老武士の落し物
習作ではありますが、書かせていただきます。
「それにしても牢人どもの浅ましきこと。高名手柄を立てるためとは申せ、10をわずかに過ぎた小童から、70になろうかと言う年寄りまで、槍一本を手にして馳せ参じよる」
「然り、然り。当家に陣場を借りにきた者の中にも、家来も持たず座っておる年寄りがおるわい。
首を投げ捨てにいくようなものじゃ」
水野家家臣・中川志摩之介がその老人の噂を聞いたのは、大坂の豊臣家を包む戦雲も広がりきりつつあった、慶長二十年(1615年)五月はじめのことであった。
(ほう。年寄りとな)
若いさむらい二人の声を耳にした志摩之介は、思わずほろ苦く笑った。
若者二人はかすかなあざけりを込めていたが、志摩之介は、自陣の片隅にいるというその老武士を蔑む気持ちなど毛頭ない。
仮に、志摩之介が歩いているこの時代に70歳であれば、生まれは天文年間、前右大臣・織田信長や、太閤・豊臣秀吉と同年代だ。
戦国乱世の最も華やかな時代を生きてきた老人であれば、その人生の末尾を天下最後の決戦に託したとて、誰が責められようか。
「これ、大田、田島」
「あ、こ、これは、御奉行様」
慌てて膝を付く二人の若者に、おとなしやかに志摩之介は尋ねた。
「当家の陣場に老いたる武士がいるとな」
「は? はっ」
自分たちの会話の何が、この老練の武将の耳に止まったかわからず、その二十歳をまだ過ぎて数年であろう、二人の武士は訝しげに答えた。
「さん候。年の頃は七十あまり、鬢の毛はなく、若党もなく、鎧櫃と槍のみで陣場を借りに参りました」
「御名を伺うて来たか」
「は……いえ、遠目に見たのみにて」
「話も聞かず、人も見ずに話しておったのか。たわけ者」
志摩之介の声が急に雷光を帯びる。
「然様に老いた武士なれば、いずれ名のある武者であろう。
そなたらがさほど目抜けであれば、御殿、ならびに美作守様(水野家二代・勝俊)の御身をいかに心得る。
牢人どもといえ、そなたらの知らぬ戦場を何度も潜ってきたかもしれぬのだぞ」
「も、申し訳次第もござりませぬ」
両膝をついて頭を下げる部下たちに、志摩之介もようやく怒声を収めた。
彼の顔を印象付ける、柔らかな目じりが再び垂れ下がる。
「心せい。……それで、その方は陣のいずこにおられるのじゃ」
その日。志摩之介がそう尋ねたのは、まだ見ぬ老人へのかすかな興味によるものだった。
「中川様じゃ」
「中川志摩之介殿じゃ」
来る決戦に備え、武具の手入れに余念のない牢人たちからかすかなささやき声が波紋となって広がった。
ここは、大和川沿い、片山村に構えた水野家の陣屋、その一隅にある牢人たちの陣場である。
慶長二十年、初夏。
百年以上前に始まった戦国乱世も終わりを迎え、その最後の輝きともいえる合戦が大坂を舞台に始まっていた。
外堀を破却された、故・太閤豊臣秀吉の築いた名城、大阪城に立て篭もる豊臣方約八万に対し、寄せ手の徳川内大臣家康率いる徳川方は約十六万。
世に言う【大坂の役】であった。
誰もが、この戦を最後に天下に戦は消え果るものと思い極めていた。
それは大名やその家来どもだけではない。
槍一筋の高名を掲げて諸方を渡り歩く牢人たちも、自分たちの時代が終わりを告げようとしていることを理解していた。
この戦を逃せば再び身を立てる機会はない。
こうした牢人どもは、ある者は城方につき、またあるものは縁故や高名帳を掲げて諸大名の陣屋に間借りした。
<陣場借り>と呼ばれたこうした振る舞いは、当時の武士たちにとって当たり前のことといってよい。
大名たちにしても、兵力が増える上、勝っている間は士気も高いとあって、牢人どもの申し入れを断ることはまずなかった。
中川志摩之介の属する水野勢にも、有名な武芸者である宮本武蔵をはじめ、そうした牢人どもが多く集まっていたのである。
「これ大田。牢人どもには名だたる武芸者も多い。口を慎めよ」
「はっ」
ざわつく牢人たちを胡散臭そうに見る、大田というその侍に、志摩之介は釘を刺す。
牢人たちは必死だ。
この中の誰かが、栄達を求め城方に寝返っていてもおかしくない。
軽佻な口を利けば、そこから全軍が危機に陥ることすらありえるのだ。
大田が陣場の、さらに片隅を指差した。
「あの老人をごらん下され。あのような老体で戦場に出ようとは、首を投げ捨てるようなものでござる」
「ふむ……」
志摩之介は目をすがめてそのちょっとした広場を見た。
血気盛んな若者たちの中で、端然と座っている老人がいる。
年の頃は、七十くらいにはなろうか。
髷は老齢のためかほとんど禿げており、小柄な体躯は鍛え抜かれてはいたが、年齢による衰えは隠しようもなかった。
家来らしき人影もなく、横に鎧櫃と、使い込まれ、塗りも剥げた槍を立てかけ、床几に静かに腰を下ろしている。
瞑目している姿からは、起きているのかすら判別できない。
着ている絣の着物の継の当て具合といい、腰に差した大小の拵えといい、いかにも尾羽打ち枯らした老武士だった。
ふと、志摩之介は違和感を感じた。
周囲の喧騒も聞こえぬ風で座る老武士の姿に、過去の何かを思い出したのだ。
そう思ってみれば、老人の若いころの姿が脳裏にありありと浮かんでくる。
皺に埋もれつくしたような顔立ちの下にある面貌に思い至った瞬間、志摩之介は思わず「あっ」と声を上げていた。
「殿。あの者に見覚えが?」
大田の声も耳に入らぬように、志摩之介はふらふらとその老武士に近づいていった。
◇
中川志摩之介は、水野家の武者奉行であり、知行は六百石。
知行こそ多いとはいえぬが、水野家では歴とした上士であり、本来ならば牢人の陣屋にやって来るような人物ではない。
押しとどめようとする太田を制して近づく志摩之介に気づいた周囲の牢人が騒ぎ出す。
志摩之介の目に留まれば、水野家への仕官も夢ではないのだ。
だが、そうした雑音を一切聞かぬかのように、老武士だけは端坐の姿勢を崩そうともせぬ。
その彼に志摩之介は近づくと、ごく自然に片膝をついていた。
「お懐かしゅうござる、明田次郎兵衛殿。中川志摩之介にござる」
「中川殿か。久しいの」
眠っているかに思えた老人の口が動いた。
その口調、何より威厳に満ちた声は、数十年前の志摩之介が何度も聞いた声であり、口調であった。
「何ゆえこのような陣場借りを明田殿ほどの士がなさっておられまするか。
それがしにお声掛け頂ければ、如何様にも陣をお貸ししましたでしょうほどに」
「わしはただの牢人。斟酌無用」
ぴしりと告げた声に老いはない。
志摩之介は思わず数十年前のことを思い出していた。
◇
大坂の陣をさかのぼる事三十年前、中川志摩之介は水野家ではなく、讃岐一国を領する大名、仙石権兵衛秀久の元にいた。
知行は千石、鉄砲頭である。
その時の同役であり、足軽頭をつとめていたのが明田次郎兵衛だった。
明田氏は土岐氏、ならびにその分流たる明智氏の一族といわれ、美濃に知行を持つ仙石家譜代の家臣であった。
中でも次郎兵衛は剛勇無双を謳われ、その武勇と剛直な人柄から御家の柱石の一人と称えられていたのである。
外様に過ぎない志摩之介にも、ぶっきらぼうではあるが分け隔てなく接しており、当時の中川志摩之介にとっては恩人ともいえる間柄だったのである。
その運命が変転したのは天正十四年(1586年)の事であった。
関白・豊臣秀吉が旧主織田信長より受け継いだ天下統一の事業、その最後に立ちはだかった薩摩島津家に対し、秀吉は長宗我部・十河といった四国勢を先鋒に攻め込んだのである。
降ったばかりの彼らを監視するため、次郎兵衛と志摩之介の主、仙石秀久も軍監として出征した。
しかし、その戦において仙石家は消しきれぬ汚点を残してしまった。
無理な策を強行し、長宗我部家嫡男信親、十河存保をはじめ名だたる武将と多くの兵を失ったのである。
しかも、総崩れの味方を見捨てて単独で小倉、ついで自領である讃岐へ逃げ帰るという醜態を晒しての敗北だった。
志摩之介もその陣中にいた。
味方がわっと崩れたち、島津が名高い【矢陣】で、その名のとおり狙い済ました矢のごとく迫る中、若かった志摩之介は馬上で虚脱していた。
武士たるものであれば死はもとより覚悟の上といっても、実際に目の前に死が迫れば体が凍る。
首を討たれる恐怖に怯え、彼は乱戦の中必死で馬を自陣の後方へ向けようとした。
「何をしておる!!」
雷鳴のような声が轟いた。
見れば狒狒縅の具足に鮮やかな紺の陣羽織を着、朱槍を手にした次郎兵衛が立っている。
髭に覆われた顔は戦場の興奮に赤く染まり、あちこちから血が流れ出していた。
彼はそのまま、志摩之介の手綱を強引に奪い取ると、無理やり敵に向かせた。
「中川、戦場に怖じるは恥じずともよい。じゃが、敵に背を向けるは武士の恥辱。
生死は刹那にあり、生きようと思えば死に、死のうと思えば生くるものじゃ」
「明田殿」
呆けたような志摩之介を槍の柄で叩くと、彼も自らの愛馬を敵に向けた。
「生は生ならず、死は死ではない。戦場でこそ己をよく見よ」
若い志摩之介には理解しかねる言葉を残し、次郎兵衛が駆け去る。
その背を呆然と眺めていた志摩之介も、思わず敵方に向けて駆け出していた。
それにより、志摩之介は命を拾ったのだ。
しかし、讃岐で城の明け渡しの下知に茫然とする志摩之介に、さらに追い討ちをかける知らせが届いた。
明田次郎兵衛が仙石家を退転(禄を離れる事)したというのだ。
息せき切って志摩之介が明田次郎兵衛の屋敷に駆けつけたときには、既に次郎兵衛自身も、その家来たちも誰もいなかった。
そのまま三十年。
大坂において、二人は再会したのだった。
◇
その日の夜。
水野勢の陣屋の奥まった一角で、主・水野勝成と酒を酌み交わす志摩之介の姿がある。
水野日向守勝成は当年とって四十九歳。
父は徳川家康の母・於大の方の弟にあたる水野忠重であり、家康とは年の離れた従弟にあたる。
戦乱の西三河の出身らしく武勇を好み、また若いころは徳川・織田を離れて流浪の生活を送っていたという、異色の経歴を持つ将である。
「ほう……さような男がいたとはの」
興味深そうに見つめる勝成に、志摩之介は彼の杯に酌をしつつ答えた。
「は。仙石家でも越前守様(仙石秀久)の覚えめでたく、槍の次郎兵衛と言われた士でありまして」
「そのような剛勇の武者、とんと名前をきかなんだがの」
主君の問いかけに、志摩之介は苦笑して答えた。
「なにぶん、美濃の頃より一徹者でござりましたゆえ、なまじの大名には仕えたくなかったものと思われまするが」
「ではなぜ、そのように老いさらばえて陣場を借りるのじゃ? いくら若い頃は剛の者といえど、七十ほどになってみれば体も利かぬであろうに」
首をかしげる勝成に、思わず志摩之介は苦笑した。
そう問いかける主君自身、決して若くない年にもかかわらず、戦となれば手勢の先頭に立ち、槍をしごいて敵陣に真っ先に乗り込んでいく豪勇を誇る。
あまりの無謀さに、従兄の家康自ら「おことはもう槍一本の端武者ではない。身を弁えよ」と異例の訓示が出たことを、重臣たる志摩之介も知っていた。
苦笑を抑え、志摩之介は憶測を述べた。
「さて……しかし、戦場で生き、戦場で死ぬ事こそ誉れと思う御仁ゆえ、老いてなお武辺の血が燃えたのではありますまいか」
「なるほどのう」
勝成は一人頷くと、うまそうに酒をあおった。
「善徳院さま(家康の祖父、松平清康)や我が祖父長江院(水野忠政)の頃なれば、左様な槍一徹の武者は掃いて捨てるほどいたろうが、今時なればこそ珍しきものよ」
「はっ」
「わしもそのころに生まれておれば、気楽に生きられたのにのう。まあよい。志摩。
その武者、わしも会うてみたい。つれてまいれ」
◇
「行かぬ」
翌日。
主君、水野勝成が会いたいと申しておられるゆえ、御同道願いたいと告げた志摩之介への返事は、にべもない一言だった。
周囲の家来たちが一様に青筋を立てる中、それでも志摩之介は慇懃に頭を下げる。
「そこをなにとぞ。今の我が主、水野日向守は諸国の武辺をことさら愛でる御方にて、いささか陣中の無聊を慰める手になればと」
「話は茶坊主とすればよい。わしは行かぬ」
「なにとぞ」
「くどい」
しばらく「なにとぞ」「行かぬ」を繰り返した後、次郎兵衛はついに怒鳴りつけた。
周囲の牢人どもが思わず身を振るわせる、戦場で鍛えた雷喝だ。
「うつけた事を申すな、中川!! 行かぬといえば行かぬ! わしは水野殿の家中ではない!
陣場を借りられぬなれば、他の大名の元へ行くまでの事。
斟酌無用と申したのがわからぬか!!」
一牢人が武者奉行に対し言うせりふではないが、怒髪天を突いた次郎兵衛は立ち上がると、鎧櫃を担ぎなおし、槍を手に取った。
その出で立ちに思わず志摩之介が慌てる。
「な、何を」
「わしは戦に来たのであって、おこと(そなた)の主の無聊を慰めに来たのではないわ!
これ以上続けるようなら本日もってこの次郎兵衛、退散する!」
「な、明田殿! お待ちくだされ! お待ちを」
肩を怒らせて出て行こうとした次郎兵衛の袖を志摩之介が思わず掴む。
やむなく、しぶしぶと次郎兵衛は座りなおした。
だがその目には雷光が漂っており、合う気がないのは明らかだ。
その日の夜。
老武士を連れてこれなかった事を主君に平伏してわびる志摩之介に、勝成はからからと笑って答えた。
「なるほど。そなたの話にまさる一徹者よ。よし。なればわしが直々に会いに行ってくりょう」
だが、勝成は会いに行けなかった。
その日。
大御所・家康からの命令で、水野勢は道明寺口を進む伊達・本多勢の後詰として押し出す事になったからだった。
◇
「ええい! どけい!」
乱戦を一騎の騎馬が駆け抜けていく。
背に裏永楽(永楽通宝の裏)を染め抜いた旗を背負ったその武者は、誰あろう水野勝成自身だ。
大坂方の将、後藤基次率いる手勢が幕府方の奥田・松倉両勢を崩したのを見るや、自ら槍を手に飛び出したのだった。
「殿! お待ちくだされ! 大御所様よりの御下知にて、一番槍一騎がけは法度でござりまする!」
「戦は勢いじゃ! かの右府様(織田信長)も今川冶部大輔(今川義元)を田楽狭間にてお討ちあそばした際は、全軍の先頭に立たれたというではないか」
「御殿!!」
必死で追いすがる志摩之介たち家臣を尻目に、勝成は五十男とは思えぬ機敏さで馬を操り、槍を合わせた相手を一突きで打ち倒す。
「水野日向守勝成じゃ! 道明寺一番槍は貰ったぞ!」
「水野侯ぞ! 出会え! 出会えい!」
「押し包んで討ち取れ! 敵は一人ぞ!」
高らかに叫ぶ勝成に、後藤勢が激昂する。
槍を振るう勝成を敵兵が押し包もうとした刹那。
別の槍が、勝成を狙った穂先を音を立てて弾いた。
「!」
志摩之介は目を見開いた。
次郎兵衛だ。
いつ前に出てきたのか、たった一人で馬にも乗らず、明田次郎兵衛は槍を振り回していた。
「ええい、端武者めが!」
「討ち取れい!」
周囲の後藤勢が逸って打ち下ろす槍を、太い朱槍で殴りつけ、次々と地に這わせる。
たじろいだ敵勢を次郎兵衛はふん、と鼻を鳴らして見ると、背後の勝成を振り仰いだ。
「水野殿。猛勢まこと天晴れ。しかし御家来衆を置いていかれますな」
「そなたが志摩之介が申しておった明田次郎兵衛じゃな。助勢、大儀」
むっつりと勝成に頷いて、次郎兵衛はなおも戦場に向かって歩き去ろうとする。
その背を志摩之介が呼び止めた。
「明田殿!明田殿!」
「中川か。主をしっかりと守れ。戸次川のわしのようになるなよ」
思わず立ち尽くした志摩之介の前で、次郎兵衛はゆらめくように、合戦の土煙の中へと消えていった。
◇
その日。道明寺村、誉田村近辺を舞台に繰り広げられた激戦は、後藤・薄田はじめ大坂方の将の総崩れ、討ち死にによって幕を閉じた。
とはいえ、幕府方も楽に勝てたわけではない。
あちこちに負傷者がうめきを上げ、物言わぬ死者の躯が折り重なる中、志摩之介は祈るように牢人たちの陣を見て回っていた。
牢人たちの被害も大きい。
彼らは大名にとって、いわば使い捨てにできる兵力である。
当然ながら、彼らは激戦区に放り込まれ、武功を求める彼らもまた、嬉々としてそれに応じた。
結果、牢人たちの多くは討ち取られ、あるいは負傷してようやくの思いで帰陣していた。
「すまぬな。各々方、御見事である」
苦しむ彼らに声をかけながら歩いていた志摩之介の目に、目に焼きついた老躯が見えた。
「明田殿!」
「中川殿か」
ぼろぼろの具足の上を脱ぎ、斬られたとおぼしき傷に膏薬を塗っていた次郎兵衛が振り向いた。
その彼に、志摩之介は当たり前のように膝をつき、家来たちもそれに従う。
無言の次郎兵衛に、志摩之介は深々と頭を下げた。
「今日はわが殿の危難をお救い下さり、感謝の次第もございませぬ。
本来であれば殿おん自らここへ参るところでござるが、鼻紙なりと」
「金は要らぬ」
差し出された、懐紙に包まれた紙を見もせずに次郎兵衛が即答する。
されば、と志摩之介が取り出したのは徳利だった。
「さればこの酒を。灘の銘酒にござるぞ」
「……厚志ありがたく頂こう。では、中川殿よ。昔話でもせぬか」
受け取った次郎兵衛の意外な言葉に、家来たちが一様に目をぱちりとさせた。
一人志摩之介だけが嬉しそうに頷く。
「では、人のおらぬところまで参りましょう。ご案内つかまつる」
◇
陣場の片隅にある古びた納屋に座ると、饐えた藁のにおいがぷうんと鼻を突いた。
持参した土杯に、まずは志摩之介が酒を注ぎ、次郎兵衛に渡す。
次郎兵衛がもうひとつの杯に酒を注いだところで、ゆっくりと二人は飲みだした。
この時代、酒は貴重品である。
金を受け取らなかった次郎兵衛も、酒は素直にありがたかったらしく、彼は老顔をうまそうに綻ばせて杯を数度、呷った。
「よき酒じゃな」
「わが殿よりの寸志にござる」
「水野殿にはよろしゅう伝えてくれい」
そういって、つまみ代わりに塩を舐めながら、やがてぽつりと次郎兵衛は言った。
「この年になって、まだ戦場の修羅道を迷うておるとは、いやはや、我ながら業深いことじゃ」
「………」
「のう中川。あの戸次川でのこと、覚えておるか?」
「……忘れるはずもございませぬ」
志摩之介の返事に次郎兵衛は苦笑した。
「あの時。故太閤殿下の御下知は、『構えて戦をいたすな』であった。
東海道で大御所様(徳川家康)と戦をなさっておられたからの。
じゃが、越前守さま(仙石秀久)は戦を急がれた……そして負けた」
知らず、二人の顔が苦くなる。
彼らにしてみても言い訳しようがないほどの敗北であり、醜態だったのだ。
「美濃以来、戦場往来なさっておられた越前守さまがなぜあのような戦ぶりをなされたのか。
拙者はいまだ合点がいきませぬ」
「わしもじゃ。 ……じゃが、今になってわかったこともある」
「というと?」
「越前守さまも人の子じゃったということよ。わしもな。
……わしは、あの時そなたを鼓舞し、生死は刹那にあり、と言うた。
じゃがな。……笑うてくれ。本音を言えば、わしはあの時、怖気づいたのじゃ。
槍の次郎兵衛などという名も廃るわ。
わしは、あの時、逃げる越前守さまにやむを得ず従う振りをして、逃げたのじゃ。一目散に、の」
周囲のざわめきが消える。
次郎兵衛は、墓地の底のような沈黙の中、次郎兵衛の言葉を理解しないまま、何度も反芻していた。
やがて、からからに乾いた口から言葉が搾り出される。
それは、死者のうめきに近かった。
「……に、げた? まことにござりまするか」
「おうよ。まことじゃ。 逃げたのじゃ。わしは。そしてその怯惰のまま主家を退身した。
そなた、爾来三十年、わしの名も噂もついぞ聞かなんだろう」
「はい」
うつろな手つきで酒を口に運びながら、次郎兵衛は呻く。
「わしは逃げた。 さむらいから、主家から。戦場から。
わしは顔を知られておらぬ播磨へ行き、そこの村で嫁をもらった。
田畑を耕し、百姓として生きてきたのじゃ。
子もでき、大きくなり、孫もできた。生涯、もはや槍働きはせぬだろう、と、思った……」
「ではなぜ。なぜこのように戦場におられまするのか!」
志摩之介の悲鳴じみた声に、次郎兵衛が暗く笑う。
「さて。なぜかの……。 老いて、あとは妻と子孫に看取られて死ぬのみと思ったとき、
ふと、あの戸次川の戦が思い出されたのじゃ。
あそこにわしは武士の魂を置いてきてしもうた。
そう思うたら、いつしか矢も盾もたまらなくなり、具足を持って出てきてしもうたのじゃ」
「明田殿……」
酒を飲むことも忘れて志摩之介が呆然と呟く。
その前で、老武士は黙然と、ただ酒を飲んでいた。
どこかで夜烏の声が響く、暖かい夜であった。
◇
五月七日。
大坂城を遠目に見る、天王寺口に陣を構えた大坂方に対し、幕府軍は天下茶屋に伊達政宗、阿倍野村に松平忠明を中心に、十重二十重の陣を敷いていた。
既に大坂方に逃げ場はなく、あちこちで退散する牢人たちが幕府軍と小競り合いを続けている。
志摩之介はその中、住吉に陣を構えた水野勢にあって、主君のそばに馬を立てていた。
その内心は嵐のようだ。
(次郎兵衛殿ほどの豪勇の士が、戦場に怖じて逃げた……)
この一念だ。
ふと、隣で顔をしかめて采配を叩いている主君・勝成を見る。
武田による高天神城攻めで初陣を上げ、その後、名だたる合戦に参加しただけでなく、
実父・忠重によって放逐されてからは、九州や西国で小西・黒田・佐々といった武名高い武将の下で、常に豪勇を誇った主君だ。
志摩之介自身、彼と初めて会ったとき、巨馬を操り、長柄の槍を軽々と振り回して戦場に飛び込む勝成の姿を見て、思わず瞠目したものだった。
その姿は、往時の次郎兵衛の姿と重なる。
では、勝成も戦場に怖じたことがあるのであろうか。
答えの出ない思考の迷路に志摩之介がとらわれかけたそのとき、前方からわあ、っという歓声が上がった。
「何事じゃ!」
「本多内記さま、御討ち死に!! 御味方総崩れにございます!」
「平八が!? なんと!」
ばしり、と采配をへし折って勝成が叫ぶ。
本多内記とは、勇将・本多平八郎忠勝の長男、平八郎忠朝だ。
先手の総大将である彼の戦死に、家臣たちが浮き足立つ中、勝成はなおも叫んだ。
「ほかの将はどうなっておる!」
「小笠原信濃守さま、同入道さま、討ち死に!」
「仙石兵部大輔殿(仙石忠政)、真田河内守殿(真田信吉)、総崩れ!
御味方を突破して真田左衛門佐(真田信繁)、毛利豊前守(毛利勝永)両勢、本陣に向かってござる!」
物見の報告は絶望一歩手前だった。
この時代、真田信繁、毛利勝永の武勇は諸大名から末端の兵卒に至るまでよく知られている。
特に、父・昌幸を通じて武田信玄の軍略を学び、本拠の信州・上田城で、二度にわたって徳川の大軍を退けた真田の武勇は、本多・榊原といった徳川屈指の猛将を退けたという事実もあって、伝説的な恐怖すら呼び起こしていた。
「うろたえるでない!!」
馬にまたがり、槍を小脇に抱えて勝成は吼えた。
「みな! 何を呆けておるか!進むぞ!」
「進むとは、本陣へでござるか」
「たわけが!!」
問いかけた家臣を槍で殴り飛ばして勝成は馬の拍車を当てる。
「真田の本丸、茶臼山を落として後背を絶つ! 続けい!」
混乱にまみれる諸大名の軍勢を押し流すように、水野勢は怒涛のごとく進んだ。
本軍からはぐれた敵兵を踏み潰し、混乱する味方の陣を蹴り飛ばすように、勝成を先頭とした水野勢は旗を翻して進む。
志摩之介は、主君に遅れまいと必死で馬を走らせながら、ふと後方を見た。
そこには、勝成の手配りで馬を与えられた明田次郎兵衛が、朱槍を抱えて続いている。
時折、老人と侮って突っかけてくる敵兵を、抜く手もみせず突き殺すさまは、とても先夜、恐怖に怯えたことを告白したとは思えない。
殺意と悪意の充満する園を、次郎兵衛はまるで生まれたときからそこにいたかのような軽やかさで走っていた。
その光景に、我知らず志摩之介の顔がほころぶ。
「志摩!! なにを腑抜けておる!」
「あ、いや」
勝成の遠慮会釈もない罵声に、あわてて志摩之介は前方をにらみなおした。
水野勢が、主を失った茶臼山を占拠したのは、その間もなくのことだった。
◇
「ようし! 押し出せい!」
突撃を続ける真田・毛利両勢と、大坂城との連絡を絶ったところで、勝成は幟を立てて大きく家康のいる奈良街道へ向けて押し出した。
「伊達殿、討ち死に!」
「紀州殿(浅野長晟)御謀反!」
周囲には、虚実定かでない報告が飛び交っている。
それらのどれが正しく、どれが嘘であるのか、もはや知るすべはない。
志摩之介は手勢二百をつれて突進していた。
その横には、当たり前のように次郎兵衛がいる。
「中川殿よ。これからいかに」
「知れたこと。殿を守り参らせ、大御所様をお救い申し上げる」
「では、わしはこれにて」
街道を疾駆する手勢から、ついと次郎兵衛の馬が離れた。
思わず手を伸ばそうとした志摩之介に、次郎兵衛が笑う。
「毛利、真田はまこと日本一の兵どもじゃ。あれなるよき敵と戦えてこそ、わしも戸次川の落し物を拾うことができよう」
「明田殿! お命無駄に捨つるおつもりか!?」
「中川よ」
騒音の中で、その声だけが奇妙に静かに響いた。
「わしは主君越前守さまを守れなんだ。おことはわしのように、むやみに落とすでないぞ」
「明田殿!」
ゆっくりと馬が離れていく。
それが、志摩之介が見た、次郎兵衛の最後の姿だった。
◇
乱戦は、徐々に収まっていった。
三度に渡って突撃を繰り返し、三方が原以来不敗を誇った家康の金扇の馬印を倒した大坂勢だったが、数の差はついに押し返せなかったのだ。
あちこちで疲れ果てた真田・毛利の兵が討ち取られる中、轟、という音に誰もが城を振り返る。
「大坂城が……燃える」
それは誰の言葉だっただろうか。
かつて天下の中心として豊臣秀吉が作り上げた大坂城、その壮麗絢爛な天守閣が炎に包まれ燃え落ちていく。
その場の誰もが、なんともいえぬ感傷に心を震わせる中、勝成は一人、馬を駆っていた。
腰には、侍首がふたつ、当たり前のように縛り付けられている。
彼は、茶臼山から押し出し、壊走した前方・松平忠明の兵を一喝して押しとどめてから、従兄・家康を救うべく、手勢とともに走っていたのだ。
既に家康・秀忠の無事は確かめてある。
彼の内心を占めていたのは、乱戦ではぐれた家臣たちの安否を気遣う気持ちともうひとつ、
この、おそらくは生涯最後の決戦で、より長く、より多くの敵と戦いたいという気持ちだけだった。
「水野日向守勝成じゃ! われと思わん者は出会え!出会え!」
そう叫びながら疾駆していた勝成は、ふと街道そばの祠に目を向けた。
誰が立てたのか、道祖神代わりの地蔵菩薩を祭った祠のそばに、倒れている人影がある。
そのそばで所在なげにたたずむ馬に、勝成は見覚えがあった。
「明田! 明田次郎兵衛! 大事ないか!」
馬から飛び降り、周囲に油断なく視線を向けた後、祠に飛び込むように倒れる人影に目をやる。
まさしく明田次郎兵衛だった。
地蔵を掻き抱くようなその全身は赤に濡れつくし、誰が見ても致命傷だ。
勝成は、彼にまだかすかな息があることに気づき、思わず耳をそばだてた。
討たれた武者に首があるということは、その武者を殺した敵兵がそばにいることを示すからだ。
槍を地面に突き刺し、刀を抜いて周囲を見るが、どこへ行ったのか敵の姿はない。
ほう、とため息をついて勝成は倒れた次郎兵衛を抱き起こした。
「明田! 言い残すことあれば聞くぞ! わしは水野日向守じゃ!」
「おお……殿……」
うっすらとまぶたを上げて、次郎兵衛が囁いた。
その目は半ば夢見るようで、彼が冥界へ向かいつつあるのは明らかだ。
「明田!」
「殿……次郎兵衛をお許しくだされ……殿をお諌め参らせず、ともに怖気づき、四国の武者どもをあたらみすみす死なせてしまいまし……」
「明田……」
勝成も、志摩之介から彼と次郎兵衛のかかわりのあらましは聞いている。
ともにかつて仙石家中にあり、戸次川の戦いで敗れたことも。
勝成を見ながら、次郎兵衛は別の人物に向けて囁く。
「殿……この次郎兵衛めは不忠者にござれば……遅まきながら追い腹切って、弥三郎殿や民部大輔殿に冥土で詫びを……」
「明田!」
「……お許しくだされ」
それが、明田次郎兵衛の最後の言葉だった。
◇
慶長から改元し、元和元年(1615年)八月。
暑さもようやく収まったころ、志摩之介は大坂の郊外にある小さな墓に詣でていた。
墓石には、荒々しい削りで『明田次郎べえ之墓』と書かれている。
黙って額ずく志摩之介の後ろに、少年とも言える年頃の二人の武士が静かに瞑目していた。
やがて立ち上がり、裾を払う志摩之介に、二人の少年のうち年長のほうが尋ねた。
「父上。この墓の主はどのような方でおられたのですか」
「わが友じゃ」
そういって、志摩之介は背後の二人、これから養子に出す二人の息子たちを見た。
「三木之介。九郎太郎。そなたらは城に戻りてより、この中川家ではなく宮本武蔵殿の子となる。
ゆえに、今より申すことはこの父からの最後の手向けじゃ。心して聞け」
「はい」
緊張して答える二人の息子に目だけで笑うと、志摩之介は手にした徳利を墓石にゆるゆるとかけた。
「この墓に眠る御仁はの。戦で無双と称されながら、たった一度、戦に怖じられた。
その怖じた心を拾うまでに、三十年を費やした。
そして、心を拾うて亡くなられたのじゃ。
三木之介、九郎太郎。そなたらはこれより水野家で得た武勇と共に、豪勇宮本武蔵殿の名跡を継ぐことと相成る。
どのような戦であれ、戦に怖じるのはよい。じゃが、心を捨ててはならぬ。
この御仁も、捨てるつもりはなかった心を捨ててしまわれた。
それが一生を縛ってしまった。
生死は刹那、生きるときに死に、死ぬべきときにこそ生きよ」
「父上。……まだ、よくわかりませぬ」
幼い九郎太郎の困惑したような答えに、志摩之介は微笑し、もう一人の息子を見た。
「三木之介はどうじゃ?」
「命を捨てるときを誤るなという、ことにございまするか」
しばらく考えてからの返答に、志摩之介は微笑をさらに深くした。
「半分じゃな」
「では、もう半分とは」
「納得して生きよ、ということじゃ。生死いずれにしても、己が納得した生き様なれば迷うことはない」
「……心します」
何かを決意した顔の息子から視線を離し、志摩之介は空を見上げた。
秋特有の深々とした青空が、彼の頭上を彩る。
「明田殿」
いずれ、播磨の村を回り、次郎兵衛の妻や子に彼の死を伝えねばならぬ。
それは決して楽しい旅ではないだろう。百姓である彼女らにとって、次郎兵衛が死ぬに至った心持は、おそらく理解の外にあるであろうから。
だが、それでも志摩之介は楽しみだった。
視線の隅で早咲きの竜胆が一輪、ふわりと揺れていた。
本作の登場人物のうち、明田次郎兵衛だけは架空の人物です。
明田氏は、明智氏の傍流にあたり、本能寺の変以降、明智氏は多く改姓しましたが、その中には明田を名乗った人物も多いそうです。
また、本作に登場する水野勝成が、家康の従弟にして譜代大名でありながら、大坂の陣で一番槍を取ったというのは、(おそらく)事実です。
……なまじのチート物の主人公並みに武力チートな人ですね。その割りに『信長の野望』にはあまり出てこないけど。
なお、この人は大坂の陣以降も長生きし、なんと島原の乱にも息子、孫と三代で出陣しています。
そうかと思えば若いころ密偵だったとか、虚無僧だったとか、行き倒れて婆さんに飯を恵んでもらって生き延びたとか、エピソードにも事欠かない人ですね。
なお、この人と息子・勝俊は貧乏生活を経験したからか民衆に暖かく、後にこの人の直系が絶えたとき、領土の備後福山は表高十万石に対し、実質十五万石以上の豊かさを誇っていたとか。
いずれはこの人を主人公にしてみたいなあ。