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第二十回電撃文庫大賞三次選考通過作品です。


 1


 鹿乃の魂が抜かれる瞬間を見ていなかったのは涼介の不覚だったが、その直後には間に合って大声を出したのは褒められるべきことだった。

「鹿乃!」

 膝よりほんの少し下の、野暮ったさが滲み出てしまっている丈のプリーツスカートが風をはらんで大きく膨らむ。濃紺の制服は可愛さよりも高校生らしさを前面に押し出していて、けれど翻ったスカートからこぼれて見えた鹿乃の太ももの白さは、どこか成熟寸前の桃を思わせた。白く、硬く、けれど甘い香りを今にも放ちそうな。

 放課後の第二校舎。

 今は使われていない焼却炉を裏に隠しているその建物には、移動教室と呼ばれる理科室や美術室、音楽室や家庭科室、技術室などが配置されている。

 テストを一週間後に控え、全部活は活動自粛となっていたので、合唱部も吹奏楽部も美術部も、誰もそれぞれの部屋を使用できず、誰もいないはずだった。涼介がその第二校舎にいたのは、理科教諭の担任から準備室に日誌を置き忘れてきたので取りに行け、と言われていたからだった。たまたま、涼介が日直当番だっただけに過ぎない。 

 そして、理科室のある一階の窓から、ふと焼却炉を目にしたのも。

 長年使われて焦げ付き、雨風に直接晒されているそれは不気味に赤茶けて黒ずんで、昔女子生徒が誰にも言えずに産んだ子を焼いただとか、いじめられっ子が隠れていたら知ってか知らずか火をつけられて大やけどを負わされたことがあるだとか、そんな気味の悪い噂ばかりを押し付けられている。うっかり目にするとそんな噂ばかりが思い出されるので、涼介ならずともほとんどの生徒が理科室へ行く時は窓の外に目を向けないようにと無意識に足早になるのだったが、その時はなぜか窓の外が気になった。

 準備室から持ってきた日誌を小脇に抱えて。

 涼介は窓の外に目を向ける。

 そこで、幼馴染みの鹿乃がゆっくりと倒れる形になっているのを、目にしたのだった。

「鹿乃!」

 日誌を放り出して窓を開ける。鍵がなかなか解除されなくて焦ったせいで、爪が割れたような痛みが指先に走った。

「鹿乃!」

 やっと開いた窓の、桟に手をかけて飛び上がり、外に出る。

 突如、強い風が吹いて第二校舎をぐるりと取り囲むようにそびえ立つ、何本ものヒマラヤ杉がばさばさと音を立てて揺れた。着地でバランスを崩しながらも、涼介は鹿乃に駆け寄り彼女を抱き起こす。と、耳にうるさく騒ぎ続けるヒマラヤ杉を見上げた。

 人のような影が。

 走る。

「……なんだ、あれ」

 男か女かも判断はつかない。ただ、黒っぽい、人の形をしているというだけのもの。しかしそれは、涼介が自分に気付いたことが分かったようだった。一瞬動きが止まって、こちらを見ている、そんな気配がある。

 涼介はよく見ようと目を細めた。その瞬間、吹き続いていた風がさらに強まり、涼介のブレザーの裾を、鹿乃のスカートを、べらりとめくろうとする。

「わっ、」

 慌ててスカートの方へ手を伸ばし、涼介は鹿乃の脚が露わになるのを防ぐ。そのために人影に見えるものから一瞬目を離した。それで、再び見上げた次の瞬間にはもう、それはどこかへ掻き消えてしまっていて見えなくなっていた。

「なんだったんだ……って、鹿乃、鹿乃!」

 涼介が手の中の幼馴染みに声をかける。

 こいつの腕はこんなに細かっただろうか。

 こいつの肩はこんなに小さかっただろうか。

 こいつの肌はこんなに白かっただろうか。

 長いまつげのまぶたはしっかりと閉じられて、頬に黒く静かな影を落としている。

 肩までのストレートな髪が、さらりと風に揺れている。

 鹿乃の意識は、どこにあるのか。

「鹿乃!」

 涼介の声は、彼女の形のいい耳に、どうやら届いていないらしい。


 幼い頃、じいちゃんのしてくれる終わりのなかなかこない話が好きだった。 

 そこら中線香の匂いがするじいちゃんの家は、鹿乃と涼介の家から子供の足でも二十歩くらいのところにあって、じいちゃんは古ぼけた平屋にひとりで住んでいた。

「鹿乃は大きくなったら美人さんになるからな」

 じいちゃんはビー玉みたいに澄んだ目をしていた。黒目がちで、奥が覗き込めるようでいて、なにかを探ることはさせない目。歯は何本か欠けていて、頭は白い髪がところどころに残っているだけで禿げていた。その代わり、長くやわらかな白い口ひげを伸ばしていた。

「涼介は鹿乃が人買いにさらわれないように見張ってなきゃいかん」

 じいちゃんの家は一年中コタツが置かれていて、その上には冬になればミカンが、夏ならなんらかのお菓子が置かれていた。オブラートで包まれた、緑やピンクの色をした硬いゼリー菓子や、ゆずの餡子が入った最中や、栗饅頭みたいなもの。

「人買いってなに?」

「それって怖いの?」

 まだ小学生の低学年だったふたりが口々に聞く。

 じいちゃんの家には四歳頃からふたりで遊びに行っていた。どちらかの祖父というわけではなく、ただ近所に住むひとり暮らしのじいさんなだけだったが、涼介の両親も鹿乃の両親も共働きで、じいさんは公認の保護者のように扱われていた節がある。 

「怖いさ、怖い、人を連れて行ってしまうんだからな。連れて行かれたらまず戻ってこられない。でもな、人買いも怖いが、それはひとりでは現れないんだ。必ずその前に魂抜きがくる」

「たまぬき?」

「魂を抜きにきて、そいつに魂を抜かれると人間は身体って入れ物だけが残る。それを人買いがさらいに来るって話だ」

 いやだ怖い、と鹿乃が隣にいる涼介の腕にぎゅっとしがみつく。

 涼介と鹿乃は生まれたときからの幼馴染みだ。誕生日は三日しか変わらず、母親達が分娩した病院も同じで、同じ病室に入院していた。 

 白い肌に、真っ黒な目はくっきりとした二重で大きく、唇は甘いさくらんぼのように真っ赤な鹿乃は、幼い頃からしっかりとした顔立ちでどこか子供っぽくなかった。癖のつきにくい、さらさらとした髪はいつでも花のような香りがしていて。幼心にも、涼介は鹿乃は守られる側、自分は守る側なのだと感じていた。

 そんな幼馴染み。

 鹿乃の大人びた美しさが目立ってしまうので、どうしても涼介は顔立ちで褒められることは少なかったが、彼にしたってすっきりとした奥二重の切れ長な目だとか、薄く知的な唇、意志の強そうな顎のラインなど、悪い顔ではなかった。

「人買いは、魂が抜けた人をさらってどうするのさ?」

「さあ、飾っておくんじゃないかね」

「嘘だ」

「ほ、どうして涼介は嘘だと思う?」

「飾っておくなら人形でいいじゃないか、人は死んだら腐るんだ」

「腐る。誰が言った?」

「おばあちゃんが死んだ時、親戚のおじちゃんが言った」

 涼介はばあちゃんの葬式に行ったのか、とじいちゃんが目を細める。涼介は力強く頷いた。去年のことだからまだはっきり覚えている。いつもは泣いたりしない父親が目を真っ赤にしていたことも、母親が慌ただしく動いていたことも、菊の花ばかりで埋まった和室も、渦巻型の線香の煙が絶やされず充満した空気も、黒い服の人々が入れ替わり立ち替わり、影のように出入りしていたことも。

 焼き場の造花が淋しげに飾られていたことも、祖母の骨がうっすらとピンク色をしていたことも。病気して長いこと薬飲んでたから、とつぶやいた誰かの声も。静かにしていてね、と子供達に渡された、アルファベットの書かれた四角いチョコレートも。みんな、記憶に残っている。

「魂抜きが魂を抜いて、人買いがさらったその人間は腐らないよ。逆だ、ずっと生きることになる」

「どうして?」

 恐る恐る訪ねた、鹿乃の小さな声。

「魂の抜けたところに、他の動物の魂を入れてしまうからさ。それはもう、人間の形をした別のものになって、そして死ななくなる」

「死なない?」

「死ねない、かもしれんがね」

「死なないのってすごいじゃん、無敵じゃん!」

 涼介は興奮して騒いだが、じいちゃんはそっと首を横に振った。

「死ねるから人間だ、死ねないのはただの化け物だ」

「でも人間の形してるんでしょ? 化け物じゃないじゃん」

 化け物っていうのは、お化けみたいなやつだ。アニメや映画に出てくる、巨大で恐ろしい異形のものだ。涼介はそんなようなことを言ったけれど、じいちゃんは首を横に振り続けるばかりだった。

「魂を抜かれないようにしないといけない、そして人買いに会わないようにしないといけない」

「もしも魂を抜かれたら?」

「すぐに身体を隠すんだ。隠して、人買いに見つからないようにしなきゃならん」

「隠したって、魂は抜かれたまんまなんだろ? 腐るじゃん」

 腐らない、とじいちゃんは微かに笑う。

「正しくないやり方で魂が抜かれた身体は腐らん、ただそのままでは死んでるのと同じだからな」

「どうすればいいの?」

「人買いが現れるのを待って、その後ろをこっそりついて行くんだよ。どこに行くのかは知らない、この世の中ではないかもしれない、でもそこには抜かれた魂があるはずだから、それを大事に持ち帰るんだ」

「持ち帰ってどうするの?」

「涼介はどうしてどうしての聞きたがり小僧だな」

「だって聞きたいもん、どうするの? 魂を持って帰って」

「魂と身体は引き合って、元に戻る。本当の寿命まで、生きることになる」

 じいちゃんは誰かの魂を戻してあげたことがあるの? と鹿乃が聞いたけれど、その答えは微笑みだけで言葉にはしてもらえなかった。

「鹿乃が魂抜かれたら、俺が取り戻してやるぜ」

 いいところが見せたくて、涼介はどんっと胸を叩く。

「本当? でも涼ちゃんが魂抜かれたら、鹿乃はどうすればいいんだろ」

「そしたら鹿乃が俺の魂取り戻してくれよ」

「できるかな」

「できるさ、でも俺なら魂なんか抜かれないね! 魂抜きなんか、やっつけちゃうもんね! 人買いなんか蹴飛ばしちゃうもんね!」

 涼ちゃんは強いもんね、と鹿乃が笑う。

 じいちゃんも笑っていた。涼介は強いから大丈夫か、と、歯の欠けた顔をほころばせて。


 そんなことを、思い出していた。

 幼い頃の記憶。

 それが、一度に頭の中で爆発するように広がる。腕に抱いた鹿乃は、みるみるうちに体温を失いはじめた。涼介は慌てるが、なにもできない。せいぜい、彼女を抱く腕に力を入れられるだけだ。

 さっきヒマラヤ杉を揺らした影。あれはきっと、魂抜きだ。そう考えれば、鹿乃が突然意識を失い、体温を下げている状態なのも頷ける。

 でもまさか。

 そんな、あれはただの作り話。

 おとぎ話の類だろう、こんな現代になんでそんなことが、と思ってしまう気持ちが涼介を揺らす。

 なんの疑いもなく信じろというのが難しい。

 けれど。

「くそっ、」

 吐き捨てて涼介は鹿乃を抱き上げた。もしもじいちゃんの話が本当なら、この後すぐに人買いが現れるはずだ。そいつにこっそりついて行って、鹿乃の魂を取り戻さなくてはならない。

 鹿乃をとりあえず保健室に運んだ。部活動があれば養護の先生もある程度の時間までは残っているはずだが、さすがにテスト期間前は帰ってしまうらしい。誰もいなかったが、鍵はかけられていなかった。ベッドに彼女を横たえて、靴を脱がせて薄い布団を顎の下まで隠れるようにかける。

 そっと口元に耳を近付けると、ごくゆっくりと、静かに吐かれる息の音が聞こえた。

 死んでいるわけではない。

 そのことが、涼介を安心させる。

「待ってろ、魂取り戻してくるから」

 涼介は鹿乃に向けて小さな声で言うと、静かに焼却炉へと駆け出した。

 じいちゃんの声が耳の奥で甦る。

『涼介は鹿乃が人買いにさらわれないように見張ってなきゃいかん』

 魂抜きに、とは言わなかった。先に魂が抜かれてから、人買いが現れるというのに。じいちゃんは鹿乃がいつか魂抜きに出会ってしまうことを、知っていたんだろうか。

 じいちゃん。

 歯の欠けた口を大きく横に広げて、笑っていた顔を思い出す。

 じいちゃん、本当に人買いは現れるのか? 俺は気付かれずにそいつの後をつけて行けるのか? 鹿乃の魂を、無事に取り戻せるのか?

 聞いてみたいけれど、もう聞けない。

 じいちゃんは涼介と鹿乃が中学に上がった年に、いなくなってしまった。住んでいた大きな平屋が燃えたのだ。二月のしんしんと雪が降る夜だった。火が回るといけないからと、近所の人達は一時みんな非難させられたのだけれど、火の手はじいちゃんの家だけを綺麗に舐めつくして消えた。ほんの少しの飛び火もなかった。

 そして、じいちゃんはそのままいなくなってしまった。それらしき骨も何も、見つからないまま。あの家で燃えてしまったのか、それともどこかへ行っている間に火事が起きてしまい、帰ってこられなくなっているのかは分からない。ただただ、涼介達の前から、じいちゃんがいなくなってしまったという事実だけがあった。

 じいちゃん。

 涼介は焦げ付いて錆びついた焼却炉の後ろに身を寄せた。

 人買いなんて本当に現れるのか?

 大体、人買いの姿かたちすら知らないのに、自分には分かるのだろうか。

 じいちゃん。

 涼介は心の中でじいちゃんを何度も呼んだ。生きているのか死んでいるのかも分からないけれど、じいちゃん、俺に鹿乃の魂が無事に取り戻せるよう、力を貸してくれよ。

 じいちゃん。

 鹿乃。

 涼介は焼却炉の影で息をひそめる。

 風がまた強くなってきていた。耳を千切りそうな勢いで、びょおびょおと唸り声そのものに風が荒れている。ああ、来るんだ、と。涼介は別段勘が良いわけでもないけれど、はっきりと感じていた。長袖のブレザーの下、腕にぶわっと鳥肌が立つのが分かった。腰から上に向かって、背筋をぞわぞわと冷たいものが這い上がっていく。

 来る。

 なにか、良くないものが。

「……マジかよ、」

 霊感なんてあったことがない、怖い話もどちらかといえば鼻で笑ってきた、幽霊とかお化けとか異形のものとか、信じたことはほとんどない。神様すら信じていない。

 なのに、自分の身体が、肌が、嫌なものをずっと感じ続けている。

 全身に鳥肌を立てながら、その嫌なものこそが鹿乃を狙っているものなのだと知りはじめている。

 猫だったら、きっと逆毛を立てて唸っているだろう。

 猫でないから鳥肌が立つのか、と涼介はいつの間にか握りしめ、汗で濡れていた自分の手を見た。

 空が急に暗くなっている。真っ黒い雲が渦を巻くようにして、空を灰色に染めている。風が強すぎるので、涼介の足元をなにやらいろいろなものが転がっていく。パンの空き袋だとか、草の根の固まったものだとか、千切れた紙だとか。

 びゅうおっ、と鋭く吠える風が吹いた。

 涼介は思わず目をぎゅっとつぶり、恐る恐るまた開ける。

 黒い雲と同じ黒さで、灰色の空と同じ禍々しさで、人の形のようなものが近付いてくるのを、彼は目にしないわけにいかなかった。


 2


 明るい茶色の、ふっさりとしたものが揺れている。

 おいで、おいで、おいで。

 そうか呼ばれているのか、と涼介はぼんやりと思った。先にいくほどに色が抜けて、白っぽくなっている。

 揺れて、揺れて、揺れて。

 尻尾のようだ、昔飼っていた柴犬。名前はなんだったっけ、メスだったのにオスのような名前で呼んでいた記憶がある。そうだ、賢太郎。賢太郎だ、頭のいい犬だった。柴犬は頭が良いと聞かされて、それでオスもメスも関係なく父親が賢太郎と付けたと聞いたんだった。

「けんた……ろ……?」

「どこから迷い込んできたんだい、お前さん」

 女の声だった。耳触りのよい、やわらかな低い声。蜜を混ぜたように、とろりと甘い声。

「けんたろうとやらをお探しかい、生憎だけどここにはいないねえ」

 涼介はぼんやりとした視界から曇りを取ろうと、首をぶんぶんと振った。賢太郎がいくらメスだからといって、女の声でしゃべるわけがない。そもそも、自分が産まれる前から家にいたあの賢い柴犬は、随分前に死んでしまっている。

 頭を随分と振ってから、涼介は自分がなにかに寄りかかっていることに気付いた。寄りかかって、座り込んでいる。

「……ここは?」

「ちょいと、困ったね」

 目の前にいたのは艶やかな着物姿の女。真っ赤な牡丹の花が描かれた金色の着物に、結い上げた髪には銀のかんざしを差している。

「こんなところで寝ちまったら、うっかり井戸に落ちるよ。直に水汲みが来るからね、お前さん、」

 言われて気付く、涼介は井戸の木枠にもたれかかるようにして気を失っていたのだった。

 女が首を伸ばして顔を突き出した。くん、と鼻を鳴らす。

 細くつり上がった目に、尖った鼻。赤く薄い唇。白い肌。多少きつい印象を受けるものの、かなり美人の類に入るだろう。首が長く見えるのは、実際にも長いのだろうけど着物の胸元が大きく開かれているからだった。襟が抜かれている状態なので、背中も広く見えている。そこから覗く、透き通る肌。

 女はくんくんと涼介に鼻を近付けてくる。

「お前さん、生きてる人間の匂いがするよ」

「……え?」

 生きてる人間、ってそんなの当たり前じゃないか、と思ったけれど、女の細い目がじっと見つめるので声が出なかった。笑みの形で細められているのに、どこか冷ややかな光に満ちている目だ。

「迷子かい」

「迷、子……」

「早くおかえり、お前さん生きている人間だろう。だってそういう匂いがするからね、あたしの鼻は利くんだよ。こんなところにいたら魂を取って食われちまうよ、迷い込んだんなら見逃してやる、ほらほら早くもうお帰り」

「魂……? 魂を食うって、魂抜きはあんたなのか? それとも人買いか?」

 あんた? と女は目をきゅっと細めた。

 つり上がっていた目はさらにつり上がり、呼吸までも凍らされそうな美しくも恐ろしい表情になる。薄い口が耳の近くまで引き延ばされたように見えた。小さく尖った歯が見える。

「あんた、ってあたしのことかい? 失礼な小僧だね、あたしが魂抜き? あたしが人買い? 馬鹿を言うんじゃないよ、あいつらなんかあたしの目の前に現れて御覧、八つ裂きにしてくれるから。この狐様をあんなのと一緒にしないでおくれ」

「ご、ごめんなさい……」

 女の剣幕に気押されて、涼介は慌てて謝った。多少恐怖を感じたせいか、自分でも驚くくらいの幼い声が出た。

 しかしそれが良かったのかもしれない。

 女は眉をほんの少しだけ動かしたかと思うと、あっという間に先ほどの穏やかな表情に戻ってしまった。

「お前さん、迷い込んだんじゃないのかい?」

「……幼馴染みが魂を抜かれて……人買いの後をついて行けば取り戻せるって聞いて……」

「人買いの後をついてきた?」

「人買いだったのか、なんだか真っ黒い人の大きさの影みたいな靄みたいなのがいたから、きっとこいつだと思ってついてったんだけど、そいつ焼却炉に飛び込みやがって。俺もちょっと迷ったけど、そのまま飛び込んだら、いつの間にかここに」

「幼馴染みが魂を抜かれたとね、はあん。幼馴染み、か。そいつはお前さんの大事な人かい?」

「大事……?」

 鹿乃が?

 大事な人?

 今までそんなことを考えたこともなかったので、涼介は戸惑う。鹿乃はいつでも一緒にいて、高校も当たり前のように同じところを受けた。どちらかの親が仕事で遅くなれば、もう片方の家でなんの遠慮もなく食事をしたりしていた。宿題が多かったら手分けして、勝手に相手のベッドへ潜り込んで寝ていたこともある。

 大事というより、お互いはいて当たり前だった。

 双子の兄妹みたいなものだ。

「お前さんの想い人かいって聞いているんだよ」

 美しい刺繍の施された袖で口元を隠し、女はそれでも確かに微笑んでいる気配を見せる。

「想い人とかっていうんじゃなくて、もう兄妹みたいな存在だから、」

「兄妹」

 女の声に甘さが混ざった。それはもうただの想い人じゃあなくてもっともっと大切で離れられないものだねえ、と言ったかと思うと、突然涼介に向かって手を伸ばしてきた。

 咄嗟のことで身動きできずにいると、そのまま抱きしめられた。

「えっ、あ?」

 頬に頬を重ねられ、擦り寄せられる。

 女は花のような匂いがした。甘くやわらかく香る、けれどもこの世のものではないような深く静かな花の香り。寄せられた頬は体温を失くしているかのように冷たく、涼介は息を飲む。抱きしめてくる女の腕は意外と力が強く、されるがままになってはいるものの、頬にはかっかと血が集まってしまって燃えるように熱かった。

「さすが生きてる人間、血が通ってるから熱い熱い」

 女は歌うように笑う。

「な、なにして、るんです、か……」

 花の香りに窒息しそうになりながら、涼介が喘ぐ。この香りが致死のものなら、どれくらい吸い込むと命を落とすのだろう。もう充分な量は超えている気がする。

「なにって、あたしの匂いをつけてるんだろう。見て分かんないかい? されて分かんないかい? お前さんは生きてる人間の匂いをぷんぷんさせているからね、そのままだと取って食われてしまうんだよ」

「お、お姉さん、は、取って、食わない?」

「おやまあ、お姉さんってあたしのことかい。ふふふん、あたしは狐さ、ここじゃちょっと古い方に入るからね。お前さんのこともなんとかしてやれるかもしれない。あたしのお付きになんなさいな、あたしのことは狐姐様と呼ぶんだよ」

 きつねあねさま、と涼介は口の中でもそもそとつぶやいた。

「お前さん、名は?」

「馬……馬涼介」

「へえ、お前さん馬かい。はあはあ、馬ねえ。馬にしちゃ細っこい身体つきな気もするけれど、馬か、そうかい、ここには馬はいないから丁度いい。あんたのことは馬で通してあげるからね。いいかい、ここは死人の娼館だからね、生きてるものは入れないはずなんだよ。でもお前さんは入ってきちまった」

「し、びと?」

「そうだよ、あたし達は死んでるんだ。死んでる身体に生きてる動物の魂を無理矢理突っ込んで生き返らせたのがあたし達さ。それで今度は死ねなくなってる。そんなのしかここにはいないよ、それでもお前さんはここで想い人の魂を取り返すっていうのかい?」

 じいちゃんの話と同じだ。涼介は背中に冷たいものが走るのを感じる。けれどいきなりいろいろと言われて、頭がついていかない。

 そもそもここが自分の今までいたところと違う場所であることに、まだ納得できていない。

 それでも、目的はただひとつなので、頷くしかない。

「取り戻す」

「おや、いいねえ、熱い声だ。よしよし、この狐が手伝ってやろう。けれどお前さんも頑張らなきゃならないよ?」

「はい」

 短く頷くと、狐は満足そうなため息を深々とついた。やっと抱きしめていた腕から力を抜いたので、涼介は解放される。すぐにまた手が伸ばされて、頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜられて撫でられたけれど。

「こっちへおいで、あたしの部屋に行こう。少ししたらお客が入る時間になるからね。ここにいたら誰かに見つかる、こっちの着物を貸してやろう」

「あの、どうしてそんなに俺に親切にしてくれるんですか?」

 まだ味方だと信じ切れないまま、涼介は低い声で聞いてみる。

 狐はふんわりと微笑んで、昔お前さんのような男を知っていたんでね、とだけ答えた。


 畳の上に色とりどりの川を眺めるように、帯が何本も広げられている。

 金の刺繍に銀の刺繍、朱色に桃色、山吹色に濃紺、青紫に赤紫。どれが似合うかと聞かれても、涼介は答えられずおろおろするばかりだった。それを狐が笑う。

「涼介は着るものなどどうでもいいんだものねえ」

「どうせ美的感覚がないですよ」

「そんなものは磨いて覚えればいいのさ、ちょっと悪いけど刺身を頼みに行っておくれ。今夜はお得意さんが来るからね」

 ふさりとした尻尾を揺らし、狐が言う。よく見れば彼女の耳は獣のそれで、茶色くやわらかな毛がびっしりと生えている。涼介がここにきて、数日が経っていた。

「刺身なんて勝手場に頼めば良いじゃないですか」

「魚屋の刺身の方が美味いに決まってるだろう、どうせなら美味いのがいいじゃないか」

 ここは一年中が春だという。梅の花が咲き、桜の花が咲く。ゆるゆると穏やかな気候で、ただなんの気まぐれか、年に一、二度、雪が降ったりもするらしい。

 狐に着せられた鼠色の着物は、涼介にしっくりと馴染んだ。今はここにいない男が着ていたらしい。蜘蛛、とその男の名を呼ぶ時、狐は懐かしそうに目を細めた。

「狐姐様の大事な人の、名前ですか?」

「蜘蛛? いや、あれはそれこそ弟みたいなもんだっただけだよ。いなくなっちまってから、自分で可愛がってたことに気付いたくらいさ」

 娼館は日暮れの時間を過ぎて辺りが闇にすっぽりと包まれる頃、ようやく明りが灯った。玄関に鉄製の鳥籠に似た火入れが吊るされる。門の右と左。広い平屋の日本家屋は、美しい庭園を抱き込んでロの字に造られている。廊下は板張りで、庭側にあった。外側もかなり広く、塀があるものの背の低い木々が植え込みになっていて、砂利が敷かれている。井戸があり、花壇があり、池があり、鳥籠が吊るされ、目が楽しめるようになっている。けれどそれは昼間の話だ。

 暗闇に紛れてやってくる客人は、廊下に灯されたほんのりとした明かりで、遠くまでは見通せない庭を眺める。そもそも、ここにくる客人の目当ては死人の女達なので、美しい景色になど興味の欠片もないのだろうけど。

 ロの字の造りの、コの字部分が座敷になっており、残りが女達の部屋になっていた。敷地内に、下働きの女達の住む場所もあるらしいが、涼介は見たことがない。男達の相手をする女ではなく、掃除をしたり料理を作ったり運んだり、酒の注文を取ったりする女達だ。

「あとあれだ、大福買っておいで」

「狸姐様に?」

「そうだよ、あいつはまあ大喰らいで。昨日も兎とやり合いやがった、涼介聞いたかい?」

「いいえ、なにも」

「ふん、昨日の兎と狸の小競り合いさ。あいつらったら自分が売り物なのをちいっとも分かっちゃいないんだから、すぐ手を出して顔に傷を作っちまう」

「小競り合いって、誰か怪我したんですか?」

「狸の方だよ、あいつはどんくさいからね。兎も可愛い顔してあれだ、ぴょんと跳ねて爪立てるんだから、可愛い可愛いで甘やかしてないで、誰かがちゃあんと叱ってやらないといけないねえ」

 ここで古参だというのは本当のようで、女達は狐を姐様姐様と呼んで懐いていたり、懐いた振りをしている者が多かった。狐が一番可愛がっているのは狸で、大きく垂れた二重の目とぽってりと熟れた果実のように赤く厚い唇をしている。ぽっちゃりと肉付きが良く、大きな胸と大きな尻をしていて、いつでもふくふくと笑っている女だ。彼女を見るたびに、涼介はおたふくの絵を思い出した。

「狸姐様が怪我……」

「なあに、頬をちょいっと引っ掻かれたくらいだ。今夜の座敷に出られないってだけじゃないかね、化粧して誤魔化せないこともないんだろうけど、ほらあいつは無精者だし、これ幸いと休んじまうつもりなんだろう」

 ちょっと、と狐が呼んだのは涼介でなく、通りかかった小間使いだった。

 帯を片付けておくれ、と言いつけて、涼介の方に向き直る。

「さ、お前さんはお遣いに行っておいで、猫の婆に会わないよう気をつけるんだよ。まあ会っちまったら仕方ないがね。ほれ、おいで」

 小間使いがいるのにも関わらず、狐は涼介の頭を撫で、頬を擦り寄せ、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。匂いを付けているのだと説明はされているものの、涼介は恥ずかしくて仕方がない。

 女の人とこう密着するのなんて、中学生の頃のフォークダンスでぐらいだ。それだってなんだか照れくさくて、指の先だけ触れて踊ったりしたくらいで。

 ああでも、と涼介は思い出す。

 鹿乃とは宿題を覗き込むときにやたらと顔を近付けたり、なんだかんだとくっついていたかもしれない。当たり前のように思っていたし、互いを異性として意識していなかったせいか、なんとも思っていなかったけれど。

「も、もういいです、狐姐様……」

「くふふふ、照れてしまって可愛いねえ。まだお前さん、女を知らないんだろう」

「なっ、なにをっ、」

 小間使いの女も小さく笑った。

 黒い髪を顎のラインで切り揃えていて、座敷わらしみたいな髪型をしている。背も低く、年も幼く見える。ここの小間使いは、上手く魂の入らなかった身体なのだと狐は言っていたが、どういうことなのか涼介にはよく分からない。ただ、青白い肌をしている狐達より、さらに不健康そうな薄灰色い顔をしているように見えた。

 頬を擦り寄せられると花の匂いがする。

 おしろいの匂いなんだろうか。

 狐は鏡の前に座って、よくおしろいを叩いているから。首の根元まできっちりと白く塗り上げて、その姿は舞台役者を思わせる。歌舞伎だとか、そういう舞台の。撫で肩のやわらかな曲線で、白い腕を持ち上げて。

「さ、行っておいで」

「はい」

 言われて部屋を出る。ここには時計がないので、すべては太陽の動きとそれが作り出す影の長さでいちいちを計る。携帯電話を持っていたはずなのに、涼介がここにきた時に身に付けていたのは制服だけだったようだ。ポケットには、家の鍵なども入れてあったはずなのに。

 太陽が傾くまでに魚屋へ行かなくてはならない。

 よく磨かれ、つるつると光る廊下を歩きながら涼介は首を左右に曲げて鳴らす。

「あー、なんか普通の喋り方忘れちまいそう」

 そうつぶやいて苦笑した。

 

 娼館を出て少し歩くと、長屋が続いた道に出る。

 時代劇のセットのようだ。じいちゃんの家で、なにが楽しいのかちっとも分からないままに鹿乃と眺めていた時代劇の番組。勧善懲悪のものが多く、正義は最後に必ず悪を退治した。決め台詞があったり、お決まりのパターンがあったりで、それは幼い涼介達には退屈なものだったけれど、じいちゃんは楽しそうに見ていた。「ちゃんと結末が決まっていて、そこにきちんと進んでいくものに人は安心するもんだ」と言いながら。

 長屋の人達は普通に生きている様子だ。少なくとも、狐達のように尻尾が生えていたり、薄灰色の顔色をしていたりはしない。

 別にちょんまげを結っていたりするわけではないけれど、どことなく一昔、いや、二昔も三昔も前の人達のような格好をしている。着物を着ているせいだろうか。

 娼館からくる涼介を、娼館の外の人間は最初恐々眺めていたけれど、何度か使いを頼まれた魚屋や菓子屋は、そのうちほんの少しだけ慣れてきたらしい。涼介の姿を見かけても露骨に嫌な顔はしなくなっていた。

「すみません、刺身を頼みたいんですが」

 それでも娼館からきたと知れると他のお客が嫌がるようなので、涼介は裏口からいつも声をかける。木戸を叩いて、顔を出した奥さんに息を飲まれる。慌てて閉められた戸はまた直に開かれて、あああんたか、とつぶやかれる。白髪の混じった髪の、初老の女性だ。筋張った、働き者の手をしている。魚屋で水を扱うせいか、いつでも指先が赤かった。そして生ぬるい魚の匂いがする。

「蜘蛛かと思った、まさかね。ああ、悪かったよ、今うちの人を呼んでくるから」

「この前も蜘蛛って人に間違えられましたけど」

「ああ、うん、あんた背格好がね、蜘蛛によく似てるのさ。着てるものもよく似てる」

「蜘蛛って人の着てたものですよ。借りてるんです」

「あっこには他に男のものなんてないだろうからね」

 あっこ、というのが娼館を指しているのだと気付くのに時間がかかって、涼介は上手く返事ができなかった。

 ちょっと待ってな、と言われて、奥さんは引っ込み、代わりににこにこと愛想のいい、赤い鼻をした店主が顔を出した。

「おう、なんだい、お使いかい」

「狐姐様から刺身を頼んでくるように言われて」

「はいよはいよ、なんの刺身にするかは聞いたかい」

「あ、特には。なんにも言ってなかったから、適当に」

「おう。どうする、持って帰るか?」

 店主が上目遣いになった。陽のあるうちから刺身を持って行っても意味がないことは分かっているのだろう。自分達で食べるなら、わざわざここに頼みには来ないからだ。

「後で俺が取りに来るよ」

「そうしてくれるかい」

 あからさまにほっとした顔をして、店主が息をつく。

 娼館に近付きたくないのだろう。

「しかしあれだ、あんた本当に蜘蛛に似てるな」

「さっきも奥さんに言われた。蜘蛛蜘蛛って、俺はそんなに蜘蛛って人に似てんの?」

 着物はぴったり、というには少し手足に短い。

 蜘蛛という人物は、涼介より背が低かったのではないかと思う。もしくは幼かったか。涼介は今年十七歳になる。高校年二生だ。そういえばこちらの世界では学校のようなものを見かけない。あるのかもしれないけれど、小学校だの中学校だのというくくりではないような気がする。

「似てる……いや、よく見りゃ似てないかもな、うん、蜘蛛はもっと細っこくて頼りなさそうな感じだったかな。もう昔の話だ、俺がまだここへ働きに来てた頃の話だ。うちの母ちゃんもまだまだ若くてな」

「おじさん、ここの跡取り息子じゃなかったの?」

「おれは婿養子。三男坊だもん、ここの母ちゃんが一人娘でな。先代に気に入られて、娘嫁にもらって後継げって言ってもらってな。母ちゃんは今でこそあんなんだけど、昔はそりゃ美人でな」

 店主が奥さんの真似をして、腰をかがめて見せた。蜘蛛の話はどこかへ行ってしまい、涼介は苦笑する。

 ちょっとあんた、と店の奥から呼ばれて、店主が飛び上がった。今行く今行く、と慌てて返事をし、涼介に笑いかけた。

「すまないね、じゃああれだ、刺身は用意しておくから後で取りに来な。代金はそんときでいいよ、どうせ夜んならないと来ないだろ、店は閉めちまうけどまた裏から来てくれればいいから」

「すみません、ありがとうございます」

「……気を悪くしないでくれよ、あんたはあれだね、娼館から来る割には顔の色艶も良くて、まるで生きてるみたい人間だな」

 生きてる人間なんですけど、と涼介はまた苦笑いをしつつも、それは口にしない。ただ、はあ、と返事をしてみせた。

「そういやあんたはなんの動物と掛けてあるんだい、見てくれはなんだか普通の人間みたいだけどさ」

「馬、です」

「馬?」

 店主は驚いた顔をして、頭のてっぺんから足の爪先まで、不躾な目でじろじろと涼介を眺め回した。

「馬?」

 同じことをもう一度聞かれて、涼介は何度聞かれてもそうなので頷く。

「馬?」

「馬です、珍しいですか?」

 確かに、馬という苗字は珍しいかもしれないけれど。

 もちろん、店主が狐や狸と同様に、涼介を死んだ人の身体と馬を掛け合わせたと思っているから驚いているのだということは理解していたが、それでも驚きすぎだった。まあ、馬面でもないし鼻の穴がでかいというわけでもないってことだな、と涼介は自分なりに納得する。

「あんた馬かい。へええ、ぱっと見たところ馬って感じはしないけど、へええ、馬。馬かい。ああ、それともあそこが馬並みってことなのかい?」

 店主は涼介の股間でじっと視線を止めてしまったので、居心地が悪くなる。馬並みではないです。そもそも馬って、どれぐらいでかいのかを知らない。

 夜また来ますから、と逃げるようにして魚屋の裏口を離れる。

 あまり慌てていたので、菓子屋を通り過ぎてしまうところだった。狐に大福を頼まれていたことを思い出し、急いでそちらも裏口に回る。

 そういえば鹿乃も甘いものが好きだった。フルーツのてんこ盛りになったタルトだとか、生クリームたっぷりのショートケーキだとか。和菓子も、あんこが好きだったので好んで食べていた。そういえばアップルパイが一番好きだった記憶がある。

「……鹿乃、」

 ここでの夜をもう何度か過ごした。

 あちらで鹿乃はまだ保健室のベッドで眠っているのだろうか。同じだけの時間が流れているのなら、すでに誰かが見つけて病院に運ばれているかもしれない。まさか死んだりしてはいないだろうか。涼介が行方不明扱いになっているということはないだろうか。

 時間がなかったとはいえ、置手紙くらい残せたらよかったのだけど。

「……なんて、今更」

 つぶやいて涼介は首を横に振る。なによりもまず、こちらで鹿乃の魂を捜さないといけないのに、まだなんの手がかりもないままなのだ。それが一番、心苦しかった。

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