4 泣いてた
石垣あおい(23)…恵の従姉。なぎの高校時代の先輩。卒業間近に失踪、校内で下世話かつ悪質な噂の標的になった。父親を「男モドキ」とみなすことで他の男性を憎まないよう心掛けている。苦労人。
昔からなにひとつ上手くやれないわたしは、とにかく頑張るしかなかった。結局は無駄でも、遠回りでも、不器用でも、段取り悪くても、人と比べる暇もないくらい常に目の前のことで精いっぱいだった。
ひたすら頑張って、頑張って、勝手に疲れて(いつか誰か褒めてくれないかなぁ)と勝手に望んでいた。まぁ当然、誰も褒めないよね。当たり前のことしかやれていないもの。
だけど、ただひとり「当たり前」を褒めてくれた先輩がいた。
「なぎちゃんは動きが丁寧。見てこの出来。安心のクオリティ。おかげで間に合いそう。助かっちゃった。ありがと!」
課題提出の締め切りが同日だった。たまたま一緒の実習室で作業していて、たまたまわたしの手が空いたから、わたしでも出来る簡単なことだけ手伝った、それだけだった。
なのに、先輩は褒めてくれた。オーバーなほど大喜びして、親しげにわたしに身体を寄せて満面の笑みを見せてくれた。
「そういや自己紹介してなくない? なぎちゃんは2年さんだよね? あたしは3年の石垣あおい。もうじき卒業しちゃうけど良ければ仲良くしてほしいな」
あおい先輩は優しかった。もたもた喋るわたしを怒ったりしなかった。どうしても要領の悪いわたしがやりきるのを、ちゃんと待ってくれる人だった。
あおい先輩は「家庭環境がダメダメ」なのだそうだ。だからいつも疲れていて、常に何かに怒っていて、だけど「癒されるぅ…」が口癖で、一緒にいるとよく笑う人だった。
「あたしら頑張ってるよね。じゃあご褒美いるよね」と、あおい先輩はわたしをよく誘ってくれて、一緒にクレープを食べた。一番安いバターと砂糖だけのクレープ。お金がない時は半額を出し合って一個を分けっこ。あおい先輩は最初の一口を「ヘイいただきぃ!」と齧りたがるけど、味の濃い真ん中は遠慮してチミッとしか齧らない。交互に食べて、最後の一口はどんなサイズだろうとわたしに譲ってくれる優しい人だった。
「卒業したらあの家から逃げられる。そしたらバイト解禁。初給料でアレいこうね。ちゃんとひとりひとつ。あ、おかわり可。カロリー知らんマジで。一緒に食べようね。約束ね」
季節限定商品が切り替わるたびに決まってそう言う。
その日もあおい先輩は美味しそうなレモンタルトのクレープを睨みつけながら言った。
ハキハキとしたきれいな高い声をわざと低くひそめて、過剰にキリッとした顔をしてみせてくれるから、楽しくなってわたしはいつも笑ってしまう。その日も思いっきり笑った後に頷いた。
「うん。嬉しいな。楽しみ」
だけど、約束は叶わなかった。
あおい先輩は、それきり学校に来れなくなった。わたしのせいで。
5年ぶりに会えたあおい先輩は、一瞬、誰か分からないくらい凄い美人になっていた。
おとなっぽいメイクをして、私服もオシャレで、だけど強い意志のある瞳はそのままで…変わらないハキハキした高い声を張り上げて、わたしに向かって叫んだ。
「やっぱり! クソ野郎! 騙しやがって!!」
面と向かって言われて、わたしは(そのとおりだ)と俯くしかなかった。
騙したつもりはなかった。けど、傷つけてしまった。とりかえしつかない。
玄関から石垣さんの怒鳴り声も聴こえる。視界がぼやける。泣く資格なんてないのに。
「黙れ犯罪者! 恥ずかしげもなく被害者ヅラすんな! こんな健気な優しい子を騙しておきながら! 男モドキどころか人間モドキに堕ちたヤツに慈悲などやらん! 今度こそ愛想つきた! 覚悟しろ!
…ああ、ごめん、なぎちゃん。本当にごめん。今まで知らなくてごめんなさい。ちゃんと伝えてなくて、ごめんなさい…!」
あおい先輩は涙声だった。わたしは抱きしめられていた。ふわりと柑橘系の香りがして、袖からのぞくしなやかな両手首のきれいな肌を見て、(香水、似合うな)と思った瞬間、もっと泣けてきた。
わたしはあおい先輩にしがみついた。抱きしめ返してもらえた。嬉しくて、わんわん泣いた。涙が止まらなかった。
(無事だった。聞いていたのと違う、よくわからない、けど、無事だった。あおい先輩は病んでない。リストカットもしてなかった。治ったの? きっと退院できたんだ…!)
あおい先輩は懐かしいキレイな声で、何故かわたしに謝罪した。その後、聞いたこともないような低い声を張り上げて、何故か石垣さんを罵倒し返した。合間に、懐かしいハキハキした声で、誰かに次々と指示を飛ばしている。
石垣さんは怖い声と怖い言葉でずっと怒鳴り散らしていた。だけど、あおい先輩に言い負かされた?感じの空気になったら、急にそこここの物を壊しはじめた。
こちらにフォーク?が飛んできた気がするけど、泣いていたし、目の前をかすめていったから、よくわからない。
そばにたくさんのカトラリーが落ちて散らかる。お玉も。まだご飯作れてないのに。洗ってから使わなきゃ。お片付け、いつもより多いかな。がんばろう。
あおい先輩は「ぉーうやると思った! バカめ! 余罪ゲット! 相変わらずようやるわ人間モドキ!」と呟くと、わたしの頭を胸に抱えこんだ。
温かい身体は華奢で、けど心臓の音は大きくて、思わずわたしからも抱きくるんだ。
たまに腕に何かが当たる。怒鳴り声。物が壊れる大きな音。
男の人の声が聴こえた。石垣さんとは違う若い声。感情のない、凄く低い声。静かに石垣さんと会話している。
足音。
また怒鳴り声、けど離れていく。物が壊れる音も小さくなった。ドアが閉まる。すぐ開く。
ドアの開閉するかすかな風切り音、ギィギィと蝶番がきしむ音、ふいに石垣さんの怒鳴り声がかぶる。男の人の静かな重低音。
怒鳴り声が途中から猫なで声に変わる。けど、すぐにまた怒鳴り声。物同士がぶつかる音。壊れる音。怖い足音。
怒鳴り声。
怒鳴り声。
怒鳴り声。
涙は止まらずダラダラなのに、頭がぼーっとしてきた。力が抜ける。思考が止まる。全ての音が遠ざかる。
「何も知らないって言ってるだろ! 5年も前のことなんざ覚えてるわけないだろが! そこの女が勝手に押し付けてきた! 仕方なく預かっただけだ! 金もまるっとある! 使ってないんだよ、今すぐ返せる! 返す! だから詐欺じゃない! 誤解だ、ちゃんと聞いてくれ、迷惑かけられたのはこっちなんだって! そこの女どもが騒ぐから…、いや、だから! 犯罪なんてやってねぇんだって!」
「はい。ぜひ詳しく聞かせてください。椅子をご用意します。どうぞ、署まで」
わたしが頭からっぽで泣いている間に、たくさんの人が来て、色んなことが起きた…みたいだった。
びっくりしすぎて記憶があいまい。
けど、気付いたら、そばに立夏さんがいた。




