第3部 交差の魔導士 外伝(意識の船へ) ep.1 神話の世界
― 交差の魔導士 外伝(意識の船へ) ―
『神話の世界』
神話の神が支配する世界があった。
そこには、女神が魔力の全てを統べる、静かで整った世界が広がっていた。
人々は女神から「魔具」と呼ばれる道具を与えられていた。
火を熾す魔具、水を浄化する魔具、病を癒やす魔具。
それらは人の生活を根底から支えるものであり、人々はそれを疑うことなく受け入れていた。
魔力は人の内にあるものではない。
それは女神から与えられるものであり、魔具を介してのみ行使される――
それが、この世界の「常識」だった。
人々は自ら考え、工夫を凝らすことを次第に忘れていった。
そして彼らが何よりも恐れていたのは、魔具が動かなくなることだった。
それは、美しく整えられた世界だった。だが同時に、脆さを持つ世界でもあった。
女神は人に人としてあるべき道徳、教義を教え、それにより人々が平和に暮らす時代は、長く続いていた。
人の王は女神に支えられ、長きに渡り平和な統治を行っていた。
だが、世界は広がり続けた。
人口は増え、街は拡張され、女神の魔力が届く範囲は相対的に薄まっていった。
貧困に喘ぐ者が現れ、教義を極端に解釈し、互いを裁く者たちが生まれた。
神話は、静かに、少しずつ綻びを見せていた。
そのことに、女神自身も気づいていた。そして、悩んでいた。
人の勇者テセウスも、女神に仕える者の一人だった。
聖剣を取り、世界を守る役目を担う彼は、人々から尊敬を集めていた。
彼には幼い娘アンがいた。
かつて妻もいたが、数年前、病によって亡くなっていた。
その病は、過去の例からすれば、女神から授けられる癒やしの薬で治る可能性の高いものだった。
だが、薬は効かなかった。妻は静かに息を引き取った。
テセウスは、勇者としてではなく、一人の人間として迷った末に、女神に問いを投げかけた。
なぜ、薬は効かなかったのかと。
女神は肩を落とし、静かに語った。
世界が大きくなりすぎたこと。魔力の巡りが均等ではなくなっていること。
その結果、癒やしの力が、彼女の意図した通りに効果を発揮しなかった可能性があること。
女神は、テセウスに詫びた。
その姿を前に、テセウスは女神を責めることが出来なかった。
それが妻の運命だったのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
だが同時に、彼の胸には小さな疑念が残った。
――もし、女神の力が永遠ではないのなら。
――もし、この世界が、女神に依存しすぎているのだとしたら。
その疑念は、まだ言葉にはならなかった。だが確かに、彼の中で芽生え始めていた。
『異能者』
世界の片隅、雪に閉ざされた小さな村に、一人の旅人が現れた。
名をレイといった。
村は凍てつき、薪は尽き、魔具はすでに動かなくなっていた。
女神の加護を失った村は、静かに滅びを待つしかなかった。
レイは事情を聞くと、躊躇いもなく手をかざした。
炎が生まれ、凍った空気を押し返すように、村の中心に灯がともる。
人々は息を呑んだ。
魔具ではない。祈りでもない。
ただ、彼自身の内側から溢れ出した魔力だった。
別の土地では、水が枯れた村に雨を降らせた。
病に伏せた子に、癒やしの光を注いだ。
そのすべてが、教義にも神話にも記されていない奇跡だった。
人々は囁き合う。
「彼は人なのか」
「新たな神なのか」
「それとも、神話の終わりを告げる者なのか」
だがレイ自身は、そんな問いを意に介していなかった。彼にとって魔力は、特別なものではない。
彼はこの世界の仕組みをほとんど知らない。
魔具が配給された奇跡であることも、人々が女神に依存して生きていることも。
ただ、困っている人がいて、自分に出来ることがあるのであれば、手を差し伸べる。それが当然だと思っているだけだった。
だが、その素朴な善意は、世界を揺るがし始めていた。
「魔具がなくても、奇跡は起こせる」
その事実は、人々の信仰の根幹を静かに侵食していく。
やがて噂は、女神のもとにも届く。
女神は世界の行く末に強い危機感を覚えるのであった。
『異能の排除』
女神は決断した。
レイを――異能者として排除せよと。
それは神話という秩序を維持するための、強く静かな選択だった。
神の意志は、王を通して世界に布告される。
「魔具を介さず奇跡を行う者は、世界の調和を乱す存在である」と。
人間の王は、神の力の支援を受け、討伐軍を編成した。
テセウスも聖剣を授けられし勇者として、戦いの最前線に立っていた。
テセウスは、命に従った。
だが胸の奥で、消えない違和感が疼いていた。
妻を失ったあの日。
神の癒やしが届かなかった理由。
世界が広がり、神の力が行き届かなくなっているという女神の言葉。
――もし、それが真実なら。
この世界の問題は、**「異能者」ではなく、「神に依存し切った世界そのもの」ではないのか。
そしてテセウスは思う。
レイという存在は、その問いの答えを握っているのではないか、と。
一方、レイもまた、この世界の構造を理解し始めていた。
自分が奇跡を起こすほど、人々は神から遠ざかる。
そしてその代償を、守ろうとした人々が支払わされる。
討伐軍が迫る中、村人たちが農具や壊れた聖遺物を手にレイを守ろうと集まり出していた。
レイは冷たく言い放った。
「やめてくれ。君たちが僕に味方すれば、女神はこの村を永遠に見放すだろう。それは僕が一番望まないことだ。」
レイは冷徹を装い、一人で戦場に向う。
レイは数多の戦士、騎士たちを退け、ついにテセウスと対峙する。
聖剣を振るうテセウス。
傷を抱え、魔力の流れも不安定なレイ。
彼は、最初から完全ではなかった。未来からこの時代に現れる前から魔力に傷を負っており、彼の時空の魔術は使えず、劣勢に立たされていた。
激戦の末、レイは膝をついた。
テセウスは剣を構えたまま、問いかける。
「あなたは、一体何者なんだ。」
レイは答える。
「今、あなたの目に見えている世界は、すべてのほんの一片に過ぎません。」
その続きを語ろうとした瞬間、後方から女神の魔力が奔流となってレイに向かって放たれた。
眩い光。
圧倒的な神威。
その光は、レイに止めを刺した。
その眩い光は、レイの存在そのものを消し去ってしまった。
討伐は成功した。
神話は守られた。
だがテセウスの耳には、レイの最後の言葉だけが、いつまでも消えずに残っていた。
『魂の侵食』
異能者レイの排除は、神話の勝利として語られた。
王都に凱旋したテセウスを迎えたのは、歓喜に沸く民衆と、穏やかな微笑みを浮かべる女神の祝福だった。
英雄。
神に選ばれし剣。
世界を守った勇者。
称賛の言葉は尽きることがない。だが、テセウスの胸中は、奇妙な静けさに満ちていた。
その夜からだった。彼の耳元で、風が囁くようになったのは。
眠りに落ちるたび、見知らぬ風景が脳裏をよぎる。
そして――自分ではない誰かの視点。
それは、レイの記憶だった。
彼が歩んだ旅。
助けた人々。
手を取り合った仲間たち。
彼がこの過去の世界へ辿り着いた理由。
それは征服でも、神への反逆でもない。
――世界の消滅を防いだ結果の末のことであった。
テセウスはレイが消滅した瞬間を思い出す。
あの瞬間、レイからテセウスに乗り移ったものがあった。
それは、風の精霊だった。
日が経つごとに、風の精霊からテセウスにレイの記憶や彼に起きた出来事が鮮明に蘇る。
それと同時に、テセウスの身体の中で眠っていた魔力の回路が、彼の意志とは無関係に起動していた。
聖剣を手にしなくとも、この世界を構成する「陽」「陰」「真」「虚」の魔力が、血流のように巡る。
女神が教義として教えてきた「魔力は神が与えた魔具を介さねば扱えない」というルールが、
実は、魔力を制限する為の巧妙な仕組みであるように思え、その考えに至った瞬間、テセウスは戦慄する。
私は、私なのか。
それとも、彼なのか。
彼の魂は、私の中で生きていると言えるのか。
それとも私は、すでに侵食され始めているのか。この先、私はどうなるのか。
答えを求め、テセウスは親友である世界の王を訪ねた。
彼は全てを打ち明けた。
討ち倒したはずの異能者の記憶が、自身に宿っていること。
そして――その記憶には、レイは間違ったことなどしていなかったこと。
「魂とは、積み上げられた過去の自分を、まだ見ぬ未来の自分に託し続ける営み――
そんな気がしてなりません。」
私には、あの魔導士の魂が宿っているように思えるのです。
彼の過去を見て、彼の存在は、決して間違いではなかったと。
彼の過去は、間違いなく "勇者"、いや "英雄" でした。」
王は、すぐには答えられなかった。彼自身もまた、世界が軋み始めていることを感じていたからだ。
「……テセウス。それは、神の意向に反する考えだ。容易に賛同することは出来ない。だが……少し、考えさせてくれ。」
二人は、その場で言葉を切った。
テセウスが部屋を出た、その瞬間。
王の背後に、女神が現れた。
「テセウスは、異能者の魂に侵されている。手遅れになる前に、排除しなければならない。」
王は振り返り、声を震わせる。
「……そんな。テセウスを、救うことは出来ないのですか。」
女神は、首を振った。
「出来ない。」
その一言に、王は走り出し、扉を開け、叫ぶ。
「テセウス!逃げるんだ!」
その瞬間――。テセウスの目前に、女神の使徒たる精霊が出現する。
鋭い殺気。
「しまった……。さっきの会話を、神に聞かれていたか……!」
テセウスは魔力を発動。
精霊をなんとか振り切り、窮地を脱する。
女神は事の顛末を見届け、王の背後で囁く。
「友を助けたい気持ちは理解する。だが、王として、大局を見よ。それとも、お前も私に背く気か?」
王は、言葉を失った。
『逃避する親子』
神から追われる身となったことで、テセウスの中にあった疑問は、もはや否定しようのない確信へと変わっていた。
幼い娘アンの手を取り、テセウスは王都を後にした。
かつて、凱旋の行進で踏みしめた石畳。今は夜陰に紛れ、誰にも見られぬように通り過ぎる。
街道を外れ、森へ。さらに崖を迂回し、獣道を進む。
追跡の精霊は、容赦なく空を裂いて飛ぶ。
かつては勇者として、何処でも歓迎と祝福で出迎えられていた男。
今やあらゆる町、村々で指名手配とされる身となっていた。
正体が露見しないように、目立たずに人を忍ぶように歩く二人。
アンは黙って歩いていた。だが、心の中では戸惑いが渦巻いていた。
アンは亡くなった母のネックレスを握りしめる。
いつもは厳しかった父。
剣の構え、礼儀、覚悟――勇者として、決して甘えを許さなかった父が、逃避行の最中では、何度もアンを振り返り、庇い、気遣っている。
その優しさが、アンには少しだけ、不思議だった。
森を抜けようとしたその時だった。
突然の殺気が空気に漲っている。
女神の追跡精霊が、風を裂いて降り立った。
テセウスは即座にアンを抱き寄せ、斜面を転がるように逃げる。
精霊の刃が、アンの胸元をかすめた瞬間――金属音が鳴り響いた。
アンが大切に抱えていた、母の形見のネックレス。
留め具が弾け、宝石が外れて地面を跳ね、闇の中へ消えていく。
「……っ!」
アンは声を上げかけ、テセウスは歯を食いしばる。
拾いに戻れば、終わりだ。
彼は娘を抱き上げ、そのまま走り続けた。
命と、思い出の天秤は、残酷なほど一方的だった。
辛くも危機を脱した二人だったが、
アンはその夜、悲しさで眠れそうになかった。
その様子にテセウスは、アンの髪を撫で、静かにおとぎ話を語り始めた。
「光と闇、炎と水の魔法に満ちた世界があってね。少年が風を使って旅をする。そこには神様はいなくて、時々喧嘩もするし、失敗もする。
でも、みんな自分の力で明日を選んでいる……そんな不思議な世界の物語だよ・・・」
テセウスはアンにそんなおとぎ話を聞かせるのであった。
アンはしばらく黙って聞いていたが、やがて、小さく笑った。
「父さん、なんだか……少し変わった。ちょっと優しくなった。」
「そ、そうか・・、変かな?」
「そんなことないよ。とってもいいよ。」
テセウスは安息の地を求め、目指す。
そこは、異能者レイが、最初に救ったという、あの村。
そこでは、人々の間で“魔力が自分の中に芽生え始めている”という噂が流れ、また、女神の力が届きにくくなっているという。




