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 3


 おいで涼介、と呼ばれる。

 狐のすっきりとした声ではなく、もっとべたべたと甘ったるい声だ。鼻にかかる、甘えん坊の声。けれどわざと作ったものではないので、嫌な感じはしない。

「狸姐様」

「この前は大福をありがとうねえ」

「狐姐様からです、俺じゃなくて狐姐様にお礼は言ってください」

「分かってるけどさ、でも涼介がお使いに行ってくれたんだろ? 菓子屋に嫌味、言われなかった?」

 特には言われなかった気がする。

 死人に味なんか分かるのかい、と言われた気はするけれど、うちの姐様はこちらの大福しか食べないそうです、と答えたらなんだか急に照れ出して黙った。もちろん、涼介が咄嗟にそう返せるわけもなく、狐に「なにか言われたらそう言っときゃいいからね」と言われたからだ。

 狸の顔には、細く長い引っかき傷が三本、うっすらと残っていた。

 左目の下に一本、頬に二本。

 化粧で隠せるほどにはなっているけれど、狸は結局三日も座敷を休んだ。

「金平糖を頂いたんだよ、涼介もお食べ」

 狸の部屋は狐の部屋より一回りほど狭い。けれど、畳敷きで床の間もある。花が活けられ、掛け軸も飾られているが、その絵柄がおたふくだったので涼介は笑ってしまった。似ている自覚があるのかもしれない。

「ほらほら、綺麗だよ、可愛いねえ」

 白い小さな木箱を開けて、中身を見せる。黄色にピンク、白にオレンジ、薄緑。丸いとげとげの金平糖は、透明ではなくすべての色がどこか白く濁っていて、お菓子というよりおはじきやビー玉の仲間のように見える。

「客がくれたんだ。そうそう、草餅もあるし団子もあるよ。醤油と海苔のやつさ。食べるかい? 干菓子もある、砂糖の甘い味がするよ、上等なやつ。涼介にもあげる、お食べ」

 甘いものが得意でない涼介は笑いながら首を横に振った。

「涼介はなにが食べたいんだい、好きなもの言ってごらんよう」

「好きなもの……」

 レギュラーではなかったけれど、中学高校とサッカーをやっていたので、よく部活帰りには友達と買い食いしながら帰った。商店街の肉屋でコロッケを買ったり、唐揚げを買ったり。コンビニよりスーパーの方が安くて総菜が多いので、みんなで寄ったりもした。餃子をパックで買ったり、食パンとポテトサラダを買ってはさんで食べたり。

 マヨネーズ味のもの食いてぇ、と涼介は思わずつぶやく。

 ここではご飯に汁物、魚は焼くか煮付けるかで煮物もほとんどが野菜で、肉はあまり出ない。

 唐揚げにマヨネーズをがっつりつけて食べたい。

 餃子も食べたい、あとラーメン。

「あー、トンコツ!」

「まよねえず? とんこつ?」

「うん、狸姐様はがつーんと肉! とかさ、食いたくなることないの?」

「が、がつうん?」

 狸は涼介の言葉を繰り返して、不思議そうな顔をする。

 年は上なのだろうが、狸は幼い表情をしているせいか、どうも狐といるときのような緊張感が彼女の前では薄れる。狐はきっちりと髪を結い上げているのに、狸はどうしてかどこかほつれ毛を見せていて、どことなく隙があるのだ。

 こういう鈍くさい感じの女子って、ひとりはクラスにいるよな、と涼介は思う。

「ここの人達、あんまし肉食わないじゃん」

「肉。そうだねえ、魚ばかりだねえ」

「狸姐様ってさ、肉嫌い?」

「嫌いじゃないさ、あれば食うよ」

 ぽってりと赤い唇で、ふふふ、と彼女は笑う。

 太っているわけではないけれどぽちゃぽちゃっとした身体付きの、狸の手は小さく、指もどちらかといえば短めだ。その指で金平糖をひとつつまむと、彼女はそれを目の高さまで上げた。きらきらしているねえ、と微笑む。

「お星さんみたいだねえ」

 お星さんは齧ったら何の味がすると思うかい、と聞かれて、涼介は混乱する。星を齧る? ここでは星まで齧れるのか? いや、まさか。

「星って、あの空に浮かぶ?」

「そうだよ、きらきらしてるお星さんさ。金平糖みたいに甘いかね、だってあんなに綺麗だもの」

「星って、水素とかヘリウムとかでできてるんじゃなかったっけ……」

「すいそ? へ、へれうむ?」

「ヘリウム。気体だから、あー、でも俺も良く知らないんだよな、もっと授業真面目に受けとけばよかったな」

「涼介は物知りだなあ」

 狸は垂れた目を大きくきらめかせて、涼介の顔を感心したように眺める。

「物知りじゃないよ、鹿乃のが、」

 鹿乃の方がよっぽど頭が良かった。

 中学の頃は成績優秀者で、テストの総合得点が高い者が一位から五位まで各学年で貼り出されるのだけれど、鹿乃は毎回そこに名が記されていた。

 綺麗な字で分かりやすく書かれたノートを見せてもらって、テスト前はよく勉強を教わった。蛍光ペンの黄色とピンクと水色を使い分けて、見やすく書かれたキャンパスノート。時々クマの絵が描かれて、「重要ポイント!」などと書かれている。

 本人は「先生が大事って言ったところを他のことよりしっかり覚えればいいだけの話」などとすましていたけれど、涼介は誰がどこを大事と言ったかなんてちっとも覚えていない。

 頭はいいけれど、運動は苦手で、小学生の時は飛び箱が飛べないの逆上がりができないのとべそべそ泣いてばかりいた。

 逆上がりは近くの公園に特訓しに行ったこともある。

 涼介はいつの間にか逆上がりが自然にできていた人間なので、鹿乃がどうしてできないのかがさっぱり分からなかった。

 足で蹴るんだよ、だとか、腕を引くんだよ、だとかいろいろ言ってみるものの、結局言葉に詰まって、俺がやるから見てな、となってしまう。

それで何度もくるくると回って見せると、鹿乃は無邪気に手を叩いて、すごいすごいと喜ぶのだった。

 自分が回れたわけでもないのに。

「しかの?」

「うん、俺の幼馴染み。魂を……」

 言いかけてはっとする。狐に、自分が生きている人間なのだということは言うなと言われていた。他の誰にも。おっとりとして害のなさそうな狸だけれど、彼女にも言わない方が良いのかもしれない。魂を抜かれた話をしたら、涼介がここに存在するべきではない人間だということがばれてしまうだろう。そんな気がする。

「星は甘くないと思う」

「うん?」

「星は……水素とか炭素とか水素とかそういうのはひとまず置いといて、」

 置いといて、と見えない箱を横にずらす仕種をすると、狸がきょとんとした顔でそれを真似た。茶色い着物の袖が揺れる。狸の着物は茶色の濃淡が美しいもので、白い椿が描かれていた。裾から上がってくるごとに、茶色は淡くなっている。

「薄荷みたいな味がするんじゃないかな」

 涼介は詩的感覚などないので、見た目だけで言ってみた。ドロップの缶に残る、薄荷のキャンディー。星はあの小さな飴玉に似た色をしている。

「薄荷」

「うん、薄荷」

「薄荷はすうすうするから、わたいは嫌いだよ」

 狸は自分を「わたい」と呼んだ。本人は「わたし」と言っているのだろうけど、舌っ足らずなのでそう聞こえる。それが涼介には微笑ましかった。

 その舌っ足らずで、嫌い、とはっきり言うのが意外で、なお微笑ましい。小さい子が、ピーマン嫌い、と一所懸命主張しているのによく似ていて。

「薄荷嫌いなんだ」

「嫌いだよう、口がすうすうするからね。からいじゃないか、あれは」

「じゃあ狸姐様が薄荷の飴をもらったら、俺が代わりに食べてやるよ」

「薄荷の飴なんぞもらわないけど、本当か?」

「本当。もしも狸姐様の好みをよく知らないお客が、星みたいに綺麗だからって薄荷の飴をお土産に持ってきたらね」

 そういえば鹿乃は給食で出るコッペパンが苦手だった。ぱさぱさして喉に詰まると言って。パンは紙に包んで持ち帰らされるのが常で、家に持ち帰ると好き嫌いをして、と言って母親に怒られるので、それが怖くて泣き顔になる鹿乃が可哀想で、涼介はよくその残りのパンを帰り道で食べてやった。ランドセルを背負ったまま、お腹空いた、おやつまで持たないぜ、なんて大きな声で言い訳をしながら。

 涼介がパンを食べているときの、鹿乃が見せるほっとしたような困っているような、パンを食べられない自分に腹を立ているのかどこか怒ったような顔を思い出す。白い頬を赤くして、小さな声でささやかれる、「ありがとう」。

「……お星さんは薄荷の味か」

「分かんないよ、俺が勝手にそう思っただけだもん。齧ったことないし」

「齧りたいと思ったこともないかい?」

「星を? ないよ、うん、ないな。星なんて食べ物でもないし、あれはガスの塊なのがほとんどのはずだったし」

 がす? とまた不思議そうな顔をしていた狸だったが、やがてとろりと目を細めた。

「昔ねえ。まだわたいが生きてた頃だよ、だから昔々の話さ。狐の姐さんよか昔じゃないけどね。好いた男がいてね。なに、別段見てくれが良いとかそういう男じゃなかったけど、やさしい男でね。わたいがお星さんを齧ってみたいって言ったら、じゃあ取ってきてやるって言ってくれてねえ。屋根の上じゃまだ届かない、丘の上じゃまだ届かない、じゃあ世の中で一番高い山の上ならどうかってんでさ、竿竹担いで行っちまったんだよ」

 富士山の上で竿竹を振る男を涼介は想像する。それでも全然足りない、大体星なんか竿竹で落とせるはずもない。なんだそりゃ、と思って狸を見ても、彼女は目尻を下げて微笑んでいるばかりなので、大笑いするところではないらしい。

「……星、取れた?」

「いやいや、男が山から落ちた。馬鹿だねえ、首の骨を折っちまって、わたいが会いに行く間も待てずに死んじまったよ」

「そ、それは……」

「随分好いた男だったから、わたいも哀しくてねえ。泣いて泣いて、目が溶けちまうかと思うくらい泣いたけど、溶けなかったねえ。それでも哀しくて哀しくて、あんまり哀しくて男の後を追ったんだよ。それで気付いたらここにいてさ。綺麗な着物着て、男達の相手するようになってたの」

 なにがどうなってるのか分かんないんだけどね、と狸が笑った。

「その男って、蜘蛛って人?」

「蜘蛛?」

 涼介が聞くと、狸は驚いた顔をする。

「蜘蛛なんかじゃないよ、ああでも懐かしい名前だねえ。可愛い子だったよ、肌が白くて、鼻んところにそばかすが散っててさ。あの子とよく茶を飲んだよ、それこそ金平糖齧ったりしながらね。なんだい涼介、蜘蛛を知ってるのかい?」

「いや、知ってない、知らないけどさ、狐姐様が可愛がってたって言ってたから……その人もここで、死人になったのかと思って」

「違うよ、わたいの男は死んでそのまま、あれば極楽だかどっかへ行ったんだろう。会えなかったねえ、最期まで。ここはあの世へ行く男達が立ち寄るところだから、わたいが死人になるのが遅かったんだろ」

「今も、会いたい?」

 そうだね、と狸は言葉を途切れさせ、天井を見上げる。そう高くない天井は木の板が貼られて、模様がどことなく人の顔の形に見えた。つられて見上げて、涼介は鹿乃をまた思う。畳の部屋で寝られなかった鹿乃。天井から誰か見てる、と怖がって。だけど母親に頼んで布団を並べて敷いてもらい、涼介となら一緒に眠れた。小さな手を繋いでなら、という条件も必要だったけれど。

「会いたくないとは言わないけれど、もう昔々の記憶は綺麗に飾られて箱に入れられてしまっているからね。本当は大した男でもなかったのかもしれないけど、今になって綺麗な思い出になっちまってるのかもしれない。わたいにはもうよく分かんないんだよ」

「記憶のままだったら、会いたい?」

「そのまんまだったら、そうだねえ。……わたいが死人でなくなるのなら会いたいわあ。死人のまんまであの人だけまたどこかへ行ってしまうんなら、それは最初の別れよりずっと哀しいだろうからねえ」

 狸の目はうるんでいて、今にも泣き出しそうになったから涼介は慌てた。女の人が泣くと、どうしていいか分からなくなる。おろおろするだけで、余計なことを言ってみたり大事なことをしなかったりで、相手をもっと泣かせてしまったりする。

「死人でなくなる方法があればいいのにね」

「あるさ、そりゃ」

「え、あんの?」

 大体こういうのは、ゾンビや妖怪みたいな形態になってしまったら、人間に戻れないのが定説なのではなかっただろうか。

 言っておいて驚いている涼介を、狸は面白そうに眺める。

「あるよ。生きてる人間の魂を食うのさ」

「……生きてる、人間の、魂?」

 思わず涼介は自分の胸に手を当てる。心があるだろう心臓の部分。魂というものも、あるとしたならそこにある気がして。心は感じ考えるものだから、脳がそれに相当するという人もいるけれど、どうなんだろう。

「そうだよ、そう言われてるけどね。生きてる人間の魂を食えば、わたいらの止まっちまってる時は動き始めて年老いることができる。死ねるのさ」

「死ねるって、死んだらなんにもなくなっちゃうじゃん」

「なくなりたいじゃないか。ここは常春、永久のような時をずっと生きてる、もう死にたいよわたいは。死ねるから人間なんだよう」

「……狸姉様は死にたい?」

「今すぐ消えておしまいってんじゃ、淋しいけどねえ」

「いつかは、死にたい?」

「いつかはねえ。死んで土に返って次にまた生まれ変わってあの人に会いたいねえ」

 死にたいと思ったことはない涼介に、狸の気持ちは理解し切れるものではないのだろう。

 狸は包みを広げると、海苔の巻かれた団子をひと串手に取った。そのまま口に運んで、団子のひとつを食い千切る。もぐもぐと頬を膨らませながら食うと、次をまた口に入れた。

「あんまり喋ると腹が減る」

 ぽつんとつぶやくので、涼介は思わず笑った。

 なるほど、狐があまり自分のことを話すなと言ったのは、魂を狙われるからなのか。やっと腑に落ちる。

「生きてる人間の魂を食うって、どうやって?」

「どうやってって、さあね。天麩羅にでもしたら美味いかね、焼くだけじゃあ味気なさそうだ。刺身でも食えるのか、わたいは知らんけど」

「……俺を、からかってる?」

「ふふふ、そう膨れるな。わたいも知らないんだよ、そういう話があるってことだけさ。御伽噺みたいなもんだよ」

「……あのさ、さっき蜘蛛って人はここにいないって言ったけど、その人は生きてる人間の魂を食べていなくなったとかってんじゃなくて?」

「あれは……蜘蛛は人間の魂なんて食ってないと思うけどね……わたいはよく知らないよ、知ってんのは狐の姐様だよ。蜘蛛が蝶になったとこを見ちまったからね」

「蜘蛛が、蝶になる?」

 芋虫が蝶になるのではなく?

 蜘蛛は小さい時から蜘蛛だろう、蝶にはならない。蜘蛛に羽はない。蝶を絡め取る、糸を吐いたとしても。

「ふふふふ、涼介の顔。不思議そうな顔をしているよ、あはははは、聞きたかったら狐の姐様に聞いとくれ。蜘蛛の話はもうおしまい。淋しい話だからね、涼介はどうしてそんなに蜘蛛が気になるんだい」

「気になるって言うか、」

 ここにいるのは女ばかりなのに、その人は男だったようだし。

 蜘蛛の着ていたものを借り、蜘蛛の住んでいたという部屋で寝起きしているからかもしれない。その人もまた、誰かの魂を取り戻しにきたのではないかと思ってしまうのだ。

 取り戻したい魂を取り戻したから、元の世界に戻ったとしたら。

 いなくなった、と表されるのではないだろうか。

 でも、蜘蛛が蝶になったというのがよく分からない。

「ああ、嫌だねえ。夜が来ると座敷に出ないといけないよ。涼介、陽が暮れるまで花でも摘むかい、鳥でも鳴かせるかい」

「狸姐様はお座敷が嫌いなんだ」

「嫌いじゃないけどさ。足投げ出して団子食ってりゃいいってもんじゃあないし、お酌をしなきゃならないのがね。わたいは酒の匂いで酔うから」

「さっき裏木戸の取っ手を直すよう言われたから、俺は行かなきゃ」

「なんだよう、そんなの放っておきなよう」

「裏口使えなかったら困るだろ、って、俺も別に大工仕事得意とかじゃないんだけどなー。なんでも俺に言いつけやがる」

「猫の婆だろ」

「ピンポーン」

「ぴん、ぽん?」

「当たりってことさ、大正解。狸姐様も行く?」

 表へ? と聞かれたので、裏へ、とおどけて見せた。狸は少し考えた顔をしてから、首を横に振る。兎にでも会うと嫌だから、と本当に嫌そうな顔をした。

無理強いしても仕方ない。ついて来られたって、それはそれで困る。

 急いで直してここに戻るよ、と言うと、彼女は表情をがらりと変えて嬉しそうな顔をする。まるで、蕾だった花が明るくあたたかな場所で完全に開き切るように。


 4


 猫婆と呼ばれる小さな老婆は、いつでも朱色の羽織を羽織って背を丸め、なにかをくちゃくちゃと口に入れている。上まぶたがふっくらとしていて、口元にはしわを寄せて、なるほど日向ぼっこでもしている猫によく似ている。長く伸びた尻尾は白と茶色と黒のまだらで、多分三毛猫なのだろう。

「馬。おおい、馬。水汲んだらこっちで座布団を運べい」

 この婆がまた、人使いが荒い。

 涼介が若い男なのをこれ幸いとして、用事をほいほいと言いつける。

 日中の雑用はもちろん、狐達が座敷に出ている夜の間も、涼介は大抵猫婆に指示されて、なんやかんやと働かされていた。酒をこぼされた着物の代わりを部屋へと届けたり、尻を触られたと泣く女達を慰めたり。慰めると言っても上手いことが言える訳ではないので、もっぱら涼介は愚痴を聞かされているだけだったが。

「おおい、馬!」

「聞こえてるよ、聞こえてます! 座布団だろ? なんだよ、客用かよ、猫婆様の座布団かよ」

「おいの座布団運んでどうする、ああでもお日様に当てといてくれや。ふかふかになるで」

「猫婆様が座ったら、あっという間にまたぺっちゃんこじゃん」

「なにをお、この馬!」

 いつでも持っている杖を振り回して怒るので、涼介は笑いながら慌てて逃げる。涼介が馬だというので、力があると思っているのだろうか、杖は振り回すだけで実際殴りかかってきたりはしないのだが。

 猫婆はここで一番古いということだった。

 狐よりもっともっと古い。ここの女達をまとめ、客をさばく責任者のような存在。そんな猫婆には生きている人間だということがばれてしまうのではないかとビクビクしていたけれど、年寄りだから鼻が悪いんだよ、と狐は笑うばかりだ。確かに猫婆は、涼介のことを本当に死人だと思っているようだった。

「まったく、主様もなんでまた男なんか死人にして」

「男なんかって言うなよ、傷付くじゃん。しかもこれ幸いとこき使ってるくせに」

「うるさい、傷付くって玉かい、あんたが。しかしまあ、あんた本当に馬らしくないね、顔も別に長くないし。そういや尾もないじゃないか」

「隠してあるんだよ」

「はん、じゃあ見せてごらん」

「やだよ、エッチ」

「『えっち』?」

「なんでもないなんでもない。猫婆様さ、主様ってなんなの?」

 奥から座布団を運んできて、縁側に並べる。部屋によって座布団の色は違うらしく、青紫、赤紫、緑、青に赤にと虹のように縁側は色とりどりに埋まる。

「主様は主様だろうが、あんたも主様に連れてこられたんだろうが」

「いや、俺は裏の井戸のところに落ちてたっていうか、狐姐様に拾われたっていうか」

「捨て子じゃあるまいし、主様も間違ってあんたを作って捨てたんかね」

「傷付くなぁ、間違っただの捨てられただのって」

 猫婆の朱色の座布団を一番日当たりのいいところへ運ぶと、涼介はお茶をいれてくる。猫婆は日向ぼっこをしながら、茶を飲むのが好きだからだ。

「主様はここを作ったお方さ。滅多に顔を出さないがね。ここの女達もみな主様が連れてくる。おいもあの人が作ったんだろうさ、いろいろとは覚えてないがね」

 主様の顔は誰も知らない、と猫婆は言う。

 見る人によって、まったく違う顔をしているというのだ。それは顔を持っていないのと同じことだし、誰も知らないのと同じだと。

「……猫婆には、どんな顔に見えるの?」

「おいに? おいには、そうだな、おいの父ちゃんの顔に見えるよ。って、もう随分昔の昔の昔の話だから、覚えてるのかも分からんけどね。馬はどうだい」

「主様って人、会ったことないし」

「会ったことないなんてことはないだろう、あんた本当に捨て子かい」

「や、ややや。んと、まあ、覚えがない、かな、ははははは」

「馬は頭が悪そうな顔してるもんなあ」

「し、失礼な婆だな……」

 狐が呼ぶ声がした。

 ボロが出る前に逃げてしまおうと、これ幸いに涼介は猫婆へと作り笑いをする。

「呼ばれたから行ってくるよ」

「後で座布団取り込みに来ておくれ」

「はいはい」

「返事は一度!」

「はいよ!」

「『よ』は余計だろうが!」

 杖で床をぴしゃりと叩き、猫婆が短く吠えた。くくく、と喉の奥で笑いながら、涼介は飛び上がって駆け出す。

「廊下を走るな、この駄馬がっ!」

「わはははは、悪かったよ、駄馬で!」

 叫び返して角を曲がる、そこにいたのは涼しい顔をした少女だった。

「う、兎姐様、」

 フリルのひらひらと賑やかな、白と水色のドレスを着ている。立ち襟を飾るリボンの、そこからほんの少しだけ覗く細い首。十三、四歳くらいの外見をしている、兎だけがこの娼館で着物ではなく、洋装をしている。デコラティブな、ゴシックロリータを思わせるひらひらでふわふわな装い。

 黒目がちな目はくっきりと開かれ、勝気そうな鼻が少しだけ上を向いている。小さな唇に、細い手足。けれどか弱そうに見えるのは見掛けだけで、狸の顔に引っかき傷を残したのは他ならないこの兎なのだ。

「似ていたであろう、狐の真似は」

「兎姐様、でしたか」

「猫婆に捕まってたようだったからの、助けようかと思うて」

 余計だっただろうか、と兎は小首をかしげる。鳥の羽で組んだ扇子で口元を隠しながら。

「余計じゃないです、ありがたかった、です」

「馬」

「はい」

「茶を持て」

「紅茶、で?」

「それ以外飲まぬ、日本茶など渋いだけじゃ」

 細い眉を寄せると、鼻の頭にもしわが寄った。けれどそれは兎を醜く見せたりはしない。かといって可愛らしくなるわけでもなく、外見はまだ発育途中でありながら、どこまでも完成されたひとつの美しさのように見える。人であるとか、そういった枠を超えて。

 肩までの黒髪はストレートで、しばっても紐やゴムはすべり落ちてしまいそうだった。つやつやの綺麗な髪。できるならわずかでいいから手にとって、そっと鼻を近付けたくなる。

「ジャムを勝手場から盗んできましょうか」

「じゃむ……? ああ、果実煮は部屋にあるから良い。仏蘭西菓子もあるぞ、馬も食うか」

「俺は……」

「付き合え」

 兎のきっぱりとした口調に苦笑しながら、涼介は苦笑する。そのくせつい頷いてしまう。了解しました、の意味で。

 涼介のことを、狐と狸以外は馬と呼んだ。他の死人のように。狸は狐を敬愛しているので、それに習っているだけだ。なので、本当に涼介のことを名で呼ぶのは、狐だけなのかもしれない。

「先に部屋へ戻ります?」

「いい、ここで待つ。馬、茶の用意を」

「ちょっと時間がかかりますよ」

「いい」

「じゃあ、気が変わったら先に部屋へ戻っててくださいね、俺のことは放っといていいですから」

 こくりと兎は頷いた。

 兎の前でもなんだかかしこまった言葉遣いになってしまう。兎の威圧感のせいだろうか。怖いというのではないけれど、なんだか言うことを聞かないといけない気になってしまうのだ。彼女はここで一番の新人らしいが、まったくそんな雰囲気はなかった。下手な古参よりよほど堂々としていて、媚びたところがない。

 勝手場で紅茶を淹れて運ぶ。ティーパックなどはもちろんないので、紅茶は急須で淹れるのだが、専用のものがある。一度日本茶を淹れる急須を使ったらひどく怒られた。嫌な匂いがすると。

 白いレースのようなティーカップ。

 注がれた明るい茶色をした飲み物。

 廊下に戻ると兎の姿は消えていた。待つとは言ったものの、時間を持て余したのだろう。そういう人なので、涼介は小さく苦笑する。性格がはっきりしている、といえば聞こえがいいが、幼い子のように我儘なのだ。

 兎の部屋は畳敷きではなく、毛足の長い絨毯が敷かれている。猫足のテーブルと椅子。障子ではなくガラスのはめられた窓にはやわらかなクリーム色のカーテン。

 ここだけが娼館の中ではないような顔をしている。

 窓の外には、他の部屋と同じ木々、池、花々の庭が広がっていたとしても。

「兎姐様」

 重たい木の扉をノックする。

 一度、二度、三度。

 コンコン、だけだとトイレのノックだと怒られた。兎は礼儀に厳しい。

「入れ」

 言われて中に入ると、兎は横文字の洋書を広げていた。英語ではなさそうだ、見かけない文字が混ざっている。

「兎姐様は、姐様ってより姫様って感じですよね」

「姫、か」

 鼻で笑うと兎は涼介に座るよう促す。

 ベッドこそないものの、女の子らしい部屋に涼介は鹿乃を思う。あいつの部屋は、どこかかしこかにぬいぐるみが顔を出していた。

なんとなく続けてしまったので、今更止められなくなってしまった誕生日のプレゼント交換。毎年なにをあげていいか分からずに迷った挙句ぬいぐるみになって。クマやウサギやアヒル、ブタなんかの。大きなものも小さなものも、鹿乃は喜んですべてに名前をつけ、ベッドだの本棚の上だのと居場所を与えた。

 兎の、やわらかそうな白く長い耳が揺れる。毛糸玉を思わせるふわりとした毛並み。それは、涼介に鹿乃のぬいぐるみを思い出させる。ぎんうさ、と名前のつけられた、去年の誕生日プレゼント。抱きしめるのにちょうどいい大きさだからと、そいつの指定席はベッドの、さらに鹿乃の腕の中というもので。

「……アンゴラウサギ」

「あんご……ら……? なんだ馬、私のことか?」

「ああ、そういう名前のウサギがいるんですよ、あの、兎姐様のことじゃないですよ、兎姐様はもっとしゅっとしてるっていうか、どっちかっていうとミニウサギだっけ、ああいった感じの……バニーちゃんって感じじゃないしな、ゴスロリだから」

「ば、ばにい? ごすろり?」

 冷たく静かな表情の兎も、さすがに聞き慣れない単語に戸惑ったらしい。

 それが気に入らなかったようで、兎は鼻を鳴らす。綺麗な顔をしているのに行儀が悪くて、それがまたアンバランスに人を惹きつける。

綺麗な子なのだ。

「馬、付き合え」

「えー、またチェスですか、俺ルール知らないんだよな」

「それくらい早う覚えろ、使えない奴め」

「将棋すらルールよく知らないんだから、無理ですってば」

 ここには解説本もなにもないのだから。

「私が教える」

「兎姐様厳しいから嫌だ」

「馬の覚えが悪いからだろうが」

 兎は言って、テーブルにチェス板を出した。キング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト、ボーン、と駒をひとつずつ並べながら兎はチェス板を埋めていたが、突然動きを止めた。

「兎姐様?」

「……やめたやめた。気分でなくなった」

「俺のせい、ですか」

「どうして」

 チェスの駒を小さな手でひとつずつ握り締めて倒す。そうかと思うと人差し指と親指でひとつずつつまんで、絨毯の上に落とした。

 気まぐれで我儘な少女そのものの視線は強く、あれがレーザー光線だったら俺は焼かれて死んでるな、と涼介は思う。

「やめた」

「いいですよ、やりますよ、教えてくれれば頑張って覚えるから」

「もういい、気分でなくなった。馬、」

「なんですか」

「お前の名は、なんという?」

「馬、でしょう?」

 違う、といらついて棘の生えた声が飛び出して転がる。驚いて涼介は兎の顔をまじまじと見詰めた。真っ黒な瞳が、揺らぐことなく涼介の目を射抜く。

「違う、お前の本当の名だ」

「……な、なんのことですか、本当の名前って、」

「狐は知っておろう? 狸は知っておろう? あやつ等は馬を違う名で呼ぶ。馬はいつでも狐の匂いをさせておる。お前は狐のものなのか? 私には本当の名を明かせぬのか?」

「どうしたんですか、兎姐様、本当の名前なんてここの人達は誰も持っていないでしょう?」

 本当の名前は、もうとうに忘れた、と。狐の声が耳奥で眠りから覚める。

 とぼける涼介に、兎は鋭いまなざしを向けた。

 ずっと、ずっと生きていて、死人と呼ばれながら何度も何度もの昇る陽と沈む月を眺めて生きていて、自分がどこの誰だったのかどう暮らしていたのかも忘れてゆくくらい長い時間を漂って、それでもただひとつ忘れられないのは恋した男の名前だけなのだと。

 それが死人となっても、女という生き物なのだと。

 兎は。

 兎には。

「……私は恋も知らぬまま死人になった、私には呼ぶ名がない。自分の名前ももう忘れた。私は兎じゃ、他の何者でもない、兎。こんな耳と尾を持つのだから、生きていた頃の名の女はもうどこにもいない。お前は死人となってから間もないのだろう? まだ名があるのだろう? 馬、お前は誰か呼ぶ名があるのか?」

 弱音、のようなものを吐きながらも、揺らがない瞳。視線。

「……兎姐様、淋しいんだろ?」

「な、なにを……、」

 はじめて光が弱まった目に、涼介は微笑む。

 俺の呼ぶ名前。それは鹿乃の名前だろう。

 鹿乃は魂を抜かれる瞬間に、誰の名前を呼んだのだろう。母親? 神様? それとも。

 俺の名前を、呼んだんだろうか。

 涼介、と。

「ほら、その目をするな」

「え、なに? 俺、なんか変な目付きだった? エロかった?」

「え、えろ……? お前の言葉は時々分からん、でもその目をするな、誰かを思い出しているような顔をするな、私がいるのに違う者を思うな、私の前で!」

 恋をする、少女の眼差し。

 想いが成就するとかしないとか、そういったことはひとまず違う次元の話で、ただ純粋に恋をしている、そんな少女の真っ直ぐな。視線。

 恋。

 誰が。

 兎が。

 誰に。

 涼介に。

 どうして?

 どうしてだろう。

「え、俺?」

「私の前で、狐の匂いをさせるな」

 そう言われても困る。狐に匂いをつけてもらわないと、生きている人間だということがばれてしまう。生きている人間の魂を食えば死ぬことができると言っていた、ここにいる女達はみんな死ぬことを願っていると。死にたい、というより、永遠に続く死人としての日々ではなく、一度区切りをつけたその先を。きっと夢見ている。

 愛しい男が生まれ変わって待っているかもしれない、次の世界を。

「俺は狐姐様に拾われただけだし。別に、狐姐様のものってわけじゃないから、」

「ならば私が先に拾えば、馬は私のものだったか?」

「先に拾うとかって、俺、物じゃないし」

 茶化してみたかったのに、兎の瞳は潤んだものの光を消したりはしない。

 真っ直ぐ。

 ただ、真っ直ぐ。

「まいったな……」

 女の子に好かれたことって実はないんだよな、と涼介は苦笑する。いつでも鹿乃と一緒にいたからだろうか。告白されたこともないし、騒がれたこともない。

 下駄箱にラブレター、だとか、体育館の裏に呼び出し、だとか、そんなことは一度も経験したことがない。

「って、俺、今告られてんの……? って、まさかな、ははは」

「なにをひとりごちる」

「勘違いしてるだけだと思うよ、兎姐様は」

「なにをじゃ」

「あのさ、ここには俺しか男がいないじゃん? あとは死人って女の人ばっかりだからさ、多分異性ってのが珍しくて、俺のこと好きになっちゃった気がしてるだけだと思うよ、兎姐様は」

「誰が馬を好いたと言った!」

「げ、お、俺が勘違い野郎? うわっ、まいったな、恥ずかしい……恥ずかしい! やっちまった!」

「馬!」

「はい!」

「私を、抱け」

「はいはい、仰せのままに、って、はいいいいい?」

 声が裏返る。

 けれど兎はお構いなしで燃えるような視線を涼介に固定し続けている。

「だ、抱け? お、俺そういう経験ない、し、って、ちょっ、えええええ?」

「早う!」

 兎が両腕をまっすぐに伸ばした。

 抱くって抱きしめるってことか、と涼介は自分の勘違いに赤くなったが、それでも女子を抱きしめたことなんて今までに一度もない。鹿乃だって、手を握ったことがあるくらいだ。狐に抱きしめられるのは、自分からではないのでカウントしないとしても。

「ちょっ、ちょっと待てって、そういうのはなんていうかこう、好き合ってる同士がって、ちょっ、ええええええっ、」

「動揺するな男が、見苦しい。それとも私では不満か、こんな幼い身体ではつまらなくて抱けないと言うか」

「そ、そんなことない、です、そんなことないけどさ、でもそんなのって、」

「ごちゃごちゃ言うな!」

「は、はい!」

 怒鳴られながら女の子を抱きしめるってどうなんだろう。しかも見た目は自分より年下の女の子に。

 それでも相手の剣幕に気圧されて、涼介は差し出された両腕の中に飛び込む形になる。やばいやばい俺が抱きしめられてどうする、と慌てて体勢を変えて、ぎゅっと兎を抱きしめた。

 細い肩。

 細い腕。

 細い首。

「う、ま……」

 ほんの少し力を込めただけなのに、折れてしまいそうになる繊細な身体。低い体温。吐息が涼介の耳をくすぐる。強い視線に惑わされて力加減を間違えていた。兎はこんなにも脆いのに。

「ご、ごめん、痛かっ……た?」

 ふるりと兎の髪が揺れた。腕の中で、首を横に振っているのだった。

「お前の、身体は、熱い……」

「あっ、」

 死人でないことがばれてしまうだろうか。慌てたものの、兎は涼介の背に回した指に力を入れた。

「死人になったばかりだからか? なあ馬。私に爪があればお前の背に傷を残すのに。私のものだと印をつけるのに」

 見上げられた瞳にくらくらする。

 服の上からそっと、兎は指先に力を込める。

 彼女の髪は、深い水の匂いがした。太陽の届かない、深いところにある静かな静かな水の匂い。

「なあ、……くちづけてもいいのだぞ」

「く、くちづけ?」

 キスのことだと分かるのに時間がかかった。

 キス。

 キス?

「な、なに言ってんの、兎姐様!」

 キス?  

 キスって、唇と唇がくっつく、あれ?

「お、俺今不埒なこと考えてる! そ、そんな誘惑しないでくれ、兎姐様!」

「誘惑? 私はして欲しいことを口にしたまでだ」

 キスする?

 兎と?

 あの、赤い唇に自分の唇を? 重ねる?

 それは俺にとってのファーストキスになるのでは、と思ったら顔がかっかと燃えるように熱くなった。ちょっと待ってちょっと待って、そういうのってこんないきなりチャンスがきていいのか、チャンスっていうか、キスしてしまったとして、それだけで済むんだろうか。

「きゃーっ、俺、ふ、不埒すぎる、ど、どうしようっ!」

「馬……お前ひとりでなにを騒ぐか……」

 言いながら兎は涼介の腕の中で目を閉じてしまった。長いまつげが、頬に影を落とす。

 心の中でひどく葛藤しながら、ものすごく長い時間が流れたように感じられた。涼介は何度か深呼吸をして、息を整える。

 そして、そっと兎を自分から引き剥がした。

「……馬?」

 兎のまぶたが、上がり切る前に。

 そっと、唇を彼女の額に押し当てる。

 鹿乃の顔がちらついて、奇妙な罪悪感があった。恋人同士でもないのに。

 それで慌てて唇を離すと、誤魔化すように兎の髪を撫でてみる。ゆっくりと。上から下へ。上から、下へ。

「……くちづけてもいいとか、簡単に言っちゃいけません」

「馬……」

 離した腕の中の、喪失感が大きくて戸惑う。一度抱きしめてしまったからなのか、兎がいつもよりひと周りもふた周りも小さく見えた。髪を撫でていた指が、自然と下りて彼女の頬を撫でる。

 どこかで、涼介を呼ぶ声がした。

「あ、やばい、猫婆だ。あ、座布団そのまんまだ!」

「馬、」

「ちょっと座布団片付けてきます、そしたらまた来ますから。チェスの駒片付けに」

 慌てて引き剥がした指先の、妙にすうすうする感覚。

「また、来る?」

 兎の、幼くなってしまった声が耳に届いて涼介を揺らす。俺がこの子を、こんなに弱い存在に変えたのかという驚きと、それもただの勘違いだろうという自嘲と。

「座布団片付けたら」

「馬、」

 兎の腕が伸びて、涼介を捕まえようとしたけれど届かなかった。

 淋しそうな顔になった彼女に、してあげられること。

「俺の名前は涼介ですよ、兎姐様」

「りょうすけ……」

 大きく頷いてやると、兎の瞳に明るさが戻る。約束、小指を立てて見せて、涼介は呼ばれた猫婆の声を辿るため部屋を出た。指きりげんまんなんて知らないのかもしれない、兎は自分も小指を立てながら不思議そうな顔をしていたけれど、涼介が微笑んだのを見て、約束、と一緒に目を細めた。

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