第零章 とある将官室にて
「久し振りだな、相良准将」
「わざわざ身分の違いを強調せんでもよかろうに」
相良が将官室に入ると、机の上に両肘を着き、手を組んで手で口元を隠すような佇まいで威圧的でもあり、陰湿的でもある雰囲気を醸し出しているのが、最上少将第九師団長である。相良は戦場で片腕を失ったため退役して隠居生活を送っていた。だが、最上が軍事省に働きかけ半強制的に二十年振りの復役をさせたのである。相良は、復役の挨拶回りの最後に最上のところへ来たのである。
「最上、お主も相変わらずじゃな。姑息なやり口でワシを呼び戻しおって」
相良は最上を睨みつけながら鼻を鳴らした。最上の性格は熟知していたが、まさか自分にまでその影響を受けるとは微塵も思っていなかった。
「私は少将だ。相良、貴方よりも位が高いのだ。口を慎みたまえ」
流石にこの言葉には驚きを隠せない。プライドも向上心も高かったことはもちろん知っていた。だが立場が逆になるだけでここまで見下されるとは思いもよらなかった。確かに上下関係をきっちり区別していた奴だったがな。と、相良は心の中で溜息をつく。
「ワシとお主は長年の間柄じゃ。少々のことはよかろう」
立場は上だが年齢は下じゃろうに、と、また溜息をつく。
「まぁ、いい。ちなみに孫の件だが、無事卒業できるように指示を与えておいた。安心したまえ」
「何を言っておる。ワシが育てたのじゃ。本来卒業出来る実力は持っておる。教官共の評判を知らんのか」
まるで裏取引して卒業させたかのような口振りに苛立ちを覚え、声を荒げた。相良の孫、明信は、相良自身が精力的に帝王学とも言える教育をほどこしたのだ。その気になれば首席卒業も夢ではなかっただろう。
「だが、問題児であることには変わりがないだろう」
むぅ、痛いところを突きおる。と、かすかにつぶやく。成績ならば十本の指に入れる程に教育してきたつもりである。問題は明信自身のやる気である。
相良は軍人として誇りをもっている。その誇りを継いで更なる高みに登ってほしいがために半ば強制的とも言える教育を施し、明信は軍に所属することの嫌悪感を抱いてしまった。それでも無理矢理陸軍士官学校へ入学させるまでは良かった。
しかし当の本人はやる気をあまり出さず、まともに講義や実技訓練を受けることがなかったという。最も、相良が卒業出来なかったら罰を与えると常々言っていたため、単位を落とすことはなかったのだが。
「その教官の評判とやらも、相良の教育のお陰による面白い発想を時折見せるようなことだろう。それを褒めてるのは一部の教官だけで、大半の教官は問題視してるそうではないか」
これには反論の余地もない。いくら単位を落としていないとはいえ、問題児ならば卒業不可となっても、さほどの問題にはならないだろう。相良は本人さえやる気を出してくれれば復役せずとも済んだじゃろうに、と、独りごちた。
「この事はもうよい。それよりもなぜ三年前、遠征する予定を取り消したのじゃ。ワシの耳にも届いておるぞ」
ヴァリス帝国南方のアリントン地方は交易の盛んな土地であり、建国時からその地方を制圧することは悲願であった。そのため、たびたび南方遠征をおこなっているのである。だが、今から三年前、南方遠征をもうすぐ迎えようという所へ最上が軍事省に「南部遠征軍派遣に対する申し立て書」を叩きつけ、強引なまでに説得を試み中止にして大騒ぎとなったのである。
「頻繁に大遠征を行うなど、馬鹿馬鹿しい。毎回遠征の失敗は準備のなさにある。遠征軍を維持できなくなって引き揚げる。そのような事では永遠に成功などしない。むしろ一度軍を休ませ、増強に力を入れたほうが良い」
確かにその理屈はあながち間違ったことではないだろう。遠征軍は精々もって二か月。兵の食糧が持たなくなって引き揚げる。アリントン地方各地に存在する都市は、都市を丸ごと要塞化してあるために一撃ではそう簡単に陥落させることは不可能であるが、軍事省の幹部は建国時から一撃必殺の戦略を貫くことにこだわっている(その戦略でヴァリス地方の統一が可能となったので殊更である)ため、長期戦の準備を取る事は一切ないのであった。
それに、と最上が続ける。
「新アリントン統一軍団長の桐嶋怜が、我が国第一回遠征軍を惨敗させた、初代アリントン統一軍団長桐嶋武正級の能力を持っていると私は確信している。周到に準備をしておいて損はない」
桐嶋怜軍団長の噂は相良も耳にしている。三年前父親の急死により僅か十四歳にして就任した怜は、初めは侮られていたようで、アリントンで野盗やアリントンの権益を我がものにしようと企んだ賊が各地で暴れたいたのを、一か月で制圧することに成功した。中でも、三千の賊を二百の軍勢で急襲し、鎮圧させたのは軍関係者なら誰でも知っていることである。
それでも軍事省はアリントン地方が荒れている今こそ好機とばかりに早急に遠征軍を編成していたところへ、最上の申し立てがあったために、最上に対する批判は雨嵐の如しであった。
「あの者がただの小娘ではないことはワシも感じておる。並大抵の将官ではたちまちのうちに撃破されることは想像に難くないわい」
ふっ、と最上が鼻で笑った。流石歴戦の相良だ。上層部の馬鹿共とは理解力が違う、と、感心したのだ。
「その小娘と戦わんがために取引を承知して戻ってきたのではないか」
「まさか。ワシはもう隠居の身。平凡な生活が望みじゃ」
という相良の顔は喜々としている。平和な生活も望みかもしれないが、本心は床で死ぬより草原の真っただ中戦って死にたいのだ。
「遠征はもうじき行われる。早急に準備を始めろ。最も、二十年も戦列を離れていたただの爺では呆けて戦場を眺めるぐらいしかできないだろうがな」
「ぬかせ、ワシとて軍人じゃ。いつでも戦場に出れる準備は怠っておらん」
「精々期待している。相良准将と相良少尉にはな」