ファスナーの向こう
透明な石に埋もれながら僕は立ち尽くした。
足を動かすたび、軽く乾いた音を立てて石同士が転がる。
どうせ、誰も見てくれない。
どうせ、また過ぎ去っていく。
誰も助けてくれないんだ。
横目で見ても知らん顔。
……もう期待なんてしていない。
だったら、ここで朽ちていくだけだ。
人の流れの向こうで、一人の男だけが立ち止まっていた。
他の人とは違う。
まるで何かを狙うように、じっと僕を見ている。
男は小さく頷くと、人混みに消えた。
何時間も、人の流れを見つめていると、一人の女性が目の前に立ち止まった。
「あと一回だけ……」
腕時計を何度も見ながら、つま先を忙しく動かしている。
すると突然、隣の女性は人形のように宙へ弾け飛んだ。
それでも誰も気に留めない。
誰も彼も過ぎ去っていく。
女性の身体はそこにある。
ふと、倒れたその首元に光沢のある何かが見えた。
僕は目を凝らした。
金属質の長方形。
それが首から生えるようにくっついている。
その垂れ下がった金属には見覚えがあった。
……ファスナーだ。
首から背中に向けて、ファスナーの取っ手が生えている。
僕はそれに触れてみる。
ネックレスではない。
手前に引っ張っても皮膚が盛り上がって取れる気がしない。
よく見ると、背中にギザギザとした筋が走っていた。
何だこれ……。
手術の跡?
いや、こんな場所に……?
僕の指先は勝手にファスナーを握っていた。
ジジジジと生き物の皮膚を裂くような音を立てた。
首と背中の間に墨を流し込んだような黒があった。
吸い込まれるような黒が開く。
ギョロリ。
その瞬間、黒の奥で、白い輪がぼんやり光った。
……大きな目玉の視線。
まっすぐ僕を見つめている。
違う。
僕は目を逸らし、何度も瞬きをした。
見間違いだ。ありえない。
こんなものが、あるはずがない。
ちらりと視線を戻す。
──目玉はまだ、僕を見ていた。
……やめろ。
声が勝手に漏れた。
その途端、足元が波打った。
床が沈む。
人々の姿が滲み、世界の輪郭が音もなく溶けていく。
瞬きをした。
……そこは暗かった。
僕は、暗がりの中でゆっくりと立ち上がる。
すると、背後に違和感があった。
硬いものが首にあたる。
恐る恐るそこへ手を伸ばす。
冷たい金属の感触。
その金属の下側は、ぷらぷらと動いた。
背中に一筋の汗が滑る。
けれどその感覚は、背中の途中で途切れた。
背後に感覚を集中させるとそこには、真っ直ぐな違和感が這っていた。
疲れているだけだ。
幻覚だ。
そう思い込もうと、息を一つ吐いた。
けれど、首筋の向こうで、何かが動いた。
僕は慌ててその金属をつまみ上げた。
しかし、背中は待ってはくれなかった。
ぎゅるりと背骨が蠢く感覚が全身に駆け抜ける。
鳥肌が全身をめぐった。
背中とシャツがぬめりと張り付いた。
視界が霞む。
まどろむ視界の中に背後が見えた気がした。
目の前には透明な石。
でも確かに視界の奥に背後の人々の群れが映っている。
ふざけるな。
僕は背中のファスナーを強く引いた。
しかし、鋭い痛みが手を弾き飛ばす。
僕は荒い呼吸を吐き出しながら、ぎゅっと目を閉じた。
けれど、閉じたはずの視界の先に、
人々の視線が淡く輝いていた。
……カリカリッ。
耳元に鳴る小さな音。
……カリカリッ。
その音は徐々に遠ざかっていく。
それとともに、視界の中の人々は、鮮明になっていく。
カリカリ、ガリッ。
「……っ」
腰の底に鈍い痛みが走る。
閉じたはずの世界が、不意に横へ閉じた。
左右から黒い膜が寄り、またゆっくりと開く。
それは、僕の瞼ではなかった。
……背中は瞬きしていた。
僕はゆっくりと瞼を開いた。
目の前は薄暗い。
でも、その前には、薄っすらとぼやけた人々が佇んでいる。
苦い胃液が込み上げ、顎が力なく落ちた。
透明な石だけが視界を埋めた。
正面には透明な石。
その真ん中には天井の暗がり。
二つの景色が重なっていた。
……頭の中に白い斑点が乱れ飛んだ。
脳が混乱している。
僕は、それを自覚できた。
息を一つ吐く。
落ち着け。落ち着け。
これは悪い夢だ。
時が経てば、終わることだ。
──ほら、何も起きないじゃないか。
僕は手を後ろに回し、背中のファスナーに指をかけた。
そして、それを持ち上げようと力を込めた。
すると、足元の透明な石が小さく揺れた。
透明な石の向こうに光る四角いものが見えた気がした。
その瞬間、腰だけが不意に空へ引き抜かれた。
一拍遅れて、身体全体が宙へ浮いた。
僕の上に何かがある。
まるで引っ張られるように手と足が地面を離れた。
浮遊感が全身を包み込む。
僕は何もできないまま、どんどん地上を離れていく。
……落ちたら死ぬ。
その確信だけが頭を満たした。
途端に全身が硬直して、目を閉じさせた。
でも、もう一つの視界は、空に光る明かりを映し続けていた。
光は、もう手を伸ばせば届きそうなほど近かった。
それでも僕は、まだ空へ引き寄せられ続けていた。
見えない何かが、僕を空へ連れていく。
そのときだった。
全身が激しく振り上げられる。
脊髄を稲妻が駆け抜けたような衝撃に、息が潰れた。
上昇が止まる。
次の瞬間には、身体は横殴りに弾かれた。
手足は振り子のように横方向へ放り出される。
恐る恐る視線を落とすと、光の切れ間から、透明な石が敷き詰められているのが見えた。
どれほど高いのか、考えたくもない。
そのとき。
足元の暗闇が、ゆっくりと口を開いた。
夜を丸く切り抜いたような穴。
底はない。
黒というより、光だけが存在を拒まれているような空間だった。
ガチャン。
全身が何かに引っ掛かった。
身体は大きく振られ、遅れて逆方向へ揺り返される。
その一瞬だけ、静寂が訪れた。
風もない。
浮遊感もない。
ただ、僕だけが宙に吊るされている。
ふっと、頭上の光が消えた。
世界から支えが消える。
僕は黒い穴へ向かって、真っ逆さまに落ち始めた。
内臓が浮き上がるような感覚が、全身を駆け巡る。
黒い穴が迫る。
その縁を越えた瞬間。
柔らかな何かに僕は叩きつけられた。
息ができない。
視界は白く霞み、耳鳴りだけが残る。
視界の真ん中に、3本の鋭い爪が鈍く輝いていた。
──「あっ」
女性の声。
♪ピロリロリン。
遠くで、電子音が鳴った。
「やっと取れた!」
誰かが笑う。
「思ったより大きいね」
……僕は抱えられ、どこかへ運ばれていく。
──「ここに飾ろうかな」
霞む視界の先に、いくつもの透明な石が並ぶ棚が見えた。
意識がゆっくり戻る。
身体は動かない。
何かに抱えられている。
背中が熱い。
ジジジジ……
首元から背中へ。
ゆっくりとファスナーが開いていく。
冷たい空気が中へ流れ込んだ。
「え?」
女性の声が震えた。
──「映ってる……」
ジジ……
モニターの中の瞳は、一度だけ瞬きをした。




