しびとの地獄
河の流れる音
灰色の空が視える、ここは穏やかだ
上躰を起こす
ここは舟の上で、襤褸に全身を包んだ老人がそれを漕いで居る
僕はぼんやりした頭のまま、老人に尋ねた
「僕は、死んだのですか?」
舟の進む先だけを視ながら、「そうだ」と老人が答える
僕は飛び起きると老人の衣の裾に縋り付き、懇願した
「蘇らせて下さい」
「僕は、幼いのにご主人様を残して死んでしまいました」
「どのような地獄にでも耐えます」
老人が「お前には」「耐えられない」と答える
構わない
死の国では、生者の世界の幾千分の一の速さでしか時は流れないという
説得の時間はたっぷり有った
─────
そして僕は蘇った
柩の扉はまだ釘が打たれて居なかったらしく、押すとそのままに持ち上がった
辺りを視渡す
真っ暗な部屋の中、一箇所だけ光の漏れる場所が在った
木で出来た戸の隙間から、隣室の光が漏れ出して居るのだ
戸は施錠されて居たが、押すと難なく扉が割れた
焼き菓子が砕けるみたいに、ぼろぼろに扉が壊れていく
そこから這い出して隣室へ出ると、ご主人様がそこで待って居た
ご主人様は椅子にかけていらっしゃったが、僕を視るとぎょっとして僅かに(本当に僅かにだが)後ずさった
「戻って参りました」
僕はそう言ったつもりだったが、喉がごぼごぼとするばかりで声にならない
諦めて、愛と変わらぬ忠誠を示す為にご主人様を抱きしめる
躰の触れ合った部分から皮膚越しに、ばきばきと骨の曲がり折れる音が聞こえた
どうしてしまったのだろう
眼の前に在るものが理解出来ない
ご主人様は、糸の切れた操り人形みたいに手足を滅茶苦茶に投げ出して、それから二度とまばたきをしなくなった
どうしてしまったのだろう
屈んで、ご主人に触れる
良い匂いだ
『美味しそう』という言葉が頭に浮かんだが、その意味が僕には解らなかった
飢えている
パンを千切るみたいに、ご主人様の躰を毟る指が在った
これは誰の手なのだろう
その手はゆっくりと、僕の口の方へ肉を運んでくる
嫌だ
嫌だ
嫌だ
食べたくない
にも関わらず、その肉は経験した事がないくらいに甘かった
僕は泣きながら、それでも口の端を吊り上げた




