眠る君と過去の影
深夜1時過ぎ。
蒼真は咲希の寝息を聞きながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
隣では彼女が静かに眠っている。柔らかな髪が肩に触れ、彼女の体温がシーツ越しに伝わってくる。仕事で疲れているはずの彼女の寝顔は穏やかそのもので、今にも笑いだしそうな微笑みを浮かべていた。
「いい顔してるな…」
蒼真はそっと彼女の髪を撫でた。
ついさっきまでソファで映画を見ていたときとは違う、無防備な彼女の姿に愛おしさがこみ上げてくる。付き合ってまだ数ヶ月。彼女の新しい一面を知るたびに、蒼真の中で「好き」という感情はどんどん膨らんでいった。
けれど、それと同じくらい、彼の中に燻る不安があった。
咲希の過去――特に蓮の存在が
どうしても頭を離れない。
あの日、共通の友人・健太が何気なく口にした話が胸に刺さっている。
「蓮って知ってる?咲希の前の彼氏。」
「いや、知らないけど…なんで?」
申し訳なさそうに、健太は目を逸らした。
「結構長く付き合ってたらしいんだよね。別れた後も、咲希がしばらく引きずってたっぽいって聞いたことある。」
「……そうなんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中にモヤとしたどす黒い濁っているような感覚があった。平静を装いながらも、その話が妙に引っかかっていた。
健太はさらに続けた。
「蓮ってやたらと咲希に尽くしてたらしいんだよな。旅行とか、記念日とか、毎回盛大に祝ってたって噂だよ。」
「そっか、すごいな。」
自分でも驚くほど冷静な声で返したけれど、その時からずっと頭の中に蓮の影がちらついている。
ふとした瞬間、咲希の笑顔や仕草の奥に、蓮という存在を感じてしまうのは、気にしすぎなのかもしれない。でも――それを気にせずにいられるほど、俺は大人じゃない。
蒼真の中に、ふと過去の記憶が蘇る。
これまで付き合った人たちは、みんな同じことを言っていた。
「蒼真って優しいよね。なんでも受け入れてくれるから、居心地がいい。」
でも、居心地がいいだけの関係は、長く続かなかった。相手が不満を抱く前に、蒼真自身がどこか冷めてしまうことが多かった。
恋愛なんて、適度な距離感があればうまくいくものだと思っていた。
けれど、咲希と出会って、その考えはあっけなく崩れた。
彼女の無邪気な笑顔や、不意に見せる弱さ。そんな一つ一つが、蒼真にとって「もっと近づきたい」と思わせる理由になった。彼女の心をもっと知りたいと思うのは初めてだった。
だからこそ――彼女の中に蓮の影を感じるたびに、どうしようもない嫉妬が胸を刺す。
彼女と蓮がどういう関係だったのか、詳しく知るつもりはなかった。
それでも、たまに咲希の瞳の奥に宿る、どこか遠くを見つめるような視線に、蒼真は彼女の心が完全に自分のものではないような気がしてしまうことがあった。
数週間前、彼女が何気なく言った言葉を思い出す。
「蒼真って、あんまり嫉妬とかしないよね?」
「そんなことないけど?」
「でも、私が誰と話してても気にしないって感じ。蓮はすぐに焼きもち焼いてたのに。」
「…また蓮かよ。」
その時は軽く流したつもりだった。けれど、彼女が軽々しく口にするその名前に、心の奥で何かが引っかかった。それが今、再び鮮明に蘇る。
静まり返った寝室。エアコンの微かな音と、咲希の規則的な寝息だけが耳に届く。
隣で目を閉じる彼女は、時折小さく身体を動かしながら、無防備な姿をさらしている。薄暗い明かりに照らされたその顔は穏やかで、夢の中で何か心地良いものを見ているようだった。
「その夢の中に、俺はいるのか…?」
蒼真はそっと彼女の髪を撫でた。
彼女が次に呼ぶ名前は、必ず自分のものでなければならない――そう誓う。
過去なんてどうでもいい。お前が好きなのは、今この瞬間、俺だということを証明する。それまで、何度だってお前を抱きしめてやる。
蓮の影を、この手で消してみせる。どんな手を使ってでも。