椎名クレハは棋士だった
小学生に凄い強い子がいる。
将棋という狭い世界の中で、その子の名前は広がっていた。
中学生で棋士になる6人目と期待されていた。
けれど、その子は、何処かへと消えた。
パチンっと木と木がぶつかり合う音が、少女の部屋でする。
「お姉ちゃん、手加減してよー」
「飛車と角落とし落としているでしょ」
「だって、でも、スト」
「待ったはないの。これで詰み」
ベッドに背を預けたまま、彼女は歩を進めた。
「アサナは、もう少し盤面を俯瞰しないといけないよ。自分がどう攻めたいかばかり考えていると、相手の意図を見落とすよ」
「むぅ、わたし、強いもん。年齢差だもん」
「わたし、アサナと同じ歳のときにーー」
「わーわー、時代が違うー」
「時代って。5歳しか離れてないのに」
姉妹は、また将棋をさす。
姉はベットから手を伸ばして、妹は立った状態で。
机の上の将棋盤に何度も何度も対局が刻まれた。
小学生の中に、少し見どころのある少女がいると噂があったそうな、なかったそうな。
どちらかというと、容姿が綺麗整っていて、それでいて同い年の男子にも負けないぐらい指せたから、少女は少女として期待されていた。
中学生棋士にはとてもなれないし、タイトル戦も遠そうだった。
けど、少なくとも、少女には、未来が感じられた。
高校生の女子が奨励会三段リーグにいるというニュースがチラホラと世間では流れていた。
成績は特によくもなくも悪くもなく、停滞した一年を他の多くの三段リーグの人と同様に過ごしたそうだ。
まだまだ若く年齢制限も遠い。
だけど、鬼の三段リーグの壁は厚そうだった。
高校生も時間が経てば、大学生になる。神童や天才も凡人になり、どんな期待もだいたいの目安が分かってくる。
人生という道半ばの手前ーー。
椎名アサナは、プロ棋士になった。
その年の三段リーグから四段に上がる大本命だった。勝率も安定していて、序盤中盤終盤、隙のない丁寧な指し回しだった。
ワイドショーは、初の女性棋士の誕生に盛り上がっていた。
「わたしの師匠は姉さんでした」
椎名アサナは、そう言った。
当然、椎名アサナのプロ棋士の師匠は、浅葱九段だった。
「それは、お姉さんが支えてくれたということでしょうか」
「いえ、わたしの将棋の人生で、最もお世話になったのが姉さんでした。姉は、椎名クレハは間違いなく棋士でした」
「姉妹ともにお強かったわけですね」
「いいえ。姉さんが強かっただけです。わたしは追いすがって必死で、ようやく山麓の前です。まだ背中も見えていません。多分、いまでも姉さんと対局をすれば、十中八九負けます」
「それは、そのー」
「わたしが少し話しましょう。よろしいですか」
「浅葱九段、お願いします」
「彼女の姉もわたしの弟子でした。そして、間違いなく将棋の神に愛された人でした。わたしは、彼女が6人目の中学生のプロ棋士になってもおかしくないと胸を高鳴らせていました。
けれど、彼女は永くはなかった。難しい心臓の病気だった。そして、彼女は、すぐに奨励会からいなくなりました。全力で生き急げば、プロ棋士になれるんじゃないかと、言ってみましたが、彼女は、そうしなかった。
いなくなった後、椎名クレハは、ずっと妹と将棋をしていました。負担の少ないようにベッドで寝た状態で」
浅葱九段は、淡々と話しながらも、目元が潤んでいた。ワイドショーがしんみりとしているなか、椎名アサナは話のバトンをつかむ。
「姉さんのおかげで、歩のように一歩一歩ずつでしたが、プロになれました。これからも姉に恥じない将棋を指していきたいと思います」