に這ってきた。俺はすかさず逃げ出した。


 「ちょっとこのヘルメット被ってみないか!? 一緒に苦しみを分かち合おうぜ!」


 尾崎の戯言にも耳を貸さず、俺は必死に這って進んだ。脳裏には奴と鳩の死闘がちらつく。絶対嫌だ。

 そして何よりあんな臭い奴に近づきたくなかった。尾崎は鳩からの爆撃を受けてより臭くなっていたのだ。

 



 海の深い所のような色をした暗い空に、南国の花のように鮮やかな赤色が混ざりつつあった。夜が明け始めたのだ。鳩事件のせいで随分と時間を食ってしまった。

 相変わらず尾崎は俺を追いながら、恨み辛みをぶちまけていた。それも、そろそろ聞こえ出してきた街の人の話し声や、車や電車が遠ざかっていく音、どこかで震える目覚まし時計、遠くでなるパトカーのサイレン、テレビから流れる天気予報の音楽、それどころかビルの頂上に近い所で吹くこの強風の轟音さえも掻き消すほどのとんでもない大声で!


「不公平じゃないか! 理不尽だろこんなこと!」

「それが社会ってものだろうが!」


 俺も尾崎の言葉に負けないぐらいの大声で返事をする。


 尾崎はカニのように横に這いながら、隣を行く俺に近づいてくる。俺は尾崎が来る方向とは逆のほうに向かって這って逃げているが、これだけではビルの周りを山手線のようにぐるぐる回るだけで屋上にはつかない。そこで屋上に向かう縦の方向に登らなくてはいけなくなるわけだが、同時に横に向かって進んでもいるので、結果的に俺たちは支柱に絡まる朝顔の蔓のようにらせんを描きながらビルを登ることになるのだ。この登り方は非常に疲れる。落ちたら死ぬ危険と隣り合わせのなか、無駄に距離を伸ばして進んでいるのだから当然だ。俺の手足はがくがくと震えだしていた。


 俺は足元を追って来ている尾崎の様子が気になり、斜め下を見た。すると尾崎の姿はビルの陰になってしまって見えないが、奴の頭上の巣とそこに座る鳩だけはかろうじて見えた。鳩が巣ごとものすごい速度でスライドしながらこちらに向かってくるように見える。鳩の表情を見てみると、何とも涼しい顔をしていて、首をひょいひょいと動かしたりしている。


 その姿が俺の気に障った。


「ばかやろうお前ふざけるんじゃないぞ!」

「なんだと! ふざけているのはお前の方じゃないのか!」


 お前じゃない。お前に言ったんじゃないんだ尾崎。


 怒りからか速度を上げた尾崎が、ビルの陰から姿を現した。その姿は先ほどよりも糞まみれで、もう昔の尾崎の姿を想像することが難しいほどだった。俺は上空を見上げる。空を飛んでいるもう片方の鳩が、原付くらい馬力を出して進む尾崎の手を止めるために糞をぶつけているのだ。俺は無理だと思った。俺には尾崎の代わりは務まらない。


 俺は恐怖から、足元のすぐそばまで近づいて来ていた尾崎の顔面に蹴りを叩き込んだ。俺の蹴りに耐えた尾崎が声を荒げる。


「お前それは死ぬ奴だろうが!」

「死んだ方が救われる姿をしているよお前は!」


 そう言って尾崎を見下ろす俺は、奴の頭にいる鳩と目があった。感情がないはずのその目には、意外なほどに強い怒りが浮かんでいるように見えた。尾崎が落ちて死ぬと、こいつの子も死ぬのだ。こいつはそれを許さない。上空を飛ぶ奴もだ。俺が尾崎を襲えば、こいつらは自分の子供を守るために俺を攻撃してくる。


 俺はただ逃げるしかなかった。




 俺は屋上の縁を掴んで、一気に自分の体を持ち上げた。そして転がるように倒れこみ、全身で地面の感触を楽しむ。これだ。この感触が味わえるから、俺はクライミングをしているのだ。


 仰向けに地面に横たわっている俺の視界には、空がいっぱいに広がっている。少し雲が出始めていたが良い天気で、朝と夜のせめぎ合いから身を隠すように、星の姿はまばらになっていた。

 俺は手すりにつかまり立ち上がって、周りの景色を眺めてみる。空はもうだいぶ明るくなり始めており、山の向こうからいつ太陽がひょっこり顔を出してもおかしくはなかったが、まだどちらかというと夜に近い気がした。街には腰の曲がった老人がてきぱきと掃除をしていたり、アウトバーンと勘違いしたみたいな速度を出している車が道路を突っ切ったりしている。俺は穏やかな気持ちになっていた。しかし、視界の端の方ですごい形相で壁を登ってくる男がちらちらと見えていて、雰囲気をぶち壊すのだ。


 尾崎は特殊部隊みたいに屋上に転がり込んできた。そして転がる勢いのまま受け身をとって立ち上がり、俺と向かい合う。


 見るも無残な姿だった。糞がギリースーツみたいになっている。


「なぜ逃げた!」「なぜ蹴った!」「危うく死んでいたところだ!」「マジでああいうのはいけない!」などと、尾崎は俺の返答も聞かずに矢継ぎ早に話しかけてくる。尾崎の唾を飛ばしながらしゃべる必死な姿と鳩のおとなしく座っている姿は非常にギャップがあり、俺はちょっとしたことですぐ怒るいじわる大臣と何があってもにこにこしている上品な王様の姿を連想した。俺は自分の妄想でくすくすと笑ってしまい、尾崎をより怒らせる結果になってしまった。


 その時だった。尾崎の頭上で異変が起きたのは。


 鳩が体を起こして巣の脇に退いたかと思えば、鳩の尻に敷かれていた卵の殻が一部、欠けたのだ。そしてとても小さな音で、続けて殻を破ろうとする音が聞こえてくる。


 卵がかえるのだ!


 騒ぎ立てている土台の男とは裏腹に、巣の中では神聖な出来事が起ころうとしていた。ついさっきまで卵を温めていた鳩も、今は手すりに止まっている爆撃機のようだったあの鳩も、俺にはとても緊張した面持ちに見えた。


「おい尾崎。卵が! 孵化しそうだぞ!」


 俺が話を聞いていないことに対して、ついに尾崎がキレた。


「そんなことはどうだっていいんだ! 何が卵だ!鳩のせいで俺の計画はぶち壊しだ! 動画をネットに上げるはずだったのに! 目立てるはずだったんだ! 絶対カメラ壊れてるだろうが! この臭いヘルメットごと巣なんてぶっ壊してやる!」


 尾崎はヘルメットを外し、頭上に高く掲げた。


 落とす気だ!


 その時だった。屋上のドアが勢いよく開いて、警官たちが入ってきたのだ!


 警官たちは俺たちの姿を見ると「なんだこいつは!?」「臭っ!」「鳥の糞か? いや人間のようにも見える」「いかれている」などと口にしながら目を丸くした。そして俺たちは警官が来たことに目を丸くしたのだ。驚きすぎた尾崎はとりあえず掲げていたヘルメットを頭にかぶりなおした。

 



 最初こそとまどいを隠せない様子だった警官たちも、激臭に鼻が慣れるころには酔っ払いに話しかけるように俺たちに接するようになっていた。


「なんでビルなんか登ったの?」「なに考えてんの?」「何で頭の上に巣なんか乗っけてたの?」


 「この巣は急に上から落ちてきてヘルメットに引っかかったんです」と律儀に答えて「真面目に答えろ」と警官に注意されている尾崎を尻目に、俺は隣にいる太った警官に話しかけた。


「なぜ僕たちがビルに登っていることがわかったんですか?」


 すると警官は笑って答えた。


「そりゃあんなに大声で騒いでいたら、いくら深夜でもみんな起きるよ」


 俺はそれはそうだなとうなずき、やっぱり全部こいつのせいだと、今は地面に置かれた巣に座っている鳩をにらみつける。


 鳩は俺のことなんか気にも留めずに、傍らで転がっている卵を見つめている。もう殻にあいた穴はだいぶ大きくなっていて、俺の目から見ても無事に生まれることは明らかだった。手すりに止まっている鳩もどこか嬉しそうで、二本足でダンスのようなステップを踏んでいる。


 俺は生物が生まれる光景を始めて生で見る。


「おい尾崎。卵がかえるぞ」


 俺がそう言っても、尾崎どころか警官さえも鳩に対して興味がなさそうだった。鳩たちも俺たちに興味はなさそうだった。全くこいつらは自由だ。少しだが、うらやましく感じる。




 すっかり顔を出した太陽に照らされ、新しい一日に社会が動き出すころ、雛が卵を突き破って出てきた。苦労してやっと、という感じがその小さな体の震えから伝わってくる。しかし本当に大変なのはこれからだ。生まれてからが大変なのだ。


「逮捕だけは勘弁してください」と土下座する尾崎を見ながら俺はそう思った。


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