4
お付き合いありがとうございました、これで終わりとなります。
7
涼ちゃん。
涼ちゃん。
涼ちゃんってば。
「……んあ?」
涼ちゃん。
「……んだよ、まだ眠いんだって」
涼ちゃん、涼ちゃん、涼ちゃん!
「うるせーなー、鹿乃ぉ。お前は母ちゃんかっつの」
毎朝毎朝眠いのに、しかも部屋に入ってくんなって言ってあるのにそんなのお構いなしで部屋に突撃してきて布団を引っぺがす、俺の母ちゃんかよ。
そんなにゆさゆさ揺らすなよ俺すげー眠いんだって、ものすっげー疲れてるんだからさ、なんたってお前の魂取り戻しに行ってたんだぜ? もうちょっとくらい寝かせておいてくれ、よ、って。
「鹿乃!」
「うわあ、びっくり。やだ、涼ちゃんよだれ垂れてるよ」
「……鹿乃?」
「なによ、お化けでも見るような顔して。いつまで寝てるの、もう帰ろう?」
帰るってなんだ、と涼介はガバリと起き上る。
やけに薄っぺらい布団だしギシギシいうと思っていたら、保健室の古いベッドの上で。
上半身を起こして、涼介はぶんぶんと頭を横に振る。
「ちょっと、犬みたい」
くくくくく、と笑う鹿乃の、いつもの声。
紺色の野暮ったい制服に、袖が長すぎるのか裾からちらりとはみ出している薄茶のセーター。慌てて涼介は自分の身体を見る。いつもの紺色のブレザー。胸元に紅葉をかたどった校章のワッペン。緩められた、灰色のネクタイ。そこにも校章が刺繍してある。
「……鹿乃、だよな?」
「ちょっと、つまんない冗談やめてよ。幼馴染みの顔忘れたとかってどんなボケよ」
「……生きて、る?」
「私をどこで殺したの」
唇に軽く曲げた人差し指を当てて、喉の奥でくつくつと軽い音を立てるいつもの笑い方。
「私が死んじゃう夢でも見たの?」
「……夢?」
夢?
あれは夢だったのか?
あんな現実感のありすぎる夢があってたまるか、と思いかけたところで涼介は首を傾げる。現実感は、なかったかもしれない。
「夢、か……?」
「まだ寝ぼけてるの?」
「そうだよなあ。そうだよな、こんな現代に魂抜いただの人と動物を掛け合わせるだの死ねない死人だのって、なあ」
「あ、なあに、そんなに壮大な夢見てたの?」
「壮大っつうか、疲れる夢っつうか、あー、でも綺麗な女の人いっぱい出てきた」
「なになにそれ、やらしい夢?」
「やらしくなんか、ねー、よ……」
「やらしーい、涼ちゃん言葉を濁した! 絶対やらしい夢でしょ、やだやだ、涼ちゃんやーらしーいんだー」
「ちょっ、」
やめろよガキじゃあるまいし、と涼介はベッドから飛び降りる。
捕まると思ってか逃げる鹿乃は、きゃらきゃらと笑いながらスカートをひるがえす。
なんだ、夢か。
まさかの夢オチかよ。
拍子抜けすると同時に、安堵の思いがじわじわと湧いてくる。良かった。鹿乃は魂を抜かれたりなんかしていなかったんだ。良かった。本当に、良かった。
「ところでなんで俺、保健室で寝てんの?」
「知らないよ、一緒に帰ろうって思って待ってたのにちっとも教室に戻ってこないし、そうしたら先生が日誌取りに行かせたのにちっとも戻ってこないって言うから。私、理科準備室まで行ってもいないじゃん。で、何気なく窓の外見たら、焼却炉のところで涼ちゃん倒れてるんだもん。びっくりしちゃった」
「……焼却炉のところで?」
「そうだよー。慌てて先生呼んじゃったよ。今部活休みだから、運動部の力がある男子とかもほとんど帰っちゃってるし、仕方ないから先生と柔道部の顧問の先生が涼ちゃんのこと運んだんだよ」
「なんだよ、倒れてたんなら救急車とか呼ぶんじゃないのかよ」
「えー、だって涼ちゃん、『団子はいらないです』とか、『金平糖ですか』なんて寝言言ってるのよ?そんなの絶対寝てるだけじゃない。なにか深刻な状態で倒れてる人じゃないじゃない? ゆすっても起きないし、本当に困ってたんだから」
団子とか金平糖とかは、きっと狸姐様との会話だ。
本当に夢だったとは。
なんだ、と身体中から力が抜ける。涼介はへなへなと保健室の床にへたり込んでしまった。
「やだちょっと、大丈夫? 涼ちゃん?」
「なんだあ……夢か……」
「残念そうな顔してるけど、そんなにいい夢だったの?」
「なんかもう、超大作の映画を一本見終わった感じ。面白かったけど集中しすぎて疲れたって状態の。……あれ、見終わってはいないよな?」
涼介は主様と呼ばれる人物の顔を見なかったのだから。
「あー、ラスボス見る手前で寝ちまった感じ!」
「ラスボス?」
「まあ、夢だもんな……夢なんか変なところで途切れたり目が覚めたりするもんだもんな、仕方ないか。ほら、昔じいちゃんに聞いた話があったじゃん。魂抜きとか人買いとかのさ」
あの夢を見てたんだ、と言うと、鹿乃はぎこちなく笑った。
共通でない思い出を懐かしそうに語られてしまった人の、困惑そのもので。
「あれ、覚えてない?」
「覚えてない、っていうか、記憶にないっていうか、」
「うっそ、鹿乃記憶力いいのになんだよ、珍しいな」
「ね、じいちゃんって、誰?」
パシンッ、と。
世界を包んでいる薄いガラスのような膜が、割れた感覚があった。
もちろんそれは目に見えるわけではなく、ただそんなような感じがあっただけだ。なにかが間違っているから、元の世界が目を覚まして融合したがっている音。
「……は? なんの冗談?」
「涼ちゃんこそ、なんの話?」
「おい、じいちゃんだって、じいちゃん! 昔近所に住んでたじゃん、つるっぱげでさ、前歯とか欠けてて、よく俺達遊びに行ったじゃん。ひとりで住んでて、いろんな話して、くれ、て……」
説明しながら、涼介の言葉はどんどんと尻つぼみなっていく。鹿乃が眉根を寄せる、そのしわが深くなっていく。
鹿乃の記憶にないもの。
涼介の記憶にあるもの。
「……マジ、で?」
「ごめん、誰のこと言ってるのかさっぱり……分からないんだけど」
困った顔で涼介を見る。本当に覚えがないらしい。
どこだ、ここは。
俺が目を覚ますべき世界ではなかったんじゃないのか。
ここは、どこだ。
ここは。
俺の鹿乃がいる世界ではなかったのか?
「鹿、乃……?」
「涼ちゃん、まだ寝惚けてる?」
顔も声も仕種もなにもかも。鹿乃のものだ、目の前の女が鹿乃でないはずがない、俺は間違えたりしない、鹿乃を間違えることなんて絶対にない、と涼介は強く思う。
でもなにかがおかしい、涼介は自分の記憶が間違っているとは考えなかった。
じいちゃんはいた。
絶対にじいちゃんは存在していた。
だって、いろんな話を聞いたんだ、鹿乃とふたりで。魂抜きが現れてしまったら鹿乃を守れと、涼介は言われたのだ。人買いにさらわれないように、と。それ以外にもいろんな話を聞いた、その記憶が全部残っているのだから、まさかそれまで夢の話だなんて思えない。
涼介。
遠いところで声がする。
床から立ち上がり、ふらりとする首を横に振って、涼介は肩を落としつつも両脚に力を込めてしっかりと立つ。
涼介。
狐の声。
涼介の名前を呼ぶときに微かに混じる、甘いような切ないような色。
「鹿乃……?」
耳の奥でまだ響く狐の声が、夢だったとは思えなくなってくる。
「……涼、ちゃん?」
「鹿乃? 鹿乃っ!」
ぐにゃりと目の前の景色が揺れる。渦を巻いて溶ける。保健室の白っぽい空間ごと、鹿乃の顔も身体も溶けてぐるりと色を混ぜる。
慌てて手を伸ばそうとしても、涼介の身体は動かない。
なんだこれはなんだこれはなんだこれは。
頭痛がする。
それは気付かないうちにこめかみの辺りからするりと忍び込んできて、徐々に痛みを増していく。
涼介は頭を強く掴むと、鹿乃の名を吠えるように叫んだ。痛い。頭が、痛い。痛い。痛い。痛い……。
「涼介っ、お逃げえええええっ!」
暗闇の向こうで狐の悲痛な叫びが聞こえる。
「えっ……、」
目の前は真っ暗で、自分がどこにいるのか分からなかった。
夢の続きか、夢の中に戻ってしまったのか。
暗闇に目が慣れる間もなく、突然視界が開かれて光が飛び込んできた。眩しさに腕で顔を覆う。幸いだったのは太陽のまぶしい日差しではなく、夜を照らすための淡い灯りによる光だったので、そう目が痛まなかったことか。
「狐、姐様……?」
髪も着物も乱して顔を引きつらせた狐がいた。押入れに隠れていたことをようやく思い出す。まばたきを何度も繰り返す、頭痛はなくなっていた。あれは幻だったのか。
「俺、寝てた……?」
鹿乃がいた。学校の、保健室に戻って魂は元から抜かれてなどいなくて、寝ていたのは俺の方で。
「あっちが、夢……?」
ただのいつもの日常があった、この世界ではなく、普段の自分の世界があった、あっちが夢だったんだろうか、だけどあまりにもそれはリアルすぎた、いつも通りだった、鹿乃が起きていて動いていて微笑んでいて。
「涼介!」
狐の手が伸びて涼介の腕を取る。押入れから引きずり出されても、涼介はまだなにが本当のことなのか分からないでいる。
「早うお逃げ、主様がお前さんに気付かないはずがなかったんだ、」
「き、狐姐様?」
「早う、早う、お逃げったら!」
「どこへ?」
「どこでもいい、ここではないところへ!」
取り乱して狐は叫ぶ。
まだぼんやりとする頭を振り絞って、涼介は夢を見る前のことを思い出す。主様が来るって言って、狐姐様が俺に匂いをつけて押入れに隠して。そういえば狐の着物を着たままだった、こちらが夢ではないのだと涼介ははっきり自覚する。頬を叩かれたように、ぶれていた意識がひとつにまとまって目が覚める。
「主様は?」
「いいから、いいから! お逃げ!」
狐が声を張り上げたとき。
ずんっ、と空気が重たくなった。背中にぞわぞわと冷たいものが這い上がってくる、両方の腕にざわざわと鳥肌がびっしりと立つ。
禍々しいもの。
重たくて冷たくて息苦しい空気。
「涼介っ、」
狐の細く甲高い叫び。
これは。
これは、鹿乃の魂を取り戻したくて人買いを待っていたときと同じ空気。ねっとりと嫌な汗を背中に、額に、胸にとじっとりかく。息苦しい。嫌な感じ。気持ち悪いような、恐ろしいような、負のエネルギーを濃厚に凝縮したような。
「見いつけた」
けけけけ、と笑いながらそいつは襖を開けた。
「意味のないことを」
粘つく声が低められて、耳をふさぎたくなるような嫌悪感を抱かせる。
「……この化け物達がっ」
狐が涼介を庇って両手を広げ、立ちはだかる。その隙間から見えた、襖の向こう。
そこには背の随分丸まった、猿のように毛深い男がいた。まん丸な目の真ん中に小さな瞳がある。眼球が半分ほど飛び出しているかのようだ。耳まで裂けた口には、ひとつひとつが奥歯のような、太くて黄色がかった歯がびっしりと生えている。
見るからに硬そうな、真っ黒く短い縮れ毛が頭を覆っていて、正直な話、涼介には髪の毛ではないところの毛を連想させた。
「化け物ぉ? なにを言うんだ、この女は。おれ達とお前達とどんな違いがあるっていうんだぁ?」
ぎょろりと飛び出した目のままで猿の化け物としか思えない男が笑う。
妙に間延びした太い声。
その後ろに、やけに細長い影が伸びていると思ったら、影ではなく黒尽くめの長身の男だった。顔の半分も黒い布のようなもので覆っていて、鋭くつり上がった目しか見えない。身体の凹凸もほとんどなかった。ただ、手と脚が異様に長い。
「見いつけた、見いつけた、さてどうしてくれよう生きてる人間」
猿の化け物が目を細める。それは人間の瞼ではなく、薄い膜が目の上下から出てくる感じだった。ああいう目を涼介は見たことがある。テレビかなにかで見た、鰐だったか鳥だったかとにかく哺乳類ではない種類の生き物。
生きてる人間がこんなところにいちゃいけないんだぁ、と猿が囃したてる。両手を頭の上で叩き合わせ、ガニ股の脚でステップを踏んで左右に揺れて。
「主様に言ってやろう、言ってやろう。生きてる人間がこんなところにいちゃいけないんだぁ。お前のせいでおれらは主様に怒られたんだぁ。お前、おれが魂抜いた女をどこやった?」
魂を抜いた女。
頭で理解するより先に、背中へぶわっと鳥肌が立つ。
魂を抜いた女。
鹿乃のことか。
それではこいつが、魂抜き。
「お前のせいで人買いが女をさらえなかったぁ」
猿が人差し指を立てて涼介を指差す。いつの間にかその短く太い指からは、二十センチほどの爪が鋭く伸びていた。こいつが魂抜きなのなら、黒い影のような男が人買いか。涼介はそう見当をつける。
では、鹿乃の魂はそこの猿が持っているのだろうか。
「鹿乃の魂を返せ!」
「返せぇ? ふざけたことを言う奴だなぁ、あの女はここで主様が死人に変えるんだ。どこに隠した、そっちこそ女を出せぇ!」
右目を眼球の半分ほどまでぎょろりと剥き出しにし、左目は上下の膜で細めて猿が叫ぶ。裂けた口はますます耳の方まで裂け、それはひどく恐ろしい形相だった。
「女なんてこっちにゃあいないよ。この子が死人ではないというんなら、元のところに戻してやればいいだけの話、魂なんぞ戻してやればいいだろうが。それでこの子は大人しく帰るんだから」
「狐ぇ、お前は主様ではないだろうが。おれらに命じることができるのは主様だけだと忘れたかぁ?」
「ふん、主様がいなければなにもできないだけの話だろうが!」
猿が眉のない額にしわを寄せた。次の瞬間、天井に届くほど大きく飛んだかと思うと、狐の目の前にどすんと落ちる。
「なぁ、狐ぇ」
芋虫のようなころころとした指と、鋭く長い爪がアンバランスで奇妙だ。嫌な感じの違和感を覚えさせるその手で、猿は器用に狐の顎を掴んだ。
「なっ、」
「てめえの綺麗なお顔を切り刻んでもいいんだぜぇ? どうせ死なないんだ、傷が残ってもいつかは消えるよなぁ? それとも手足ばらばらに切り刻んでやろうか、それでも死なないんだからな、死人の狐さんよぉ」
「放せっ、」
「てめえらが永久に生きていられるのは誰のおかげだと思ってんだぁ、老いもせず劣化もせず魂抜いたときのまんまでよぉ」
放せ、と狐が低い声で唸る。
尻尾が威嚇のためか、ぶわりと何倍にも膨らんだ。
「おお怖い。そいつのために怒ってんのか、どうした狐ぇ。まさか生きてる人間に惚れたんじゃないだろうな」
「だったらなんだっていうんだい、下衆な勘繰りは止してもらいたいねえ。あたしはお前さんが気に食わないだけだよ!」
狐の蓮の花が描かれた袖が舞う。ぱしりと猿の手を払いのけたが、その時に頬を爪がかすったようだった。ち、と狐が吐き捨てる。
「この子に触んないでおくれ。無害なもんだ、元のところに戻してやればいいだけの話だろうが」
「そういう訳にもいかない、と言いたいところだけれど、狐ぇ、お前上手いことそこの男を隠していたもんだなぁ。他の誰もがそいつを死人だと思っていやがる」
狐がせっせと自分の匂いをつけてくれたからだ。涼介は頬に重ねられた狐の肌の感触を思う。狸も兎も猫婆も、小間使い達もみな涼介を死人だと疑いもしなかった。
「でもなぁ、生きてる人間がここに混ざってるのは良くないってことは分かるよな? せっかく主様から永久の命をもらってんのに、なんでかここの女達は死にたがる。焼いても焦げ付いたまんまで生きていられるものなのに、死ねないのは苦痛だなんて言いやがる。狐、お前も知ってんだろ? 確かに死人は死なないが、生きてる人間の魂を食うとその死ねない死人にも寿命が生まれるってことは」
もしやお前、と猿が粘着いた笑い声を上げた。
「お前自分が死にたくてその男を飼ってんのか。でもまだ死ぬ勇気がないんだろう、死ねる気になるまで手元に置いておくつもりだったか」
「ふざけるんじゃあないよ、魂抜き。元はといえばお前さんがあたしの魂を抜いたんだ、あたしを死ねない身体にしたのはお前さんだ、涼介の魂を食う? 可愛いこの子を傷付けようとしたら、あたしが許さない、よ、きゃああっ!」
猿ばかりがしゃべっているのをずっと眺めていただけの黒い男が、すっと動いたかと思うとまばたきの間に狐の腕を取ってひねり上げ、そのまま体重をかけて畳の上へ押し倒す。
「痛っ、」
「狐姐様!」
狐の着物を身につけたまま、涼介は考えるより先に飛び出す。
黒い男を突き飛ばして狐を助けるつもりだったが、それを猿が遮った。
「きひひひひ、駄目ぇ」
前にいきなり飛び出されたので、涼介はそのまま思い切りぶつかる。猿はいびつに長い腕を伸ばし、器用に背後へ回ると涼介に絡み付き、力いっぱいに締め付けてきた。
「ぐっ、ぐ、ぐるじ……、」
肺を圧迫されて息が上手く入らない。
したばたともがくけれど、猿の腕はがっちりと締め付けてくるばかりだ。息が上がる。空気を求めて口を大きく開けるけれど、入ってくるのは肺が望むだけの充分な空気ではない。鼻の穴も大きく広がる。
「涼介ぇ!」黒い男に組み敷かれた狐が叫ぶ。
「がはっ、かはっ、がっ……、」
「きししししし、いやいや殺しはしないよ、そんな勝手なことをしたら主様に怒られるからなぁ」
腕が緩められて、途端に入ってきた空気に涼介は喘ぐ。けれどそれは長くも続かず、涼介は猿から顔を殴られる。きひ、きひひ、と嬉しそうに、飛び出した眼球の周りの肌を歓喜の色に染めながら。
次に胃の上。次に下腹。重たく響く痛みだ。痛みというより、衝撃と、熱だった。殴られるだけでなく、猿の爪が肌を裂く。着物の裾を、袖を、鋭い刃物のように切り裂いてしまう。殴られるたび、切り刻まれるたび、涼介は喉の奥でくぐもった声を発する。
猿は遊んでいるのだろう。涼介が血で汚れすぎないようにと加減して切る場所を選んでいた。鋭く切られすぎるせいか、流血も実際そうはないのだ。けれど、焼かれるような痛みが伴う。
「そうですよねぇ、主様ぁ」
「主、様……?」
襖の向こう側。
頭を殴られてふらふらになった涼介が、霞む目を向ける。
「主……、」
「くふふふふふふ、お前主様に気を取られてるのはいいけどさぁ、狐の心配してやった方がいいんじゃないの?」
言われた瞬間に突き飛ばされた。弾けるように飛んで、涼介は狐の倒れているすぐ横へ転がる。
「狐姐様!」
黒い男は狐の身体からすでに退いていたが、当の狐は額にびっしりと汗をかいて小さく震えていた。小さく、絶え間なく、小刻みに。赤い唇は真っ青に変わっていて、顔色もひどく悪い。
「狐姐様になにをした!」
身体が痛むなど、血で汚してしまうかもしれないなどと言っていられず、涼介は跳ね起きて狐を抱きかかえる。普段でも低い体温をしているが、今は氷のように冷たかった。甲に傷の走る手で、狐の額をぬぐう。冷たく粘ついた汗だった。
死人は汗をかかないと、狐は言っていたはずなのに。
よほどの恐怖を感じたせいなのか。
「りょ、涼介……?」
「狐姐様!」
「く、蜘蛛が……」
「蜘蛛?」
虫などどこにもいない。
そう思ってすぐに気付く。彼女の言う蜘蛛が、虫ではない死人の蜘蛛を指しているものだと。
狐が震える手をゆっくりと上げていく。
襖の向こうを、揺れる人差し指で指し示した。
「蜘蛛……」
「きひひひひひひ、狐ぇ、お前には蜘蛛が見えるのかぁ」
猿が下品な笑い声を立てる。黒い男はいつの間にか猿の近くへ寄っていた。ひと言も発しない。音もなく動くのだ、それがおしゃべりな猿より不気味な印象を与える。猿が化物なら、黒い男は死神のようだ。
「蜘蛛なんて、」
もういないんだろう、と狐の肩に回す手に力を込めながら、涼介は狐の震える指の先を目で追う。
そこにいたのは。
「……じいちゃん」
涼介の目が驚きで見開かれた。なにがなんだか、まったく分からなかった。混乱、という言葉がこれほど当てはまる状態は今までになかった。どうして、と無意識のうちに唇から言葉がこぼれる。
どうして。
どうして、じいちゃんが、ここに?
どうして。
どうして、どうして、どうして。
意味が、分からない。
けれどそこにいるのは本当にじいちゃんなのだ。髪のほとんどない、つるりとした頭、深いしわを寄せて細められたビー玉みたいな目、何本かの歯が欠けている口。白く長いひげ。
どうして、どうして、と涼介の口からはそれしかこぼれない。
抱いている狐から甘く深い花の香りがする。いつもの匂い。けれどそれが、ここは本来自分のいる場所でないのだということをいつもよりずっと、強く涼介に思わせる。
扉の向こうに、じいちゃんがいるから。
じいちゃんはあちらの人だ。鹿乃がいて、涼介がいて、普通の高校生活がある、あちらの世界の。けれどじいちゃんは涼介達が小さい頃にどこかへいなくなってしまっていたのも確かだ。
こちらに来ていたから?
涼介が迷い込んだように、じいちゃんもまたこちらに迷い込んできたのだろうか。
驚きに思考を停止させている涼介の視界で、猿がじいちゃんの右側に、黒い男が左側に寄り添うのが映った。
狐の言葉が思い出される。
魂抜きは主様の右手、人買いは主様の左手。
「……じいちゃん? どうして? 本当にじいちゃん? ……じいちゃんが鹿乃の魂を抜いたのか……?」
混乱は続く。
ならどうして自分に魂抜きと人買いの話をしたのか。
なぜ鹿乃を守れと言ったのか。
じいちゃんが主だったから、幼い鹿乃が美しく成長することを知っていて魂を盗んだのか。死人にするつもりだったのか。死人にして永遠の命を与えるつもりだったのか。
でも、なぜ?
足りない情報と与えられた情報とがバランスを欠いていて、なにひとつ納得できることがなくて涼介の混乱は深まる。どこまでもどこまでも、答えのないままに色濃く渦を巻く混乱の中に落ちる。
「涼介、大きくなったな」
歯の欠けた口で笑うじいちゃんは、涼介の知る本物のじいちゃんにしか見えない。
「じいちゃん……」
「けれど涼介、お前は間違えたことをしたんだ、可哀想になあ」
「間違えたこと……?」
「魂を抜かれた人間は、人買いによってさらわれなければならないんだよ。そして死人にならなければいけない。それを邪魔してはいけなかったんだよ」
聞き覚えのある声。低くもなく、かといって高いわけでもない、ゆるゆるとした声。
「なんで……だって、じいちゃんが言ったんだぜ? 鹿乃を守ってやれって。俺の勘違いじゃないだろ? じいちゃんが魂抜きと人買いの話をしてくれたんだぜ? 魂抜かれたら、取り戻さなきゃなんないって」
「そんな話をしたっけかな」
「したよ! した、絶対にした! ……っていうか、じいちゃん今までどこにいたんだよ、うちの親も近所の人もみんな知らないって……火事で家が焼けてそれっきりって、」
「涼介、懐かしい話は尽きなくて残念だろうが、お前は間違ったことをしてしまったからな。魂の抜かれた身体はここで死人にしなくてはならん」
「……どういうことだよ」
「人買いが運ぶはずだった女をどこに隠した?」
「……女?」
微かな違和感。
じいちゃんがどうして鹿乃を、女、などと呼ぶのか。
「痛っ!」
眉をよせかけたのと、狐が動いたのが同時だった。
いつの間にか震えの止まっていた狐が、涼介の手首にがぶりと噛み付いていた。
「痛っ、痛てててててっ、き、狐姐様、なっ、なにしてんの!」
「涼介、惑わされるでない、あれは主様だ……!」
「あれって、じいちゃん? って、痛いっ、痛いってば、離して、離して狐姐様っ!」
小さく鋭い歯が、涼介の肌にぐいぐいと食い込む。
痛みで涙までにじんできた。噛まれている手を振っても、狐は口を離そうとしない。
「狐姐様までなにしてんの! って、……じいちゃん?」
涙のにじんで、ぼやける視界に映るじいちゃんがぐにゃりと歪む。
「……じいちゃん?」
「死人にする女を返すんだ」
「じいちゃん!」
ほら、と狐がささやく。
あれは幻。
「だから本当は分かってる……あれは蜘蛛じゃあないんだよ……」
じいちゃんに見えていた人物の顔がなくなった。
ぽっかりと黒い穴が開いたように、目も鼻も口も、輪郭の中がすべて黒く塗りつぶされている。
「なんなんだよ……」
怖い。
心霊写真を見るような、そういう気味の悪い怖さが背筋をゆっくりと上ってくる。
怖い。
怖いし、意味が分からない。
意味が分からないから怖いのかもしれない。
心霊現象だって、種明かしがされれば怖くなくなる。科学的な説明が、嘘か本当かはひとまず置いといてもきちんとされれば腑に落ちる。
それがないから怖いのだ。
説明が為されないから。
相手の正体が分からないから。
ここにいるのが実態かどうかということも分からないのだ、もしも今この瞬間に鹿乃がさらわれようとしていたらどうすればいいのだ。さらわれている証拠もない代わりに、さらわれていない証拠もない。
狐に噛まれた手首がじんじんと痛む。そこに心臓が移動したかのように、どくどくと脈打つ。
混乱が、頭痛を呼ぶ。
なんなんだよもう、と涼介はつぶやくしかできない。
8
死ねない。
死ねない、どんなに激しい恋に落ちても、相手は先に年老いて自分を置いていく。友人達も同じだ、みな先に死んでしまう。
どんなに愛した人も、どんなに心を許した人も、淋しそうに手を握って最期はそっと目を閉じてしまう。あなたを置いて行ってごめんなさいと。
死ねないことが苦痛だと、やっと気付いたのは何人もの愛する人を失ってからだった。
死ねない。
ずっとこの世に取り残されて、どこにも行けない。
ただずっと、いつまでもここに残される。
誰か。
誰か一緒にいて欲しい。
誰か、ずっとそばにいて欲しい。
ただ、それだけ。
願いは、それだけ。
「主様! 主様、涼介を放してくだされ!」
「主様、わたいからもお願いします、涼介をどうか」
騒ぎに黙っていられなくなったのか、座敷の方からぱたりぱたりと足音が幾つもやってきた。
涙もにじみ、混乱でぼんやりと頭痛のする頭を軽く振って、涼介は見る。
すらりと伸ばした耳がどこまでも白い、きつく強張った顔をしている兎。眉を寄せておろおろと困り切った顔をしている、目の垂れた狸。その後ろで、あまり交流のなかった女達がなんだなんだと狐の部屋を覗き込んでいる。
「人気者だな、お前も死人にしてやろうか」
なにを、と睨みつけようとした主の顔は、鹿乃のそれだった。
「鹿乃……!」
「ほう、今度はまた別の者を見ているのか」
主が笑う。鹿乃の唇で。鹿乃の目を細めて。鹿乃の声で。
「……狐姐様っ!」
ほんの少し主の方へと気を取られていただけなのに、狐を抱き支えていたはずの腕がすとんと落ちた。はっ、とする間も長く、黒い男に腕をねじ上げられた狐が主の近くでぐったりと立たされている。
「主様、狐の姐様にそんなことしないでくださいよう」
狐を慕う狸の声が悲痛に響いた。
他の者達の目には、主はどう映っているのだろう。
人によって顔が変わると猫婆が言っていた。きっと、見る者によってあの顔は変わっている。
「狸、そんなに切ない声を出すな」
鹿乃の声。
鹿乃の口から出てくる、いつもとは違う口調。だからあれは鹿乃とは別の、偽物と分かっているはずなのに視覚が邪魔をする。間違えさせる。
「お前の大事な狐だもんな、でもなあ狸、狐はお前を騙していたんだぞ?」
「……ええ?」
なんだか生きてる人間の匂いがしないかい、と誰かがつぶやいた。
小さなざわめきがゆるゆると広がり、大きくなっていく。誰もが、くん、と鼻を動かす。
くん、と。
「本当だ……」
「でもどうして……」
「人の匂いだねえ……」
「生きている人間……?」
「生きている人間がいる……?」
「でもどこに」
「だってここにいるのは、みな死人」
「長くを共に過ごしている、誰もが死人」
「けれど……あれは誰」
「あれは……馬」
「馬など知らぬ、顔を初めて見た」
「馬などここにいなかった」
「馬など主様は連れてこなかった」
「馬は……馬はどうして女でないのに死人となった?」
「なぜに狐の着物を着ている?」
「あれは……あれは蝶を食った後の蜘蛛のようじゃないか」
「あいつは蜘蛛か?」
「まさか、顔が違う」
「けれど、男であった死人は蜘蛛だけだ」
「まさか……蜘蛛?」
「いや、あれは馬……」
「馬など知らぬ、馬など初めて見た」
「いや、猫婆の手伝いをしているのを見た」
「あれは蜘蛛ではないか」
「あれは蜘蛛か」
「蜘蛛なら蝶を食うぞ」
「蝶亡き今、死人の女を食らうぞ」
ぴたりとざわめきが止む。はっと息を飲んで、女達が踵を返す。
「あれは蜘蛛か!」
「我らを食いに戻ったか!」
「蜘蛛に食われたら生まれ変わることもできぬ」
「蜘蛛となって永久を生きることになるぞ」
それこそ蜘蛛の子を散らすように女達が逃げ出そうとするのを、狸と兎が流れを押し止めて立ち尽くす。
兎が、すっ、と息を吸った。
「馬鹿を言うでない、なにが蜘蛛じゃ、あれは馬じゃ! 蜘蛛とは似ても似つかぬ者、蜘蛛のわけがなかろう!」
狸がこくこくと頷く。
兎の声に、女達の足がまた止まる。
涼介は女達の群れを見つめるしかできなかった。蜘蛛と間違われたのは俺か? 俺は蜘蛛じゃない。蜘蛛のわけがない、蜘蛛はもうここにいない死人だ、けれどそれではどこへ行った? 俺が蜘蛛ではないという証拠は? いや、俺は蜘蛛じゃない、馬涼介だ。幼馴染みの鹿乃を助けたくてここに迷い込んだだけの、ただの高校生だ。俺は蜘蛛じゃない、俺は蜘蛛じゃない、俺は蜘蛛じゃない、俺は。俺は。
でも、蜘蛛が見ている夢が、馬涼介という男のものだったとしたら?
「う、うわあああああああああああああっ!」
ここでは何が本当で何が嘘なのかが分からない、区別がつかない、すべてが混ざり合って夢と現の境界線が曖昧で。
耐え切れず涼介は叫んだ。
顎が外れるほどに大きく口を開き、腹の底から振り絞った声を。自分が誰なのか分からなくなり始める。それが無性に怖かった。自分の大声でもしも本当の自分がどこかにいるとしたのなら、そいつが目覚めればいい。でもここで叫び続けても俺が俺のままならば。
「俺は俺だあああああああああああああっ!」
涼介の叫びはぐったりとしていた狐を覚醒させた。ぴくりと尾が微かに揺れる。耳がなにかを確かめるように小さく立つ。
「うわあああああああああああああああっ!」
俺は俺だ、馬涼介だ、十六年間の生きてきた記憶がきちんとある、それは誰のものでもない自分自身のものだ、俺は馬涼介、俺は馬涼介、俺は他の誰の夢でもない、自分を生きている俺自身だ。俺、そのものだ、偽者も本物もなにもない、俺が俺のすべてだ。
「お前ごときが鹿乃の姿、真似してんじゃねえええええええええ!」
猿のような鋭い爪があるわけではない。長く力の強すぎる腕があるわけでもない。黒い男のように素早く相手の背後に回ることもできない。気配もなく腕をねじり上げたりもできない。魂を抜かれるのは恐ろしいし、勝ち目があるとはとても思えない。相手は化物で、自分はただのちっぽけな人間なのだから。
けれど涼介は思う。
俺は俺であることを信じられる。
俺は自分が自分であると自信を持てる。
自信を、持たなきゃならない。
自分以外に、自分は自分なのだと、全身全霊で肯定してくれる人はいないのだから。
「本当の顔も持たないお前に、なんかよく分かんないけど負けてたまるかあああっ! 鹿乃の姿は鹿乃だけのもんだ、じいちゃんの姿もじいちゃんだけのもんだ、お前が勝手に真似していいもんじゃねえええええええっ!」
がばりと顔を上げた狐が、黒い男の反応するよりわずかに早く跳ねた。着物の裾を持ち上げて、開いている襖の方へ走る。
「狐の姐様!」
狸の声が宙で千切れる。
届いたのか届かなかったのか、狐はどこか目指すところがあるというように視点を遠いところへ固定してそこだけに向いている。そのまま、軽い足音を残して廊下の奥へ消えた。
慌てて後を追おうとする猿を、主が止める。放っておけ、というように片手を上げて首を横に振る。
「ふふふ、くふふふふ、逃げた。狐は逃げたよ、死人ではない馬よ」
主がまだ鹿乃のままで笑う。
丁寧に、紺色の垢抜けない制服姿で。
「鹿乃の姿でいるのをやめろ!」
「威勢良く吠えるだけか、お前は大罪を犯したというのに、反省する気配もないのだな」
「大罪……?」
「まだ分からないのか。ここは死人達の世界、異物であるお前は紛れ込んできて引っ掻き回した、お前さえ来なければみな平穏に暮らしていたというのに」
「なにを、」
「狐はお前を庇って傷付いた、兎はお前に恋をしている錯覚に陥っている、狸はお前のせいで慕う狐が傷付くところを目の当たりにすることとなった、なにが無害だというか、馬、お前は自分が無害で正しいものだと思っているのか、なんという思い違いだ」
「うるさい、元はといえばあんたがこの人達をさらって死人にしたんだろうが!」
「美しい者達が永久の命を手に入れて何が悪い」
「本人達の気持ちを無視してるじゃないか!」
「若く美しいうちに、自分がいつか年老いて朽ちるものと知る者がいるものか。これはやさしさだ。愛だ。美しい女達が永久に美しくいられる、それのどこが不幸だ?」
「本当に幸せなら、どうして死にたいって思うんだよ!」
狐も狸も兎も。永遠に生きていかなくてはならないことに、諦めを感じていた。仕方ないと受け入れるしかなかった。本当は次へ進みたいのに。それは涼介が聞いた、話してもらった、だから知っている。
「主様……」
兎がいつもの強気な口調ではなく、随分と力を失くした声で主を呼ぶ。
「馬に、帰る場所があるというのなら帰してやってくだされ……」
「しおらしいことを言うじゃないか、兎。よし。お前達、よく聞け。ここにいるこの馬、こいつは本当に生きている人間だぞ。さあ誰が捕まえる、ここで永久に生きていることに飽きている者はこいつを捕まえて魂を食えばいい!」
本当に死ねるぞ、と主が鹿乃の可愛らしい唇でにやりと笑った。片頬だけきゅうっと持ち上げた、いやらしい笑い方で。
主の言葉を拾って、猿が両手を上げて叩く。囃すように、同じリズムで、ぱん、ぱん、と。
「主様の言葉が聞こえなかったかぁ、お前達ぃ! 馬の魂を食えば、お前達……死ぬことができるぞ、寿命が手に入るぞぉ」
黒い男が目を閉じる。
女達の目に、暗い炎が宿った。
「死ねる……?」
「死んだら、生まれ変わることができる……」
「死ねたら、次に生まれ変わって……」
「遠い昔に契った男にまた会える……?」
「生きている人間の魂を食えば」
「あの馬が」
「あの馬が、生きている人間」
「あの魂を食えば」
「来世で結ばれようと誓った男に、会える」
「次の世でと」
「契った男と」
「魂を」
「魂を食えば」
「魂を」
「魂を、」
寄越せえええええええええっ、と女達が暗い炎を宿したままの目で腕を伸ばして涼介目掛けて駆け寄ってくる。ゾンビ映画のゾンビのように。
魂を食うってどういうことだろう、そういえば狸と話したことがあった、天麩羅にするだとか刺身にするだとか、そんなふざけたことを。なんて呑気に思い出している場合ではなく。
逃げなきゃ、という心と、でもどこへ、と止まってしまう足と。
「ふざけるな!」
飛んだのは兎だった。ふわりと風を孕んでふくらむフレアなスカートをひらりと舞わせて、女達の顔に爪を立てる。
「きゃあああああっ、」
「痛いっ、痛いいいっ」
「涼介に手を出すでない!」
静かな顔はしているものの、狸と流血沙汰のケンカをしているのは涼介も自分の目で見ている。その荒さのまま、兎は涼介に近付こうとする女達を蹴散らした。
「兎、お前はそいつの魂が欲しくないのか」
主が楽しそうに目を細めた。
猿が飛び出した眼球のままににたにたと笑う。
「お前がいくら頑張ったところで、その男はお前のものにならないというのに」
兎がぎろりと女達を睨む。鋭い爪に恐れをなしたのか、女達は兎を前に涼介には飛び掛れないでいる。
「その男、生かしておけば元の場所へ戻る、そこに女を待たせているからな」
「それがどうした」
「いいのか兎、自分のものにならない男を守ってどうする、どうせいなくなる男、どうせならお前が魂を食ってやったらどうだ」
「いくら主様でもふざけないでいただきたい!」
「その男の魂、食えばお前の一部になるぞ」
「……なに、」
「どうせいなくなる男、お前が食えばお前に溶ける。姿はなくなっても、お前の身体で共に生きていける」
「……ふざけたことを、」
「他の女に食われていいのか、その男の魂を。それとも狐が戻ってきて馬を連れて行くかもしれないぞ、お前のことを笑いながらな、兎」
「……なにを、」
狐はもうどこかへ逃げたではないか、とつぶやく声から力が抜けている。
揺れているのは確かだった。目が、涼介を捉える。兎の真剣なまなざしが、痛い。
「涼介……?」
「兎姐様、」
「お前は本当に生きている人間なのか……?」
「……はい」
「元来た場所に女を残しておるのか……?」
「……はい」
兎の視線が揺れる。
苦しそうに眉根が寄せられ、今にも泣き出しそうな表情となる。
「どうしても、どうしてもお前は私のものとならぬのか……?」
はい、ともう言えなくて、涼介は目を伏せる。ごくわずかに頷いた。ほんの少し。やっとの思いで。
「なぜ……」
こんなにも胸が痛むのはどうしてだろう。
最初から兎は恋愛対象などではなかったのに。鹿乃がいなければ、と思ってしまったのは狐に対してであって、それなのに兎の想いがこんなにも痛い。
願いを叶えてあげられない罪悪感なのか。
自分を好きになってくれたのに、という申し訳なさなのか。
「……私のものにならぬのなら、殺してしまえばいいのか?」
「兎姐様、」
「そうしたら、私のこの痛む胸は元に戻るのか……?」
兎の長いまつげが揺れる。涙はこぼれなかった、こぼれたらきっとそれはどんな宝石よりも美しかっただろうに。兎は自分の胸元のリボンをぎゅっと握り締めて、葛藤と戦っているようだった。大きな目を細めて、鼻の頭にしわを寄せて。
と、そこへ丸い影が体当たりしてくる。
「ぐふっ、」
「た、狸姐様!」
「なにしてんだよう、この馬鹿兎、涼介はあんたのもんじゃないよう」
突然のことに力も入らなかったのだろう、兎は勢いのままごろりと転がる。
「こ、この、古狸めがぁ!」
「生まれ変わって会いたい男もいない若造が、舐めた真似するんじゃあないよう」
すぐに跳ね起きた兎は狸に飛びかかり、そのまま押し倒すと床を転げた。狸に馬乗りになって、兎は胸倉を掴む。
「なんじゃ、古狸めが涼介の魂を食らうつもりか!」
「わたいはそりゃあ、生まれ変わってあの人に会えるんならそのために死にたいよう。命の寿命が欲しいよう、だけど涼介の魂を食うくらいならわたいはここでずっと死人でいいよう!」
狸の悲痛な声が涼介の耳に入る。そのまま、心を揺らす。
「私だって……」
困惑の混じる兎の声に、主の高笑いが被さった。
はっとして、涼介は主を見る。
「こりゃあいい、こりゃあいい! 色男は辛いと言ったところか、女の喧嘩は浅はかで下手な噺より笑える。ほれほれ、お前達が小競り合いしている間に、他の女がこいつの魂を狙うぞ」
きしししし、と猿が笑ったときだった。
きな臭い、と黒い男が小さな声でつぶやいた。地の底から這い上がってきたような、深く低く暗い声だった。
「ああん、なんだぁ、人買い。……本当だ、なにが燃える臭いだこりゃあ」
猿がひくひくと低い鼻を蠢かした。主の顔からも笑みが薄らいでくる。
そこへ、鋭い勢いで獣が飛び込んだ。構えてもいなかった主の首に、それは食らいつく。
大きな狐。
耳をピンと立て、太い尾を揺らし、黄金色のしなやかな身体は人ほどの大きさがある。それは主を押し倒すと尖った歯の口を大きく開け、思い切り噛み付いた。
「ぐあああああああっ!」
「きゃああああああっ!」
女達は何事かと逃げ出し、猿はその狐を主から引き剥がそうと躍起になっている。食い千切られて血の飛び散る主は、ひゅうひゅうと漏れる息で、しかし笑っているようだった。
「こん、な、こと、では、死な、ぬ」
食らいついた狐の顎は真っ赤に染まっていた。黒い鼻先も。その光景に驚いて、狸も兎も組み合ったままの姿でぽかんと静止している。
やがて、狸がほどけた声で小さくつぶやいた。
「狐の姐様……」
「え、狐姐様?」
涼介も驚いて、狸の言葉を鸚鵡返しにする。兎も目を丸くしているばかりだった。
「お逃げ、涼介、狸も兎も。油をまいて火をつけた、娼館は燃えるよう」
「……火を、つけた?」兎が飲み込めないまま口にし直す。
「ああ、だからきな臭いのか……って、放火かよ!」
「あたしがこいつを押さえつけてるから、あんた達はお逃げ!」
「ふざけるな、狐めなにをしてくれるか!」
主が息の漏れる喉を震わせて叫ぶ。猿が長い爪を伸ばして狐に切りかかろうとするものの、その度に喉元に食らいつく顎に力を入れるので主が苦しげな声を上げる。
「あたし達は死なない。焼けても焦げたまんまで生き続けるさ、手足を切り落とされても生きてる、けれどね、骨になるまで焼かれたらそりゃあもう生きてはいないだろう、蜘蛛も……蜘蛛もそうやって焼いたんだから……」
骨になるまで焼く。
いくら死にたいと言っても、女達は生きながら骨になるまで焼かれるなんてまっぴらで、そんな方法を考えたこともなかったに違いない。
空気が徐々に煙の臭いを混ぜはじめる。黒灰色のすすが進入してくる。
「早くお逃げ!」
獣の姿に戻っている狐が叫ぶ。
それは人の姿だったときよりもしっかりとした重さがあるのだろう、主は狐を跳ね除けることもできず、手足を押さえつけられ喉をがっちりと咥えこまれている。
狐が押さえ込んでいるということは。
主を骨になるまで焼くということは。
「狐姐様!」
それは狐も生きたまま焼かれるということだ。
「嫌だ、狐姐様!」
「ふ、ふざけるなああああああ、狐ええええええええっ!」
猿の化物が怒りで眼球を真っ赤に染めながら狐に飛びかかろうとする。そこへ狸が飛んだ。狸は空中でひとつ、くるりと宙返りをしたかと思うと、それは着ていた着物を破くほど巨大になり、猿の上へ圧し掛かる。
「ぐえええええええええっ」
よほど重いのか、猿は長い舌をべろりと口からはみ出させると、白目を剥いた。
「狐の姐様あ、わたいもお供しますわあ」
「……狸、」
「生きてる魂食わなくても、なあんだ死ねるんなら、わたいはそれでいいですわ」
「狸、すまぬ……」
ぱちぱちと木の爆ぜる音がする。狐はよほどの油をまいたのか、気付けば夜なのに陽の光が当たっているかのように周囲が明るくなってきていた。
「さあお逃げ、涼介……!」
「い、嫌だ、狐姐様、狸姐様……!」
「良い子だからもうお行き、お前さんまで焼けちまったら、あたしはあんたの大事な娘に申し訳なくて死に切れないよ」
「狐姐様も一緒に、」
「あたしはもう疲れた。涼介。お逃げ、あたしの可愛い子」
「嫌だ、嫌だ、嫌だああああああああああっ」
「兎。涼介を連れてお逃げ。涼介は裏の井戸んところから来ていたからね、あそこできっと元の場所に戻れるよ」
兎が頷く。
お逃げ。
獣の姿なのに、声だけが狐のそのもので。
嫌だ、と首を横に振り続ける涼介の腕を取り、兎が引きずっていく。
「嫌だ、嫌だよおおおおおお、狐姐様、狸姐様!」
「涼介、次はわたいもあんたんとこに生まれ変わってやってもいいよ、大福と団子と用意して待ってなあ」
「狸姐様、だったら今一緒に行こう、こんなところで死なないで、俺と一緒に行こうよお!」
ぼたぼたと零れ落ちる涙が視界を潤ませる。水の底にいるように、世界が水浸しになる。心まで溺れそうなのは、ここに狐と狸を残していかなければならないからだ。
「涼介、あたしもお前さんのところに生まれ変わることにするよ」
「狐姐様……狐姐様! 狐姐様! 狐姐様ああああああああっ!」
――好きだ。
その想いが胸を満たして張り裂けるまで膨れ上がって、涼介の涙を止まらないものにますますする。
「涼介、行くぞ」
兎は渾身の力で涼介を引きずる。部屋を出ると奥の方から真っ赤な炎で包まれていた。娼館は木造だろう。火の回りは想像以上に速いはずだ。
「狐姐様、狐姐様ああああっ!」
引きずられながら涼介は渾身の想いで叫ぶ。
廊下に出て、泣きじゃくりながら狐のいる方へと手を伸ばしても、兎の力の方が強くてどんどんと足早に火のない井戸のある裏庭の方へと連れて行かれる。
「狐姐様、狐姐様、俺、狐姐様が、狐姐様が好きだあああああっ」
火の勢いよりも強く。
叫んだ声は届いたのか分からない。
すでに狐のいた部屋は炎が飲み込もうとしていた。
それでも微かに聞こえた気がする。ありがとう、という狐の声が。
ぐうっ、と喉を鳴らして涼介は嗚咽する。涙が顔中をずぶ濡れにして、それでもなにも足りなかった。涙では炎が消えないから。涙では誰も助からないから。
「狐姐様ああああああああああっ!」
薄い唇で笑う狐が。
目を細める狐が。
髪を撫でる狐が、抱きしめてくる狐が。
なにもかも夢だったのならと思う、自分さえここに来てしまわなければ確かに彼女達は平穏に暮らしていたのではないかという苦いものが胃の辺りに広がる、なにより涙が止まらない。
だって、狐の匂いがまだこんなに残っている。
深い深い花のような匂いが、涼介の身体中に残っているのだ。
抱きしめられた感覚も。
だから、涙は止まらない。こんなにも狐の匂いが残っているのに。
もう狐が、消えてしまおうとしているだなんて。
兎に引きずられる間、ずっと涼介はあふれる涙を拭うこともできず、泣く理由を自分でも説明できない幼児のように。腕を取られるままになっていた。
「ええい泣くな、泣くと足が止まる、狐や古狸の好意を無駄にするでない!」
兎の白い頬は充満してきた黒い煙のせいで、すすけて汚れていた。自分の顔もそうなのだろう。涼介はぼんやりとそんなことを思う。狐の名前も狸の名前も、聞きたくなかった。自分のせいで。炎の中に残ることとなってしまったふたりの女の名を。
「お前は誰かの魂を持って帰らないとならぬのだろうが!」
「あ……」
鹿乃の魂。
でもそれは。
それは、どこだ?
「う、兎姐様、魂はどこに……」
「私が知るものか」
「ど、どうしよう、きっとあの主の手元だ……!」
涼介は振り返る。オレンジと赤との混じる、炎の娼館を。
「振り向く暇があるなら走れ、馬鹿者!」
「でも……!」
「主様は魂を扱わぬ、魂を集めるのは魂抜きじゃ!」
「じゃあ、狸姐様の下敷きになってる、取りに戻らないと……!」
「死ぬつもりか!」
「でも行かないと、鹿乃が眠ったままに……!」
ああもう、と涼介はふと身体の力を抜いた。全身の力を、一度に。
兎を巻き込んで涼介はへたり込む。
もういい。
もういいや。
もういい。
ここまできて、鹿乃の魂を取り戻せてない。もしも元の世界へ戻れるとしても、それでは意味がない。
「……もういいや、」
「涼介!」
「もういいよ、魂は取り戻せない、狐姐様達は犠牲にする、俺はこの世界に何しに来たんだ、災厄だけつれてきたのかよ、俺は疫病神じゃんか、もういいよ……もういい、ここで狐姐様と灰になりたい……」
「ええい馬鹿者!」
兎の平手が涼介の頭に飛ぶ。
「痛て……」
もう一度。さらにもう一度。そのうち握りこぶしになり、かなり本気で涼介のことを打ちつける。
「痛て、痛てててて、ちょっ、ちょっタンマ、痛い、痛いっ、兎姐様!」
「お前は狐の気持ちも古狸の気持ちも私の気持ちも、なにひとつ考えていないではないか、この馬鹿者、大馬鹿者、涼介、男であろう、前を向くのだ、お前は生きるのだ、なんのために狐らが命を繋いだのじゃ、お前に生きていて欲しいと、それだけをみなが願っているからではないか!」
ぼたぼたと、兎の大きな目から大きな真珠のつぶに似た涙が後から後から落ちてくる。
「お前をみなが好いておるではないか……」
ここで断念してどうするのだ、そう兎は泣く。
涼介の不甲斐なさに、悔しいと涙をこぼす。
男だからっていつでもポジティブに前だけ向いてガンガン生きてる訳じゃないやい、と言い返したい気持ちがないといえば嘘になる。けれど、少なくとも見た目は自分よりずっと幼い女の子を泣かせているだけの自分は格好悪いと、確かに思う。
「……魂、どうやって取り戻せばいいと思う? 魂も燃やしたら消滅すんのかな、」
「私には……、」
涙声で兎が首を横に振りながら答えかけた時。どこからか小石のようなものが飛んできて、床の上に転がった。
兎が反射で飛びついてそれを拾う。
ビー玉に似た虹色の、小さな球体。
「なにそれ、」
涼介が聞く。
「あ……、」
熱風が後ろから吹くので、兎の髪は随分と乱れてしまっていた。その髪が隠す肩が、硬直する。
声の先を辿って、涼介の目に入ったもの。
「……人買い、」
掴まれていた腕をそっと外し、涼介は兎の前に自分の身体をすべこませる。
「……兎姐様には、手を出させないぞ」
勝算なんてカケラもなかったけれど。
人買いは細く鋭い目でじっと涼介を見つめていたが、やがて暗く低い声で、何事かを囁いた。
「……え?」
「お前の求めていた魂」
「……なん、で?」
「必要だろう」
「そ、うだけど……」
どうして人買いが魂を返すのだろう。
なにか魂胆がありそうで疑いのまなざしを向けるが、虹色の球体を持っていた兎はそれを涼介にほいと渡した。
「わわっ、」
「良かったな、涼介」
「良かったって、本当かどうかも……」
「今は人買いの言葉を信じるしかないのだろう、他には選べるものがないのだから仕方ない。お前は信じろ」
「……なにを?」
「それがお前の大事な者の魂なのだと」
人買いが小さく頷いた。
そして、井戸、と裏手の方を指差した。
涼介は思い出す。最初に狐と出会ったのは井戸のところだったことを。井戸が向こうの世界とこちらの世界を繋ぐ通路になっているのか。
けれど、普通に水を汲むのにも使われているのを何度か見たような。
「井戸が、なんだよ」
「井戸から、帰れる」
「……お前、どうして俺に鹿乃の魂を返したりするんだよ」
腑に落ちない涼介が、低い声で唸るように聞く。
人買いはほんの少しだけ首を傾げるような素振りを見せたが、「主様がいないのなら必要がない」とだけ口にした。自分は最初から興味がなかったが、欲しがる人がいたので、というような感じで。
それだけ言うと、人買いはふらりと立ち去る。黒尽くめのせいか、すぐに煙に紛れて見えなくなってしまった。
「なんだよあいつ……」
「涼介、いいから行くぞ」
「え、どこに?」
兎はひどく呆れた顔で涼介を見た。馬鹿にした色がありありと浮かんでいる。
「お前はここで焼け死ぬつもりなのか、ええ?」
「し、死ぬつもりは、ないです、けど……」
「お前の手にあるものは大事な者の魂だろう、帰りの道は提示されただろう、なにをこの際迷うことがある!」
「で、でも人買いが嘘ついてたら……?」
手の中の球体はただのガラス玉で、井戸は深い水を湛えているだけのものだったら。
「ごちゃごちゃとうるさい! 男なら腹をくくれ!」
とうとう腕ではなく首元を掴まれて、涼介は兎に引きずられていく。
裸足のままで裏口の土を踏み、井戸まで強引に連れて行かれると、そこには猫婆がいた。
「やっと来おった、早くせんかい。また馬はなんという格好をしているんだい、馬鹿げた格好をしてからに」
「猫婆! 無事だったのか!」
「それは狐の着物かい、阿呆な格好をしてるもんだなあ」
「別に好きで女装してるわけじゃ……」
「馬は死人でないのだろう、さ、狐から言われとる。馬は馬の場所へ戻れ」
え、と涼介は言葉に詰まったが、猫婆と兎は顔を見合わせてひとつ頷くと、涼介をぐいぐいと井戸の方へ押しはじめた。
「なっ、なにすんだよっ、」
「狐に言われとる、馬を落とせと」
「人買いも井戸を指差しておった、井戸で正しい」
「ちょっ、兎姐様も猫婆も!」
「帰れ、馬」猫婆がにたりと笑う。
「そうだ、早う帰れ」兎も怒ったように言う。
けれど涼介はその兎の目に、なんとも言えない哀しみの色を見た。
「ふ、ふたりはどうすんだよ! あ、俺と行こう! 俺とあっちの世界に行こう、こことは全然違うけど、行こう!」
「……私はここに残る。死人はここ以外では生きられぬ」
「おいもだ、焼けたならまた直すでな」
呑気にそんなことをふたりは言うが、娼館はごうごうと燃え続けている。今更火は消せないだろう。そう涼介が言うと、猫婆がしれっとした口調で「おいも油まくの手伝ってやったからねえ」と胸を張る。
「おいはやんなきゃなんない仕事は手え抜かんよ。きちりと満遍なく油まいてやったでな」
「猫婆も共犯かよ……」
言いながらも涼介はぐいぐいと押されて、とうとう井戸の木枠にぶつかった。抵抗などなんの意味もなかった。
「さあ、帰れ」
「兎姐様、俺だけで帰るなんて、」
「ではお前は私と残るか? できぬであろう、その大事な者の魂、落とすでないぞ」
「兎姐様は残ってどうすんだよ! ……まさか、まさか狐姐様達の後を追うつもりじゃないだろうな! やめてくれよ、俺と行こう! ここに残ってたら燃えるつもりなんだろう、兎姐様!」
兎ははっとしたように涼介の顔を見たが、すぐにとろりと目を細めた。
暗くなっているはずの空が、炎に煽られてオレンジ色に染まって見える。思っているよりずっと早く、広く、火の手は広がっているに違いない。
「……なあ、涼介、」
そっと兎が涼介を押す手の力を緩めた。静かに手が伸ばされて、小さな兎の手は涼介の頬を撫でる。
「私には死人になる前の想い人がおらぬ。けれどな、幸いなことに死人となってからお前に出会えた。私の想い人は涼平、お前じゃ。光栄に思え」
「兎姐様……」
「さあ涼介……ゆけ!」
足をがっと掴まれて振り上げられる。じたばたと暴れはしたものの、そのまま猫婆と兎に身体を持ち上げられて涼介は頭から落とされてしまった。
「うわわっ、ちょっ……!」
下がただの井戸で水しかなかったらどうするんだよ! と叫んだのか叫ばなかったのか。
視界は急に真っ暗になり、水には触れないまま涼介はどこまでも落ち続けた。
「うわあああああああああああああっ!」
兎の声も猫婆の声も、届かなかった。彼女達はすでに井戸を離れたのかもしれない。
このままどこまで落ちていくんだろう、と考えながらも、妙な浮遊感があった。本当に元の世界に戻れるとして、俺、狐姐様の着物着たままだし。このまま戻ったら俺、変態だよなぁ。って、それより制服どうすんだよ。ああもうなんだかなぁ。
涼介は目を閉じる。
落下していく感覚は、暗闇の中でどちらが上なのか下なのかを分からなくさせていく。手の中の鹿乃の魂をぎゅっと握りしめて、涼介は狐のことを思う。兎のことを、狸のことを。
魂は想像と違い、随分と硬い質感だった。けれどガラスのような重さはなく、どちらかといえば木のような感触がある。そもそもこの魂をどうすれば鹿乃に戻せるのだろう。それも分からないのだ。
でもどうにかなるだろう、と涼介は思った。
悩んでも仕方ない、今この状態から抜け出せるわけではないのだから。
男なら腹をくくれ、という兎の声が耳に甦る。
いつも頬をすり寄せていた、狐の匂いがまだ自分のあちこちに残っている。
うん、と誰に向けてでもなく、涼介は頷く。なるようにしかならない。
鹿乃、と涼介は胸の内でつぶやいた。鹿乃。
鹿乃、鹿乃、鹿乃。
元の世界に戻りたいのなら、元の世界に対する想いが強くなければならない。きっとそういうものだ。だから涼介は鹿乃の名前をつぶやき続ける。
ふと呼ばれたような気がして、涼介は落下しながら暗闇の中で目を開けた。呼ばれた気がした方へ、顔を向ける。
ずっと遠くの方で微かに、ほんのごくわずかだけれど光が見えた。
それは疑いようのない、本当に本物の光だった。
涼介はもう目を閉じない。段々と広がってゆく光に目を向け、胸の内で大切な人の名を、つぶやき続けた。
~了