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失くしてからはじめて気付く、大切なもの。
そんなフレーズは耳にタコができるほど聞いてきた。そんなに大事なら失くす前から大事だっつーの、と笑ってきた。気付かないなんてどんだけ鈍感なんだよと。
日常で消費され切れずに垂れ流されているラブソングの中でも、視聴率が落ちた落ちたと騒ぐ割には相変わらずせっせと作られてテレビ電波を飛ばして映るドラマの主人公も、みんなみんな大切なものを失くしてからやっと気付いて泣いたりしている。なんだそのバカバカしい愚かさは、と笑っていたはずなのに。
大切なものは失くす前から大事なんだって事は分かってる。
分かってるんだ。
ただ、失くしてからの喪失感は、失くす前にしていた覚悟なんて軽々と飛び越えて、夜の闇より巨大な手を広げて全身を包み込む。ドリルもシャベルも使わないくせに胸に大きな穴をあける、それは心の縁をギリギリだけ残して、中心からすべてをじくじくと侵食して腐らせる。残っている心に安心して、立ち直ろうと触れた途端に崩れるように。
鹿乃。
はにかんで笑ういたずらっぽい唇、目を伏せると急に大人っぽくなる表情、それは隣にいるのが当たり前だった少女。
誕生日はどちらかの家に集まって、母親達が競うように作るハンバーグやオムライスやエビフライ、果物をどっさり包み込んだカラフルなゼリー、懐かしい味のするケチャップのスパゲティなどに囲まれた。いつまでも子供じゃないのにねとふたりで顔を見合わせて大人に見つからないようくすくすと笑い合った、ふたり。
鹿乃は真っ白な生クリームたっぷりのケーキに苺だけが乗っているものを好んで、涼介はチョコレートのそれを希望していた。それでよくケンカになったものだけど、いつの間にか涼介は甘いものが苦手になっていって、鹿乃の好きなケーキばかりが出るようになった。それは高校生になっても変わらず続いた毎年の誕生日で。
同じ高校に行こうと言ったのは彼女だった。
鹿乃の方が断然頭は良かったのに、レベルを少し落として彼女は涼介と同じ高校を望んだ。涼介は猛勉強をして、両親がこんなに頑張ってる息子を見たことがないと驚いたほど、頭から耳から煙を出す勢いで頑張って、鹿乃と同じ高校を受験した。
鹿乃が言ったから。
涼ちゃんが一緒でないとどこにいてもつまんないよ、と。
鹿乃が笑ったから。
涼ちゃんずっとずっと一緒にいようね、と。
それが当たり前だと思った。
別に趣味が一緒だとか笑いのツボが見事に一致だとか、読む本が、聴く音楽が、すべて同じだとかいうのではなくて、涼介も鹿乃もそれぞれきっちりと別々の人間で、混ざり合うわけにもいかなくて、母親と父親だって違うから血だって別々の人間なのに、どうしてだろう、一緒にいるとお互いが安心した。
幼い頃からそれが当たり前だったから。
恋なんて言葉を知る前から、ふたりは一緒だったから。
まさかお互いがお互いに恋をしているなんて気付かなかった、それは空気を吸うことのように当たり前で普通のことだったから。
いや。
鹿乃は俺を好きでいてくれているんだろうか。
ぽつんと落ちる、ほんの一滴の黒いインク。
それが心の静かな水面に落ちただけなのに、その見逃してしまいそうな小さな小さな滴は確実に水面を揺らし乱し、そしてあっという間に色を広げる。
不安。
もしかして自分が鹿乃にずっと恋してきたのではないかと気付いた瞬間、足元は脆く崩れ出す。あっという間に弱くなる。慌てて手を伸ばしても。届くのかが分からなくて、躊躇いが腕を伸ばし切ることをとどめる。急に臆病になる。
恋を知ると、人は弱くなる。
嘘だろう、だってそんなことは誰も教えてくれなかった。恋をしたら人は守りたい人ができて強くなれるんだって、誰もが笑ってそう言っていたような気がするのに。
恋をすると、人は弱くなる。
だって相手の気持ちは永遠に分からない、言葉にしてくれたとしてもそれは心のすべてであるという証がない、信じたい気持ちと信じられない気持ちと、それは自分も、相手も。胸を切り開いて心を取り出して、これが嘘偽りのない本当に本気の気持ちだと叫んだとして、それを拒否されたらどうすればいいのか。
恋を知ると。
恋をすると。
こんな臆病でおどおどした気持ちで格好悪い自分が、それでも祈りの言葉のように口にしてしまうのは。
愛しい愛しい、恋するただひとりの相手の名前だったりするのだ。
「……随分うなされていたようだねえ?」
掛け布団を跳ね除けたのは、ひどく汗をかいていたからだった。
長くもない髪が、べったりと首筋に張り付いている。前髪を手で払って、その額がじっとりと濡れていることに驚いた。
「怖い夢でも見たか」
「……狐姐様?」
縁側の障子戸は開けられていて、虫の声がしていた。ぼんやりと霞んだ月が夜の空に引っかかっている。
縁側で手鏡を見ながら、狐は解いた髪を梳いていた。結い上げたところしか見たことがなかったが、腰の辺りまである艶やかな髪だ。月の光がおぼろげで、なぜだか髪は深く暗い緑色をして見えた。狐の横顔もどこかいつもより白い。
「怖い、夢……怖いってより、なんだろう……大事だったって失くしてから気付くっていうのは本当だっていうような、」
「……白湯があるよ、お飲み」
「白湯、」
「あたしも眠れなくてね。どれ、目が覚めちまったんならあたしの髪を梳いてくれないかい」
はい、と返事をして、涼介は狐に近寄ろうとしたけれど、自分が汗で濡れていることを思い出した。布団から出てしまうと、風が当たって冷える。
どうしてここにいたんだろう。
自分の部屋はここでないのに。
どうして狐の部屋にいたんだろう。
「どうしたんだい、まだ呆けているのかい? 随分間抜けな面してるじゃないか」
「えっと……寝汗、を、かいてて、あと、どうして俺ここに……」
「昨日座敷に無理矢理引っ張り出されたのを覚えてないのかい。お前さん、甘酒飲んで酔っ払っちまってさ、ここまで狸と引っ張ってきたんだよ、まったく意外と重たいんだねえ」
「あ、わわ、と、ご、ごめんなさい……」
謝ってみたものの、なにも覚えていない。
甘酒ってアルコール入ってないんじゃないのか、と思いながら、白酒だと入ってるんだっけ、と考えてみても、記憶はさっぱり戻ってこない。
狐は呆れた顔で、最初は狸に引っ張り込まれておどおどと困っていただけなのに甘酒を飲まされ、そうしたらいきなり陽気になって踊り出す勢いで蹴鞠をはじめたのだと教えてくれた。
「け、蹴鞠ぃー?」
「鞠をな、脚のここでこう、左右に操ってみせていたじゃないか」
狐は自分の太腿をぺしりと叩く。
リフティングしてたのか、と涼介は納得した。しかし、自分は酒に弱いのか。父親は結構飲むが、母親はまったく飲めない。顔はどちらかというと父親似なのに、そうか俺は酒が飲めないのか、と涼介はがっかりする。
「どうした、涼介」
着物は汗まみれだし記憶は失くしているしで、どうしていいのか分からなくなって突っ立っていた涼介に気付いて、狐が腰を上げる。縁側の板の上に、手鏡が置かれるコトン、という音が静かにした。
「ほれ、櫛」
近付いて右手を差し出す。涼介のてのひらからも少しはみ出すサイズの、軽くも重くもない半月の形をした櫛が渡された。
「つげの櫛?」
「おやおや、よく知ってるじゃないか。へえ、涼介もそういうことは知っているのかい」
「なんか童謡でなかったっけ、つげの櫛って歌詞。で、そういうことって?」
「つげの櫛で梳くと、髪が綺麗になるんだよ。……これは昔の昔のうんと昔に、あたしの男がくれたものでねえ。苦と死に繋がるから、櫛なんて贈るもんじゃないって話もあるんだがね、この櫛で困難も苦労もときほぐして一緒になろうっていう意味もあるのさ」
「ええっと、プロポーズってこと?」
「ぷろぽ……?」
「あー、んと、求婚? 求愛? なんか違うな、結婚しましょうってことだけどさ、って、なんで俺がこんなこと真面目に答えなきゃなんないんだよ、おーいー!」
「どうして慌て出したんだ、涼介?」
不思議そうな顔をしていたけれど、狐がふと手を伸ばした。
額に触れられそうになり、涼介は反射的に避けてしまいそうになる。
「あたしに触られるのは嫌かい」
「ち、違いま……す、俺、汗かいてる、から……」
「いいよ、なら尚更おいで」
額の汗はすっかり冷えていて、脇の下にも背中にも同様にかいた汗はすべて音もなく冷たくなっている。
ぬるりと、狐の指先がすべった。
あ、と思った瞬間にはもう腕が引かれて、それは突然のことだったので涼介は抵抗もできないまま狐へと身体を傾ける。
倒れ込む形で自分より背も低く華奢に見える狐へと体重をかけてしまったのに、彼女は細い腕でしっかりと涼介を抱き止めた。肌に張り付く、湿った着物とその向こうにある狐の低い体温と。存在と。背中に回された腕に力が込められる。
ぎゅう、と。
祈りにも似た、切なさで。
「き、狐姐様……、」
離して、の声は喉の奥に張り付いて出てこない。狐が、涼介の胸へと頬をすり寄せたから。
「汗をかくなどと、生きている者しかできないことなのだな」
月の光が、縁側の床板を舐めるように照らす。
ぼんやりと、夜の気配が庭を包んでいる。
「狐姐、様、」
「動くな、汗などかけばお前さんの匂いが出てしまうからな。あたしの匂いを付け直しているだけなのだから、」
狐の声に、甘さが混じって消えた。いや、それは涼介の胸元で空気に溶けてしまっただけかもしれない。
「涼介、」
「……はい」
「夜だなあ」
「……夜、ですね」
「なあ」
「はい」
「お前さんは魂を捜しにきたと言ったなあ」
涼介は微かに頷く。
なんだかおかしな気分になってしまいそうだった。狐が可愛らしく見えて仕方がない。けれど慌てて首を横に振る。そう、鹿乃の。鹿乃の魂を取り戻しにきたはずなのに、気がつけばもういくつもの昼と夜をここで過ごしてしまっている。
鹿乃はどうしているだろう。
まだ保健室で眠っているのだろうか。
ここと向こうの、時間の経過はどう違うのだろう。それがひどく気にかかる。
まさか自分と入れ違いで人買いが向こうに戻ってしまっていたら、そして鹿乃を見つけてしまっていたとしたら。いや、けれどそれならここに新しい死人として鹿乃は甦っているだろう。ここに鹿乃はいない。きっとちゃんと、向こうの世界にいる。眠り姫のように、深い眠りの中で王子様を待っている。
その王子様が誰なのか、涼介は自分だと胸を張り切れないでいるけれど。
「なあ、涼介」
狐は涼介の胸の内など知らずに、抱きしめる腕の力をそのままにぽつりと話しはじめる。
「魂抜きと人買いがいると、お前さんは知っていたなあ?」
「知ってる、っていうか、聞いたことがあるだけですよ。んと、昔話みたいな感じで? 昔話って、身の上話じゃなくて、昔々あるところにおじいさんとおばあさんが、みたいなふうに」
「ははは、聞いただけの話を信じて人買いの後追っかけて、こんなところまで来ちまったのかい」
「ええまあ……」
笑われた。
けれどそれは馬鹿にしたような感じではなく、その証拠に狐は涼介の胸に鼻をこすりつけている。愛しくてたまらない、とでもいうように。
「主様の話をしてやろう」
「主様、」
ここの女達を作ったという人物。誰も顔を知らない男。男なのかも分からないけれど、多分男なんだろう。そうでなかったら女ばかりの娼館を作ろうと考えたりしない気がするから。
主の顔を、誰も知らない。
彼は、見る者によって姿を変えてしまうから。
魂抜きと人買いは主の右手と左手だ。気に入った女の魂を抜いてしまう右手と、その空っぽになった身体をさらってしまう左手と。
気に入った女、というのは似たような特徴があるわけではない。狐も狸も兎も、ここには他にも鴉に鼬、鳩や犬がいるけれど、誰ひとりとして似たような顔をしている者はいない。
けれど、みなそれぞれ男好きする顔立ちではある。
それぞれ、好みの範疇が重なることのない、まったく違う特徴を持っている女達。
猫婆が表立った女達のまとめ役になっているが、本当に女達を囲み、支配しているのは主だ。
彼は魂の抜けた女へ、生きている動物の魂を沈める。それはやがて融合し、女の身体の隅々まで広がって心臓を動かす。生きている人間ではないという印を刻んで。それは、動物の尾であったり、耳であったり。
「……主様はそろそろここへ顔を出すだろうよ」
魂抜き達が出てるって言うんならねえ。狐はそう言うと、涼介にすり寄せていた頬を、鼻を離した。そして見上げる。
「いくらお前さんにあたしが匂いを移したって、主様は騙せないさ」
「……俺が、死人じゃないから?」
「そうさ、それにここには女しかいないはずだからね」
「蜘蛛って人は、男だったんだろ?」
「蜘蛛は……そうだよ、男だったさ。なんだい、涼介はやけに蜘蛛を気にするじゃないか」
「……だって、狐姐様、俺のこと……蜘蛛って人に重ねてるだろ」
涼介を見上げて細められていた狐の目が、瞳が、わずかに揺れる。
笑みの形を作っていた薄い唇の端が、微かに震える。
「なに、を……」
「だってそんな気がするから。俺を見るとき、なんかどっか遠いところを見るような目をしてるし」
「あたしがちゃんとお前さんを見てないっていうのかい?」
「そうじゃなくて、あー、なんか、なんか違うんだけどさ、狐姐様、俺に匂いつけるって言って抱きついたりすり寄ったりするけどさ、なんか……俺じゃない人にしたかったのにって感じがするん……だもん……」
「嫉妬かい」
「しっ、嫉妬ぉ?」
「嫉妬してる男の顔じゃないかい、いや、そうじゃあないねえ。お前さんには想い人がちゃあんといるんだっけね」
想い人。
一緒にいることが当たり前すぎて、隣にいなくなってからやっと自分が恋していたことに気付いたなんて、遅すぎて笑ってしまう。
鹿乃。
「蜘蛛は……ああ、どうして主様は蜘蛛なんか死人にしたんだろ。どうして蜘蛛には蝶がいたんだろ、なあ、涼介」
「蝶……?」
「ああ、蝶。綺麗な娘だったよ、小さくて儚くて、男達は我も我もとあの娘に着物だの帯だの簪だのを贈ってね。ここの一番だったんだよ、あたしと同じくらい古かった」
つまんない恋の話だよ。
狐はそっと涼介から離れる。
蜘蛛はそう、見たところ十四、十五といったところで、随分ひょろりと細い男だった。
娼館では女の死人しかいない。
そんなところに死人の男だという蜘蛛がやってきたので、みなは扱いに困っていた。客を取らせるわけにもいかない、使いっ走りにするには誰かがいろいろと教えてやらねばならない。小間使い達の中に放り込もうとしても、死人になり損ねの小間使い達も女ばかりで、蜘蛛との接し方が分からない。
さてさてどうしたものかと思っていたところで、その頃娼館で一番美しいと言われていた蝶が蜘蛛を欲しいと言った。
「生きていた頃これくらいの弟がいたもの」
黒目ばかりの目立つ目を細め、小さな口を尖らせる蝶はねだり上手だった。欲しいものは欲しい。あれも、これも、ではなくて、どうしてもあれがひとつだけ欲しい、と小さな蝶から見上げられて懇願されると、誰も嫌と言えなくなる。
蝶に預けられた蜘蛛は娼館で雑用や使い、蝶のお伴をするようになった。
ふたりは姉弟のように仲が良く、蝶は蜘蛛を可愛がったし蜘蛛は蝶によく懐いた。他の死人達はみな動物と掛け合わされているのに、ふたりだけが虫と合わされているせいでもあったのだろう。自分達だけが、という思いがあったのかもしれない。
どんな場所にでも蝶は蜘蛛を連れて歩いた。
座敷に上がるときでも、なんだかんだと蜘蛛に酒を持って来させたり料理を運ばせたりと、ふたりは離れる時がなかった。
死人の女達は、どうしても手に入れられないものがある。
それは自分の男だ。
自分だけの男。馴染みの客はいても、それは客の枠を飛び越えてきたりはしなかった。自分だけのものになれと、酒に酔って戯れに口にしても、誰も女達を娼館から連れ出したりはしない。死人の女達は、結局この娼館でしか存在できないからだ。
女達は自分が死ぬ前に好いていた男の名前だけを、大事に大事に胸へと秘めて日々を過ごしていた。
なのに。
蝶は蜘蛛という男を手に入れている。
ふたりが男女の関係だったのかは誰も知らないが、きっとそういったことはなかったのだろう。本当に、姉と弟のように仲が良かっただけなのだと。それでも娼館の女達は羨んだ。眠れない夜に、この手を握ってくれる者がいればいいのにと、そんなことを思わない女は誰もいなかったから。
そうでなくとも、蝶はここで一番美しかった。
そしてとびきりの上客を持ってもいた。
蝶のことをひどく気に入って、足繁くせっせと娼館へと通ってきていた。肩幅が広く、背も高い男で、そのくせやわらかな顔立ちをした優男。立ち振舞いも甘く優雅で、女達はどうにか安坂の気を引こうとしたが、当の本人は蝶のことしか見ていなかった。
その安坂と出るときだけは、蝶は蜘蛛を連れて行かない。
安坂の名を呼ぶとき、蝶の声は甘く震える。
元から鈴を転がすような可愛らしい声だったのに、それがさらに揺れるから、それは恋をしている女のものにしか聞こえなかった。
死人が恋をしても、それは成就しない。死人は子を成せない。一度死んだ身体で永遠に生き続けるからだ、それにここに来る客達だっていずれはどこかへ行ってしまう者達。
けれども、そんなことは分かっていても心は先走る。ひとたび火のついてしまった恋を、それじゃあここで止めましょうなどとできるはずがない。
蝶は甘い声で安坂を呼ぶ。
安坂はやわらかなまなざしで蝶をいとおしむ。
蝶の可愛がる弟のような存在だからと、安坂は蜘蛛のことも可愛がった。珍しい菓子や綺麗な花、どこで手に入れてくるのか、他の客達は持ってこないようなものをしれっと差し出す。そして蝶や蜘蛛が驚き喜ぶと、目を細めてにっこりと微笑むのだった。
そんな幸せな三人だったのに、ある日どこかで踏み間違えた。
蜘蛛の中に少しずつ溜まっていった嫉妬。
それは本人にも気付かないうちに、少しずつ少しずつ、気がつけばいつの間にか小降りだった雨が大きな水たまりを作っていたように、はっ、としたときにはもうすでに喉元のぎりぎりまで膨れ上がってしまっていた。
姉と慕う蝶に対する想いと、その姉のような蝶が好いている安坂。安坂は自分にもやさしく、異国の話なども聞かせてくれた。蝶には内緒で、と戯れのくちづけを一度だけしたこともある。
それが。
蜘蛛の胸を痛め、そして混乱させた。
三人で幸せになる方法が見つからない。
同じだけの気持ちで想い合っているのか、それを見分ける術がない。
安坂が蝶に向けるまなざしに嫉妬する、蝶が安坂に甘えるのを見て胸が痛む。同じだけ。同じだけふたりを愛しているのに。同じように大切なふたりなのに、ふたりが仲良くしているのを見ると辛くて仕方がない。覚えるのは疎外感。ふたりとも、蜘蛛を愛してくれているのに。
やがて蜘蛛は気付いた。
いや、思い出してしまった、と言った方が正しいかもしれない。
自分が『蜘蛛』だということに。
『蜘蛛』は、『蝶』を捕食するということに。
蝶を食ってしまえば、自分は彼女とひとつになれる。蜘蛛は大好きな姉である存在の蝶と同じくなれる。蝶を食ってしまったら、その後で安坂を食ってしまえばいい。そうしたら。そうしたら、蜘蛛の中で蝶も安坂も混ざり合い溶け合い、ひとつになれる。
自分の中で、大好きな蝶も安坂も一緒になれば、三人でずっといつまでも幸せに暮らしていける。いつまでも、いつまでも。
蝶の着物を纏った。同じ化粧をして、同じ仕種をして、同じ声色で話して。
そして、蜘蛛は、糸を吐いた。
「……あたしはどう足掻いても蝶の次にしか見られなくてねえ。正直なところ悔しくないはずもなかったんだけどさ、正面切ってなんて勝負できないもんだよ、蝶は本当に綺麗な子だったのさ。それであたしは少しでも蝶からなにか取り上げてやろうと思って、目を盗んじゃ蜘蛛を可愛がってさ」
狐は庭へと目を向ける。
眠るための着物はただの無地で、淡い色をしているのだろうけれど月の光が曖昧すぎて淋しい色に染まって見えた。
結っていない髪は、狐の肩を小さく見せる。
「でも結局蜘蛛は蝶ばかりを見ていたってことさ。安坂だって、蝶がいなかったら蜘蛛なんて鼻にも引っ掛けちゃいなかっただろ。でもあたしは蝶にべったりの蜘蛛を、どうにか自分の方に振り向かせたくてね。あの女から大事なものを取り上げてやったら、いつだって蝶の次に見られていたあたしの溜飲だって下がると思ってたのさ」
いつの間にか錯覚しちまったようだけどねえ、と狐が月を見上げる。
「錯覚?」
「手に入れたいのは、蝶を笑ってやりたかったってだけだったのに、相手が蜘蛛とはいえ男だろう。あたしの中の女がさ。勘違いしちまったのさ、蜘蛛を追っかけてんのは惚れてるからだって」
「……そんなもん、ですか」
「女なんてそんなもんだよ」
「……か、かなり大胆な間違い、な、気がするけど、」
「まあねえ。いや、そうでもないもんだよ、女は欲しいと思ったら目的なんて忘れちまっても、もうそれが欲しくてたまらなくなるからねえ」
「……俺を、その蜘蛛と重ねてる?」
「涼介、」
「そのとき手に入らなかった蜘蛛って人を、俺のこと傍に置いて身代わりにしてんの?」
身代わりなんてもんじゃないよ、と狐が微かに笑ってみせた。
淋しさがようやく虚勢を張って唇の端を持ち上げている、そんな顔で。
「狐姐様!」
「大きな声をお出しでないよ、もうこんな夜更けだからねえ」
「……その、蜘蛛って人は?」
「……蝶と安坂を食って……自分のことを蝶になったと思い込んでね……蝶の着物着て、化粧して、蜘蛛は蜘蛛でなくなった」
それで主様が怒って連れてってそれきりさ、と。
涼介の耳に届けるというよりは、ただ思い出したことが独り言になってこぼれただけというように、狐はつぶやく。
「……主様に連れてかれると、どうなんの?」
「さあ。でももうきっとこの世にはいないだろうねえ。……話はおしまい、もうおやすみ、涼介」
「……ちっともおしまいじゃないじゃんかよ」
「涼介?」
「だって、狐姐様はちっともその蜘蛛って人のこと忘れてないじゃん。好きだったんだろ? おしまいなんて言って、でもずっと狐姐様はそいつのこと想ったまんまでいるんだろ?」
「涼介、」
「俺のこと身代わりにして、蜘蛛って奴想ってんだろ?」
「涼介!」
鋭い声で呼ばれて、はっとした。
次の瞬間、左の頬に衝撃がある。
叩かれたのだと知るのに、時間がかかった。それは痛みではなく、わずかな熱だけを涼介に伝えた。
「勝手なことを言うでないよ、勝手にあたしの気持ちを押し付けないでおくれ」
「……俺は蜘蛛って人と全然関係ない。俺に、蜘蛛って人を重ねないでくれよ、」
まるで自分が狐へと告白しているような気持ちになってきて、涼介は静かに焦り始める。なにを言ってんだ俺。一緒にいすぎて、好きになったように錯覚しているんだろうか。それなら、狐のことをあれこれ言えない。俺の方がよっぽどの単純バカだ。
「……あたしを好いている訳でもないのに、自分は好かれていたいとでも言うか?」
「ち、ちが……」
「違わないであろう、涼介、お前は大切な娘がいるのだろう?」
鹿乃。
そう、魂を取り戻してやらないといけない、幼馴染みが。いる。
狐が涼介の左頬にゆるゆると手を伸ばす。もう一度叩かれるのかと、思わず身を竦めるけれど、その細い指はそっと触れてきただけだった。強く触れば粉々に砕け散ってしまうとでもいうように。
「悪いな、叩いたりして」
「狐姐様……、」
「なあ。……あたしはお前さんが思っているよりずっとずっと、お前さんのことが可愛くて仕方ないんだよ。蜘蛛に重ねてないといえば嘘になるかもしれないけどね、あっちの方が付き合いも長かったんだ、大目に見とくれよ」
細い指先が頬を撫で、やがてゆっくりと移動して涼介の唇の端に引っかかる。
人差し指が、下唇をゆるりとなぞって。
「……他の女に惚れた男なんぞ、くちづけしても楽しくないわなあ。あたしのものでないってことが身に染みちまうだけだ。なあ涼介、でもあたしは……あたしはお前さんが可愛くて、仕方ないよ」
キスの、タイミングだったのかもしれない。
誘いに乗って、唇を奪うのが礼儀だったのかもしれない。
けれど涼介は動けなかった。鹿乃の名前を、胸の内で必死に呼んでいた。鹿乃、鹿乃、鹿乃、鹿乃……。そうしないと傾いてしまいそうだった。俺だって好きなんだと言ってしまいそうだった。ここにきてからずっと傍にいるのは狐だ。なんやかんやと世話を焼いて、本来なら存在してはいけないはずの涼介をここにいさせてくれている。匂いをつけるためだと抱きつかれて、頭を撫でられ、多分客には向けないであろうもっと特別なやわらかい微笑みを、たっぷりと涼介に注いでくれて。
好きになるなという方が無理なのだ。
彼女が死人だとしても。
永遠に生き続ける、人としての魂ではないものを持つ存在だとしても。
鹿乃がいなかったら。
鹿乃がいなかったら。
鹿乃がいなかったら、きっと狐に好きだと、叫ぶことができた。
それがどこにもたどり着けない恋だったとしても。
誰も幸せになれない恋だったとしても、それでも互いに心が通じていると知れたら、ほんの少しの間だけでもそこには確実に幸せと思える瞬間があったかもしれない。
「なに泣いてんだい……」
唇を撫でていた指がそっと離れ、涼介の頬に触れた。
「泣いて……?」
「……母ちゃんでも恋しくなったかい、まだまだ子供だねえ」
茶化したにしては甘すぎる声で、狐は涼介を抱きしめた。身長は涼介の方がもちろん高い。それなのに、狐は涼介を抱きしめて背中をやさしく叩いてくれる。とん、とん、とん、と。
自分でも知らないうちに涙をこぼしていた涼介は、一瞬もがいたけれどすぐに力を抜いた。狐の体温が低い肌は、さらりとしていて心地がいい。狐は涼介の頭に手を伸ばし、自分の首元に落として力を込めた。
息苦しさと、高鳴る鼓動と、それにしてはやけに落ち着くような心地と。
「……人の男ばかりに惚れちまうのは、性分なのかねえ」
狐のひとりごとは、涼介の耳をかすめて夜の空気に溶けてしまう。
涼介は何も言わず、そっと目を閉じた。
好きと、言ってしまわなくてもきっと心なんて伝わってしまっているのだと、どこか祈るようにそう、思っていた。
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「狐の姐様?」
狸が煎餅をぽりぽりと齧りながらゆっくりとまばたきをする。
肘置きに体重を半分ほど預け、畳にだらりと横になり。
「狐の姐様が死人になる前の男って、そんなの狐の姐様に聞けばいいじゃあないかよう」
「そう言わず、ね、ね、狸姐様ならそういう話してんじゃないの? 狐姐様と」
「嫌だよう、狐の姐様はわたいがおしゃべりだって怒るもの」
「言わない言わない、狸姐様に聞いたってことは狐姐様に絶対言わない、本当本当、約束するから!」
なんで狐の昔の男なんか知りたがるのかといぶかしみながら、それでも本音のところではしゃべるのが嫌いではない狸は口を開く。けして狐の姐様にわたいから聞いたっていうんじゃないよう、と念を押して。
「狐の姐様はさあ。あんまし男の運に恵まれなかった人だったんでよう、確かあの姐様は人の亭主を好きになっちまったとかで」
「人の亭主って? えっと、浮気ってこと?」
「うわき? 姦通だよ、相手の男には奥方がいたってことさね。でもそんなものは想い合っちまったら関係ないってんでね、ふたりして手に手を取って逃げたらしいけど、逃げ切れなくてねえ。そんならあの世で一緒になりましょうと心中してみたけど、狐の姐様だけ死ねなかったって話だよ」
……人の男ばっかり、という狐の声が、耳で聞こえる。
生前からずっとそうだったのかと、涼介が淋しい気持ちになる。
当の狐は、客に誘われてしまったからと芝居を観に出かけていた。ここにも芝居と呼ばれるものがあることに驚いたけれど、いわゆる伝統芸能のような感じのものなんだろうか。歌舞伎とか、能とか、狂言みたいな。
そういえば学校の授業でも芸術鑑賞なんてものがあった。
小学校四年生から毎年授業に組み込まれていて、学校中で県の文化会館や芸術ホールに出かけて、年によって異なる演目を観る。それは演劇だったり、合唱だったり、狂言だかも一度観たことがあったような。
午前か午後の授業を丸々潰しての芸術鑑賞なんて、授業の一環ではあるものの、そんなものは格好の昼寝タイムでしかなかった。それでも後から感想文を提出しなくてはならない。
涼介はいつでも、鹿乃に手伝われて昼寝の合間の記憶を繋ぎ、ひーひー言いながら感想文を書いた。男子のほとんどが紙飛行機にしてしまったりゴミ箱に捨ててしまったりうっかり失くしてしまうパンフレットをきちんと持ち帰り、鹿乃はひとつひとつ説明してくれる。この人とこの人がこういう関係だったから、勘違いからこういう事件が起きてしまったの。合唱っていってたけど、室内楽団が入ってのオーケストラでの合唱で、ソプラノのソロの人がこの人、アルトがこの人、テノールとバスがこの人達。オラトリオをやったのよ、綺麗だったハレルヤコーラス。と微笑まれても、どんな曲であろうと音量であろうとただの子守歌にしかなっていなかった涼介にはちんぷんかんぷんだったりして、それをまた鹿乃が笑う。
涼ちゃんと映画を観に行っても、きっと寝ちゃうからつまんなさそう。
鹿乃は芸術鑑賞の感想文に四苦八苦する涼介をそう言ってからかった。
そんなことないさ、自分の好きなものだったら最後までばっちり起きて見てるね。
涼介は必ずそう反論したけれど、ふたりで映画を見に行ったことなんてない。ただ、DVDを借りてきて見ることはあった。鹿乃の部屋にはテレビとプレイヤーがあったので、上がり込んで。ベッドに腰掛ける鹿乃と、その隣で絨毯の上に涼介が座り込んで。
鹿乃の好きな映画は、ウォン・カーワイの香港映画だったり、ぼんやりとした空気が見る者によっては退屈さを感じさせる、取り立てて出来事など起こらない日常ものの邦画だった。それは涼介の眠気を当たり前のように誘い、とろとろとした眠りの世界に引きずり込んでしまう。
結局涼ちゃんは寝ちゃったじゃないの、と鹿乃に呆れられるのが常で、こんなんじゃなくてもっとハリウッドとか有名どころの、どかーんっ、ばきーんっ、スーパーヒーロー参上! もしくはカーチェイスばりばりで生きるか死ぬかで手に汗握ってうわあああっ! ってのを見ようぜ、と言ってみても、主張は毎回却下された。
あの、はかなくもあたたかな、鹿乃といた日常。
「なあなあ涼介」
「んあ、なに、どしたの、狸姐様」
「涼介の聞きたいことをしゃべってやったからさあ、わたいも涼介に聞いてみたいことがあるんだよねえ」
狐以外には明かせない秘密のある涼介は、ぎくりとする。
もしか狸は鈍感そうな顔をしていながらも、実は涼介が生きていることなどさっとさ見抜いていたのだとしたら。
そして、魂を寄こせとなど言われたらどうしたものか。
「な、なに……」
「涼介はさあ、」
狸がすいっと涼介に寄った。今日は淡い紫色をした着物を着ている。桔梗だよ、と教えてくれた花の柄で、狸のやわらかそうな身体によく似合うものだった。
寝そべっていたので、そのまま地を這う獣のように四つん這いになり、それですいっと寄ったのだった。音もなく。
くん、と狸は鼻をさらに近付ける。
思わず顔を引きつらせて、動きもぎくしゃくとした涼介が後ずさろうとするものの上手くいかずに自分の着物の裾を踏み、ひっくり返る形で転ぶ。
「痛てててて、な、なんだよ、狸姐様……!」
出かける前に狐が随分せっせと自分の匂いをこすり付けてくれたけれど、どこで自分が生きている匂いを発してしまうか分からない。びくびくしながら慌てて起き上がり、上目遣いでじりじりと間合いを取りながら涼介は狸を見る。
が、狸はお構い無しに距離をずいずいと縮めて、くんくんと匂いをかいでくるのだった。
「やー! やめてくれぇー! なんか超恥ずかしいから!」
「蝶が恥ずかしい? なんでえ?」
「こ、この『ちょう』は『蝶』じゃなくてものすごくって意味の『超』だっての、ってか、や、やめてーっ、狸姐様な、なに俺の匂いをくんくんかぐんだよーっ!」
「そんなに騒がなくてもいいじゃあないか、なあなあ涼介、どうしていつも狐の姐様の匂いをさせているんだい?」
「……え? へ?」
「いつも不思議なんだよう、涼介は狐の姐様の匂いがぷんぷんしているからねえ。涼介は狐の姐様のいい人なのかい?」
「い、いい人……って?」
狸がきらきらと目を輝かせている。頬にせんべいの欠片がついているが、本人はまったく気付いている様子もない。
「男と女の仲なのかいってことだよう」
「お、男と女の、仲……?」
「いやだねえ、しらばっくれるのかい。涼介は狐の姐様を抱いているのかって聞いているんだよう」
「だ、抱く……?」
いや、むしろ抱かれている。毎回抱きしめられて、ぐりぐりとそこらじゅうを撫でられて頬をすり寄せられて、そう、マーキングをされているような感じだ。
「って、そういう意味じゃないんだよな、抱くって、だ、抱くってあっちの、その、夜っていうか、そういうのの意味か、狸姐様!」
「あれあれ、照れるでないよう」
「ちょっ、て、照れてるんじゃなくて、誤解、誤解だって! 無茶苦茶誤解、超誤解、全然そういうんじゃない!」
「そう照れなくても良いじゃあないか、いつでも狐の姐様の匂いをさせているくせに」
「ち、違うんだってば、これには訳というか事情というか、マジで違うんだってばー!」
生きていることに気付かれていないのは良かったとしても、とんだ勘違いをされていて焦る。
違います違います違いますってばー! とついつい大声で否定しながら騒いだので、大きな声を出すでないよ、と狸から口をふさがれてしまった。ぽちゃりとした手で、覆われたのだ。
「む、むぐぐぐぐ」
「やれやれ、そう照れなくても良いというの、に、」
スパンッ、と威勢のいい音を立てて、部屋の襖が開けられたのはその時だった。何事、と思って口をふさがれたまま目だけ向けると、ひらりひらりとした水色のスカートの裾が目に入る。
次の瞬間、それは翻ったと思うと、涼介の口をふさいでいた狸に体当たりした。
「きゃあああああっ!」
「狸姐様!」
全体的に丸いせいか、それとも体当たりされた衝撃が強かったのか、狸は部屋の隅までころりと転がる。
「涼介、大丈夫か!」
水色のスカートはすぐに体勢を整えると、涼介へと駆け寄った。
「う、兎姐様、」
「お前の悲鳴が聞こえてな。何事かと思えばくそ狸が涼介にのしかかっておる。あの痴れ者めが!」
「悲鳴……? あ、兎姐様、それは、」
違います、の言葉も待たずに、兎は狸へと飛び掛った。
「うわっ、ちょっと!」
止める間もなく、兎は狸に馬乗りになり、髪を掴んで思い切り引く。
「痛いっ、痛たたたたたたっ、や、やめておくれようっ」
「うるさいっ、このくそ狸めが! 涼介を手篭めにしようなどと、不埒なことをしおってからに!」
水色のドレスがひらりと舞う。狸の頭を殴りつけたのだった。それこそ狸は悲鳴を上げて、痛い痛いともがく。
しかし狸もただやられているわけでもない。兎のひらひらとしたスカートの裾を掴むと、力任せに引っ張った。体格の差があるふたりだ、狸の方が力もあるようで、いかにも軽そうな兎は引きずられてしまう。
「この阿呆兎、なんてことしてくれんだい!」
「うるさいっ、うるさああああいっ! 狸っ、貴様は最初から気に入らぬ!」
「わたしのが古参なのを忘れたのかい!」
「古参がなんだい、ただの古狸なだけであろう!」
兎が飛びかかって、狸の顔を引っ掻いた。
ぎゃああああ、と悲鳴が上がるが、左の手で傷を押さえながら、狸も兎の頬を力いっぱい殴りつけた。
「や、止めてくれって、狸姐様も兎姐様も! って、兎姐様!」
止めに入ろうとした涼介の顔が引きつる。狸の拳は兎の鼻に当たったらしかった。ぼたぼたと、赤黒い血が垂れている。それは大きな滴になって、兎の淡い水色のドレスを汚した。彼女の、青白い肌も。
「こ、この古狸めがあああっ!」
自分でも鼻血に気付いたらしい兎が、指先で鼻に触れた。べっとりと血で濡れたのを見て、憤怒の形相に変わる。
一方狸も頬の傷はうっすらと血をにじませていた。こちらも肩で息をしながら怒りで目を光らせている。
次の瞬間、兎が飛んだ。
狸の喉元をまっすぐ目掛けて、起き上りかけていた相手を再び畳の上へ転がす。そのままくわっと口を開いたかと思うと、狸の喉へがぶりと噛みついた。
「ひいっ!」
「う、兎姐様タンマ、タンマだって、それはダメだって、本気になりすぎ、食い千切る気だろ!」
今度こそ涼介はふたりの間に割って入り、兎の肩を掴んで引きはがした。狸は涙目になっていて、顔の色を失くしている。目は大きく見開かれていて、喉には赤くくっきりとした歯型がついていた。
「放せっ、涼介っ、放さんかっ!」
「ダメ、絶対ダメっ、放しません!」
あまりに暴れるので仕方なしに後から抱きしめる。威勢はよく気性は荒いといっても兎は華奢で小さい。涼介の腕の中でうごうごともがいていたけれど、やがて大人しくなった。
と、見せかけて涼介が腕の力をほんの少し緩めた途端、その腕に兎はがぶりと噛みつく。
「痛っ! 痛てててててててっ!」
「古狸、殺してくれるわっ!」兎が叫ぶ。
「わーっ、狸姐様逃げてっ、逃げろって、逃げろー!」
「りょ、涼介、腰が立たん……!」狸が怯えた声を絞る。
「なんなんだよもう、なんでこんなに仲悪いんだよー!」
涼介もたまらず泣きごとを叫んだ。
それを聞いて、狸を目掛けて飛びそうになっていた兎が、きっ、と涼介を睨みつける。
「この馬鹿狸がお前を誘惑するからじゃ! 嫌がる涼介を手籠めにしようなどとしたからじゃ!」
「え、俺……?」
誘惑されたっけ?
「お前が助けてくれと悲鳴を上げたではないか!」
助けてくれ……とは言っていない気がする。止めてくれと叫んだ記憶はあるが。兎は脳内で勝手に涼介の叫びを変換してしまったのだろう。
本人は助けに来た気で満々なのだ。
「……俺を、助けにきたの?」
「好いた男の危機に駆け付けなくては女が廃る!」
「……好いた男って、俺?」
「なにを言うか、額にくちづけたであろう!」
ああ。
ああ、確かに。
「……俺のこと、本当に好き?」
「なにを言うか、そのようなことを何度でも言わせるものではない!」
口調が微妙に揺れた。後ろから抱きとめている兎の長い髪からちらりと覗く長い耳が赤く染まっている。
照れているのか、この子は。
途端に涼介もつられて赤くなった。頬がかっかと火照って気持ち悪い。いやいやいや、俺には鹿乃が。いやいやいや、先日だって狐姐様にも心を奪われかけていて。いやいやいや、そんな。いやいやいやいや、兎までもが、いや、確かにこの前も抱きしめたりいろいろはしたけれど。
でもそれって、絶対異性が俺しかいないことによる勘違い、もしくは他を選択できないだけの話だから。
そう思いつつも口元がついついにやけてしまう。
「馬鹿はあんたじゃないか、兎。涼介は狐の姐様のものだからね」
怯えて引きつっていた狸が、兎の戦意喪失を見てとったらしい。乱れてしまった着物の襟元をかき寄せつつ、憎まれ口を叩く。
「なにをお!」
「ちょっ、兎姐様、暴れないでって! 狸姐様も挑発しないでくれよ!」
「うるさいうるさい、人の男に手を出そうなんて不届きな小娘だねえ! そうさね兎、あんたなんてただの小娘なんだよう、狐の姐様の色香に夜ごと触れる涼介が、あんたのような小娘に惑わされるわけがあるかい!」
「き、貴様っ、言わせておけば好き勝手にこの古狸、殺してくれるわっ!」
止めて止めてと叫ぶしかない涼介の腕からは、再び戦意に燃え上がる兎が今にも飛び出そうと息巻いている。
どうしたものか、誰か助けて鹿乃、狐姐様、と心で情けない悲鳴を上げたとき、廊下を急いで駆けてくる音が聞こえた。
「ちょっとちょっと、誰か走って来ますけど、」
「うるさいわ涼介、この手を放さんか、あの古狸食い殺してやる!」
「ウサギのセリフじゃないです、それ!」
「殺せるものならやってごらん、ふん、わたい達は死ねない死人だってことを忘れたのかい」
「狸姐様も挑発しないで!」
あーもー、と泣きたくなっているところに、思い切りよく襖が開けられた。兎が入ってきたときよりさらに激しく開けられて、それは仕切りにぶつかって半分ほど戻ってしまう。
「涼介!」
「……狐姐様、」
芝居を見に行ったはずの狐が、息を切らしてそこにいた。朱色の上掛けが肩からずり落ちている。よほど慌てて戻ってきたのだろう。いつもは遅れ毛ひとつなくぴしりと結い上げられた髪が、あちこちでほつれている。
「あれ、芝居は……」
「そんなものはどうでも良い、涼介来い!」
「あ、はい……え? どこに?」
あまりにもの勢いに気押されて、兎も狸もぽかんとした顔をしている。
狐は珍しく取り乱した様子でいたが、狸の部屋の惨状に眉を寄せる余裕はあったらしい。
「……なんだい、お前さん達」
障子は破れ、兎のドレスは血まみれで畳にもそれは飛んでおり、狸は着物を乱しているし、よく見ればいつの間にやったのか、兎の胸元のレースも引き千切られているのだった。
「相撲でもとったのかい……」
「いや、このふたりはただのケンカ……」
涼介が小さくつぶやくと、その声に反応して狐の顔に緊張が戻った。手首を掴まれて、引っ張られる。
「わっ、痛いですって、」
「涼介来い!」
「どうしたんですか、なんですか」
自分のいない間に狸や兎と戯れおって! という怒り方ではないよなぁ、と思っていたけれど、狐は涼介が想像もしていなかったことを叫んだ。
「主様が!」
「主様?」
間の抜けた声を出したのは涼介だけで、狐の言葉を聞いた狸と兎は口をきゅっと結んで真顔に戻り、すくっと立ち上がった。
「お前達、主様がいらっしゃるぞ!」
兎がぴくりと耳を伸ばす。
狸の尾がぶわっと膨らんで持ち上がったかと思うと、ゆっくり元に戻った。
「ふざけておらんで部屋を片しい、とっときの着物をお出し!」
兎は気に入らないように鼻を鳴らしつつも、短く鋭い返事をして部屋を飛び出す。狸は声を高くして小間使い達を呼び、部屋を片付けるよう指示した。いつもののんびりした様子が微塵も感じられないので、涼介はあっけにとられて目を丸くする。
「……狸姐様も素早く動けるんじゃん、」
「涼介、お前さんは早うあたしのところに!」
こちらも初めて見る焦った狐に腕を取られた。引きずられて涼介は足をもつれさせながら廊下に出る。
「な、なに焦ってるんですか、狐姐様、」
狐が声をひそめて、けれど厳しい口調で言った。
「お前さんは死人でないだろう。ここの死人はみな主様が作ったんだ、自分で作ったはずのないお前さんがここにいたら、死人でないとすぐ気付かれるであろう?」
「あ、そっか。……ってことは?」
「生きている者の魂を欲しがる死人はここに多い、それは主様が望むことではないであろう。人の魂を食えば、死人は死ぬことができるからなあ。主様に見つかったら、誰より先にお前さんが魂を抜かれてしまうだろうと思うけれどね」
「お、俺も死人にされるの?」
「さあねえ。お前さんが死人になればそれはそれであたしは構わないけれど、さ、早う」
すべるように板張りの廊下を走る。
狐の部屋にもつれるよう押し込まれると、狐は後ろ手に襖を閉めた。
手が伸ばされる。事態を把握しないまま、涼介は抱きしめられる。
「ああ、あたしの匂いが全部お前さんに移ればいいのに、こんな小手先の誤魔化しで主様を騙せるとは思えないが仕方ない、これ以外あたしは思い浮かばん」
ぎゅうぎゅうと力を込められて、頬をすり寄せられて。
「芝居小屋に使いが来てねえ。主様がおいでだから早う帰れと。いつ来るかは分からんけれど、きっと主様のことだでお日さんの沈んだ頃に来るのだろう、ああ、それまでにお前さんをあたしの匂いで隠してしまわないとねえ」
「……でも、俺は主様ってのに鹿乃の魂を返してもらわないと、」
「主様がそうですかと返してくれるわけがないだろう、鹿乃って娘の身体が欲しくてわざわざ魂を抜いたのだから」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「あたしが上手いこと盗んでくるさ」
「盗む、って、」
狐はくふふと笑う。喉の奥を震わせて。
「あたしを誰だと思ってるんだい、狐だよ」
「……だから、なんだっていうんだよ」
「狐は人を騙すものと決まっているだろう?」
「じゃあ騙されんのは主様じゃなくて俺なんじゃないの?」
どうして?
狐が腕をほどいて涼介から離れた。顔を見るためだとすぐに知れたのに、なぜだか淋しくて淋しくて泣きたくなったのはなぜだろう。
どうして? と狐は同じ言葉をまた繰り返す。本当に不思議そうな顔をして。
「……だって、俺は死人じゃないから」
「お前さんを騙してどうする、主様と企んで、お前さんを死人にしようとかい?」
言いながら狐は涼介の帯をほどき始めた。
なにを、と驚いてその手を止めようと自分の手を重ねる。
「な、なにすんの、狐姐様!」
「……お前さん、なにか勘違いをしていないかい?」
言いながらするすると着ているものを脱がしていってしまう狐に、抵抗らしき抵抗ができず涼介はただおろおろとするばかりだ。もちろん、都合の良い勘違いはものすごくしている。
そっちの方面の期待を。
いやいや俺には鹿乃がいるし!
そもそも鹿乃の魂を取り戻さなきゃなんないんだし!
「……涼介、顔がお日さんのように真っ赤だねえ」
狐は言いながら自分の上掛けをするりと脱ぎはじめる。
これはもう、期待するなという方が無理だ。
「って、わーっ、ダメ! 狐姐様ダメ! 心の準備ができてないし、こ、こういうのって真っ昼間からするもんじゃないっていうか、うわあああああっ!」
「う、うるさい涼介、騒ぐでない!」
ばさりと狐の上掛けが涼介にかけられる。
次々に着ているものを脱いでいき、狐はそれを涼介に着るよう促した。
「え……? 俺が? 狐姐様の着物を?」
「早うしろ」
「だ、だって狐姐様のじゃ小さい……足とか手とかつんつるてん……」
狐は着物の下着である肌襦袢姿になってしまったので、涼介は目のやり場に困った。薄い着物といってしまえばそれまでだが、薄すぎて透けるのだ。身体のラインが。想像していたよりも大きい胸のふくらみだとかが。
「も、もうそんな格好で俺を誘惑しないで……!」
「阿呆を言っていないで着ておくれ。あたしの匂いがするだろう、少しは主様の目も誤魔化せる」
「あ、そういう……意味か……」
着たら押入れに潜っといで、と言われる。
あたしが出ておいでと言うまで息潜めておいで、と。
「で、でも俺がいなかったら、他の人がなんか言わない? 馬はどうしたんだって、」
「心配するでないよ、狸も兎も猫の婆も、あたしが馬は使いに出したと言っておくさね」
「……主様って、こんなふうに突然来たりするもんなのか?」
「さあねえ、前に会ったのはいつだったか。覚えちゃないほど昔だったねえ」
「……狐姐様に、主様は誰の顔に見えんの?」
「ほう、主様は見る者に違う顔を見せるからねえ」
「うん、猫婆にも聞いた」
「おしゃべりな猫だねえ。狸ほどじゃないがねえ」
「……猫婆はお父さんの顔に見えるって言ってた」
「あたしには……さあねえ、もう会ったのは忘れちまうほど昔のことだ、どんな顔だったかなんて忘れちまったよ」
狐の視線が揺れる。
それで嘘なのだと知れたけれど、涼介は何も言わなかった。
涼介は言われたとおり狐の着物を着ると、黙って押入れを開ける。
「ああ待て、涼介」
「うん?」
「おいで」
「……うん」
もう小さくなってしまった服を無理矢理着ているちぐはぐさで、脛も腕もむき出しにしている涼介に小さく微笑みかけながら、狐はその帯をきちっと締めなおしてやる。
自分の着物を別で出してきて着直した狐は畳の上で正座すると、その膝をぽんと叩いた。
「おいで」
「す、座るの? 狐姐様、つぶれるよ?」
「……阿呆、膝を枕に貸してやろうといっておるのに」
「あ、ああ、そう、そうですよねー」
慌てて取り繕い、内心ではうわあああと叫びながらも涼介はころりと横になる。狐の膝に頭を乗せて。
「……って、なんで急にくつろぎモードに?」
「もおど?」
「いや、俺押入れに隠れてないといけないんじゃ……」
「心配だでな、もう少しあたしの匂いをつけておきなね。ああ、隠し切れれば良いけれど」
隠れん坊は得意だった。
涼介は小さい頃、鹿乃と隠れん坊をすると必ず上手く隠れすぎてしまい、鹿乃を泣かせた。
涼ちゃん、どこにいるの。
涼ちゃん、どこに行っちゃったの。
涼ちゃん、出てきてよ。
泣きそうな声はそのうち本当に涙が混じって、潤んだ水浸しの声になる。
涼介にしたら、別段想像もつかないようなところに隠れているわけでもないのだ。開きの衣装ダンスの中や本棚の裏、カーテンの裏に息を潜めているだけなのに、鹿乃は見つけられなくて泣き出す。
涼介は随分得意になっていたけれど、それは単に鹿乃が鈍かったのかもしれない。頭も良くて頼りになるのに、隠れん坊は苦手で見つけられない。そんなちぐはぐさが。
……今も、鹿乃は俺を捜しているんだろうか。
涼介は狐に頭を預けたまま、ぽつりと思った。それはほんの少しだけ、ふと考えてしまったことなのに、急激に胸の奥からじわじわと嫌な色をして広がり出す。
鹿乃は魂を失ったまま、俺のことを捜してるんだろうか。
閉じていた目を開き、涼介は跳ねるようにして起きる。
「どうした、涼介」
狐の驚いた声がした。
「俺、早く魂を取り戻してやらないと」
「分かっておる、お前さんの大事な人の魂であろう」
「ぐずぐずしている暇はないんじゃないかな、俺、狐姐様にやさしくしてもらったり、狸姐様としゃべってるのが楽しくてずっとだらだらここにいちゃったけど」
「焦っても仕方ない」
「でも!」
焦らないでいられないとも言えない。
魂が抜かれたままで、人はずっと生きていられるんだろうか。
魂がないことに気付いてしまった身体が、生きることを止めてしまったら。
心臓を動かすのを止めてしまったら。
「主様がここへくるのは、新しい死人の女を連れてくるためのことが多いでな」
「……え?」
「お前さんの大事な人が死人にされたと決まったわけではないよう、他の女かもしれんしな」
いや。
俺はもっと別のところに鹿乃を隠しておかなきゃならなかったんじゃないか。
涼介の背中に冷たい汗が流れる。それはいつの間にか額にも吹き出していた。ぬるぬると冷たい、嫌な汗。
保健室なんかではなくて、もっと鍵がかかるような、隠しておけるような、誰も鹿乃に気付かない場所へ。
「どうしよう、狐姐様……」
「お前さんの大事な人は死人になんぞになるものか」
「どうしてそんなことが言い切れるんだよ……」
そんなもの、と狐がやわらかく唇を持ち上げる。
「そんなもの、お前さんがそんなに大事にしている娘だもの、易々と手放してしまわないだろう?」
「……うん」
「日が暮れるまでにはまだ間があるよ、腹になにか入れておきな。ああ、もらいもんの焼き饅頭があったはずだねえ、持ってこさせよう」
「いいですよ、饅頭なら狸姐様にあげてくださいよ」
「あれ以上肥えさせてどうする」
狐が眉を寄せたものの、さらに太った狸を想像してしまったのだろう。くふふと吹き出す。そして手を伸ばし、涼介の頬を撫でた。
その白い手に自分の手を重ね、涼介は再び目を閉じる。
この人が、好きだ。
でもこの想いは、きっと涼介が元の世界に戻るための邪魔になる。障害になる。
「さあさ、ぐずは嫌いだからね、さっさとなにか食っちまおう」
狐の声には微かな涙が混ざっていて、それは涼介の胸をぎゅうぎゅうと締めつけた。