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ファスナーの向こう

作者: TOMMY
掲載日:2026/06/28

透明な石に埋もれながら僕は立ち尽くした。


足を動かすたび、軽く乾いた音を立てて石同士が転がる。


どうせ、誰も見てくれない。

どうせ、また過ぎ去っていく。


誰も助けてくれないんだ。

横目で見ても知らん顔。


……もう期待なんてしていない。

だったら、ここで朽ちていくだけだ。


人の流れの向こうで、一人の男だけが立ち止まっていた。


他の人とは違う。


まるで何かを狙うように、じっと僕を見ている。


男は小さく頷くと、人混みに消えた。


何時間も、人の流れを見つめていると、一人の女性が目の前に立ち止まった。


「あと一回だけ……」


腕時計を何度も見ながら、つま先を忙しく動かしている。


すると突然、隣の女性は人形のように宙へ弾け飛んだ。


それでも誰も気に留めない。

誰も彼も過ぎ去っていく。


女性の身体はそこにある。

ふと、倒れたその首元に光沢のある何かが見えた。


僕は目を凝らした。


金属質の長方形。

それが首から生えるようにくっついている。

その垂れ下がった金属には見覚えがあった。


……ファスナーだ。


首から背中に向けて、ファスナーの取っ手が生えている。


僕はそれに触れてみる。

ネックレスではない。

手前に引っ張っても皮膚が盛り上がって取れる気がしない。


よく見ると、背中にギザギザとした筋が走っていた。


何だこれ……。

手術の跡?

いや、こんな場所に……?


僕の指先は勝手にファスナーを握っていた。


ジジジジと生き物の皮膚を裂くような音を立てた。


首と背中の間に墨を流し込んだような黒があった。

吸い込まれるような黒が開く。


ギョロリ。


その瞬間、黒の奥で、白い輪がぼんやり光った。


……大きな目玉の視線。

まっすぐ僕を見つめている。


違う。

僕は目を逸らし、何度も瞬きをした。


見間違いだ。ありえない。

こんなものが、あるはずがない。


ちらりと視線を戻す。


──目玉はまだ、僕を見ていた。


……やめろ。


声が勝手に漏れた。


その途端、足元が波打った。

床が沈む。

人々の姿が滲み、世界の輪郭が音もなく溶けていく。


瞬きをした。


……そこは暗かった。


僕は、暗がりの中でゆっくりと立ち上がる。

すると、背後に違和感があった。

硬いものが首にあたる。


恐る恐るそこへ手を伸ばす。

冷たい金属の感触。

その金属の下側は、ぷらぷらと動いた。


背中に一筋の汗が滑る。

けれどその感覚は、背中の途中で途切れた。


背後に感覚を集中させるとそこには、真っ直ぐな違和感が這っていた。


疲れているだけだ。

幻覚だ。

そう思い込もうと、息を一つ吐いた。


けれど、首筋の向こうで、何かが動いた。

僕は慌ててその金属をつまみ上げた。


しかし、背中は待ってはくれなかった。


ぎゅるりと背骨が蠢く感覚が全身に駆け抜ける。


鳥肌が全身をめぐった。

背中とシャツがぬめりと張り付いた。


視界が霞む。


まどろむ視界の中に背後が見えた気がした。

目の前には透明な石。

でも確かに視界の奥に背後の人々の群れが映っている。


ふざけるな。


僕は背中のファスナーを強く引いた。

しかし、鋭い痛みが手を弾き飛ばす。


僕は荒い呼吸を吐き出しながら、ぎゅっと目を閉じた。


けれど、閉じたはずの視界の先に、

人々の視線が淡く輝いていた。


……カリカリッ。


耳元に鳴る小さな音。


……カリカリッ。


その音は徐々に遠ざかっていく。


それとともに、視界の中の人々は、鮮明になっていく。


カリカリ、ガリッ。


「……っ」


腰の底に鈍い痛みが走る。


閉じたはずの世界が、不意に横へ閉じた。

左右から黒い膜が寄り、またゆっくりと開く。

それは、僕の瞼ではなかった。


……背中は瞬きしていた。


僕はゆっくりと瞼を開いた。


目の前は薄暗い。

でも、その前には、薄っすらとぼやけた人々が佇んでいる。


苦い胃液が込み上げ、顎が力なく落ちた。

透明な石だけが視界を埋めた。


正面には透明な石。

その真ん中には天井の暗がり。


二つの景色が重なっていた。


……頭の中に白い斑点が乱れ飛んだ。

脳が混乱している。

僕は、それを自覚できた。


息を一つ吐く。

落ち着け。落ち着け。

これは悪い夢だ。

時が経てば、終わることだ。


──ほら、何も起きないじゃないか。

僕は手を後ろに回し、背中のファスナーに指をかけた。

そして、それを持ち上げようと力を込めた。


すると、足元の透明な石が小さく揺れた。

透明な石の向こうに光る四角いものが見えた気がした。


その瞬間、腰だけが不意に空へ引き抜かれた。


一拍遅れて、身体全体が宙へ浮いた。


僕の上に何かがある。

まるで引っ張られるように手と足が地面を離れた。


浮遊感が全身を包み込む。

僕は何もできないまま、どんどん地上を離れていく。


……落ちたら死ぬ。


その確信だけが頭を満たした。

途端に全身が硬直して、目を閉じさせた。

でも、もう一つの視界は、空に光る明かりを映し続けていた。


光は、もう手を伸ばせば届きそうなほど近かった。

それでも僕は、まだ空へ引き寄せられ続けていた。


見えない何かが、僕を空へ連れていく。


そのときだった。

全身が激しく振り上げられる。

脊髄を稲妻が駆け抜けたような衝撃に、息が潰れた。


上昇が止まる。


次の瞬間には、身体は横殴りに弾かれた。


手足は振り子のように横方向へ放り出される。


恐る恐る視線を落とすと、光の切れ間から、透明な石が敷き詰められているのが見えた。


どれほど高いのか、考えたくもない。


そのとき。

足元の暗闇が、ゆっくりと口を開いた。

夜を丸く切り抜いたような穴。

底はない。


黒というより、光だけが存在を拒まれているような空間だった。


ガチャン。


全身が何かに引っ掛かった。


身体は大きく振られ、遅れて逆方向へ揺り返される。


その一瞬だけ、静寂が訪れた。

風もない。

浮遊感もない。

ただ、僕だけが宙に吊るされている。


ふっと、頭上の光が消えた。


世界から支えが消える。


僕は黒い穴へ向かって、真っ逆さまに落ち始めた。


内臓が浮き上がるような感覚が、全身を駆け巡る。


黒い穴が迫る。

その縁を越えた瞬間。


柔らかな何かに僕は叩きつけられた。


息ができない。

視界は白く霞み、耳鳴りだけが残る。


視界の真ん中に、3本の鋭い爪が鈍く輝いていた。


──「あっ」


女性の声。


♪ピロリロリン。

遠くで、電子音が鳴った。


「やっと取れた!」


誰かが笑う。


「思ったより大きいね」


……僕は抱えられ、どこかへ運ばれていく。


──「ここに飾ろうかな」


霞む視界の先に、いくつもの透明な石が並ぶ棚が見えた。


意識がゆっくり戻る。


身体は動かない。

何かに抱えられている。


背中が熱い。

ジジジジ……


首元から背中へ。

ゆっくりとファスナーが開いていく。


冷たい空気が中へ流れ込んだ。


「え?」


女性の声が震えた。


──「映ってる……」


ジジ……


モニターの中の瞳は、一度だけ瞬きをした。

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