ミミモトノサケビゴエ
最初に聞こえたのは。
夜だった。
部屋の電気を消して。
布団に入って。
眠ろうとした時。
「……ユルセナイ」
耳元で。
誰かが言った。
私は。
飛び起きた。
「……え?」
部屋を見る。
誰もいない。
ドアは閉まっている。
窓も閉まっている。
机。
椅子。
本棚。
いつもの部屋。
いつもと。
何も変わらない。
「……気のせい」
そう言った。
誰に聞かせるわけでもなく。
自分に。
言い聞かせるように。
そして。
もう一度。
布団に入った。
目を閉じる。
静かだった。
何も聞こえない。
だから。
今度こそ。
眠れると思った。
「……ユルセナイ」
私は。
目を開けた。
耳元。
今度は。
はっきり聞こえた。
誰かが。
すぐ隣にいる。
そんな距離。
私は。
ゆっくり。
首だけを動かした。
誰もいない。
「……誰?」
返事はなかった。
*
次の日。
学校へ行った。
昨日のことは。
忘れようと思った。
夢。
寝ぼけていた。
疲れていた。
理由なんて。
いくらでも考えられる。
だから。
気にしなかった。
授業中。
先生の声を聞く。
ノートを取る。
普通の時間。
普通の教室。
「……ユルセナイ」
耳元。
私は。
ペンを落とした。
「どうしたの?」
隣の席の友達が。
心配そうに聞いた。
「今……何か言った?」
「え?」
「今」
「何も」
「……そっか」
教室を見る。
誰も。
こちらを見ていない。
先生は授業を続けている。
友達は。
ノートを取っている。
誰も。
叫んでいない。
誰も。
怒っていない。
なのに。
確かに。
聞こえた。
「ユルセナイ」
誰が。
何を。
許せないのだろう。
*
その日の帰り道。
「……ユルセナイ」
後ろ。
私は振り返った。
誰もいない。
家に帰る。
「……ユルセナイ」
廊下。
振り返る。
誰もいない。
お風呂。
「……ユルセナイ」
耳元。
私は。
目を閉じた。
聞こえない。
聞こえない。
聞こえていない。
そう思っても。
「……ユルセナイ」
聞こえた。
*
三日目。
声は。
大きくなった。
「ユルセナイ」
耳元。
前より。
はっきりと。
聞こえる。
私は。
友達を疑った。
「ねぇ」
「ん?」
「私に怒ってる?」
「は?」
「いや……」
「急になに?」
「何でもない」
違う。
友達じゃない。
家族。
先生。
クラスメイト。
知らない人。
誰か。
誰かが。
私を許せないと思っている。
でも。
心当たりがない。
「私、何かした?」
誰に聞いても。
答えは同じだった。
「何の話?」
何も。
分からない。
*
四日目。
私は。
声を無視することにした。
聞こえても。
気にしない。
振り返らない。
探さない。
誰なのか。
考えない。
「ユルセナイ」
朝。
無視した。
「ユルセナイ」
学校。
無視した。
「ユルセナイ」
帰り道。
無視した。
そして。
夜。
布団に入った。
「……ユルセナイ」
小さな声。
無視した。
「ユルセナイ」
少し大きくなる。
無視した。
「ユルセナイ」
耳元。
私は。
布団を被った。
「ユルセナイ」
聞こえない。
聞こえない。
聞こえない。
そう。
思った。
「ユルセナイ」
声が。
大きくなった。
「ユルセナイ」
もっと。
「ユルセナイ」
もっと。
「ユルセナイ」
もっと。
私は。
耳を塞いだ。
「やめて……」
「ユルセナイ」
「やめて」
「ユルセナイ」
「誰なの……?」
返事はない。
ただ。
声だけが。
聞こえる。
「ユルセナイ」
そして。
初めて。
声が。
叫んだ。
「ユルセナイ!」
私は。
布団を跳ね飛ばした。
誰もいない。
部屋には。
私しかいない。
「……誰なの」
震える声で。
聞いた。
「誰が……私を許せないの」
静かになった。
声が。
消えた。
私は。
息を止めた。
初めて。
何も聞こえなかった。
……。
……。
……。
そして。
耳元ではなく。
自分の口が。
勝手に動いた。
「ユルセナイ」
私は。
口を押さえた。
「……え?」
声。
私の声だった。
でも。
私は言っていない。
「ユルセナイ」
また。
私の口が動く。
違う。
言いたくない。
言っていない。
なのに。
「ユルセナイ」
「……やめて」
自分の声。
自分の口。
自分の喉。
そこから。
何度も。
「ユルセナイ」
「ユルセナイ」
「ユルセナイ」
その言葉を。
吐き出していた。
*
私は。
鏡の前に立った。
そこにいるのは。
私だった。
当たり前だ。
鏡だから。
私がいる。
でも。
鏡の中の私は。
泣いていた。
「……なんで?」
私は。
泣いていない。
なのに。
鏡の中の私は。
泣いている。
そして。
口を開いた。
「ユルセナイ」
耳元ではない。
鏡の中から。
「ユルセナイ」
私は。
鏡を見つめた。
思い出した。
ずっと。
忘れようとしていたこと。
忘れたふりをしていたこと。
誰にも言わなかったこと。
誰にも。
言えなかったこと。
あの日。
私は。
何かを失った。
そして。
私は。
何もできなかった。
できなかった。
できなかった。
できなかった。
「……」
胸の奥が。
苦しくなる。
思い出したくない。
忘れていたかった。
だから。
忘れた。
そう思っていた。
でも。
違った。
忘れてなんていなかった。
忘れたふりをしていただけだった。
「ユルセナイ」
鏡の中の私が。
言った。
私は。
震える声で。
聞いた。
「誰を……?」
鏡の中の私は。
ゆっくり。
こちらを見た。
そして。
笑った。
「お前を」
息が。
止まった。
「お前が」
鏡の中の私が。
口を開く。
「お前を」
何度も。
「ユルセナイ」
その瞬間。
耳元で。
今までで一番大きな声が。
響いた。
「ユルセナイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ」
私は。
耳を塞いだ。
叫び声は。
止まらない。
耳元。
鏡。
部屋。
頭の中。
どこから聞こえているのか。
もう。
分からなかった。
ただ。
一つだけ。
分かった。
あの声は。
誰かの声じゃない。
ずっと。
私の中にいた。
ずっと。
私を。
許せなかった。
あの日から。
ずっと。
叫んでいた。
でも。
私は。
聞こえないふりをしていた。
だから。
耳元で。
叫ばれるまで。
気付かなかった――ミミモトノサケビゴエ。




