番外編① 大切にするということ(中編)
二人の元にやってきたシェルは、屋敷にいる間は常にエレオノーラにくっついていた。食事は隣に座りたがるし、エレオノーラの手を繋いだり抱きついたりすることも少なくない。いくら彼の正体が小さな愛らしいタツノオトシゴとは言え、今の姿はどこからどう見ても人間の少年だ。その度にギルバートの視線が気になるが、彼は特に気にもせずに普段と同じように振る舞っていた。
その日は、シェルがどうしても海で遊びたいと言うので三人で砂浜へ遊びに来ていた。エレオノーラも人魚の姿のまま、たっぷりとした巻き毛を海風になびかせる。シェルは人間の姿のまま、薄手のシャツを着てパンツを履いていた。
シェルがニコニコと笑いながらエレオノーラの手を引く。
「早く海に行こうよ、エレオノーラ。ほら、あそこにお魚がいる!」
「ギルは行かないの?」
シェルに手を引かれながらエレオノーラが振り向くと、砂浜でギルバートが二人を呆れたように眺めていた。一応水に入る格好はしているものの、海に入ろうとする様子はない。不思議そうに首を傾げるエレオノーラをみて、ギルバートがため息をついた。
「俺は付き添いで来ているだけだ。お前達に何かあっても困るからな」
「海で僕らに何かあるわけないじゃないか。ギルバートは泳げないんだろ?」
「俺を誰だと思っている。海を渡ることの多い殿下が海難事故に遭った際に救助するのも俺の仕事だぞ」
シェルの挑発めいた言葉にも動じることなく、ギルバートが冷静に返す。その態度に納得いかなかったのか、シェルがむぅと口を尖らせていきなりエレオノーラに抱きついた。
「きゃぁ! ちょっとシェル、どうしたの?」
「どうしてギルバートは僕がエレオノーラに触っても怒らないんだい? 君がそういう態度なら僕がエレオノーラを取ってしまうよ」
「俺が海生物相手にいちいち目くじらを立てるとでも?」
「余裕ぶるなよ。僕はエレオノーラと遊んでくるから、ずっと人魚姫の気持ちに気付けなかったカタブツの唐変木はそこらへんで剣でも振っていればいいじゃないか」
「こいつ……言わせておけば」
「行こ、エレオノーラ」
そう言ってシェルがエレオノーラの手を引いて波打ち際まで歩いていく。シェルに手を引かれながら振り向くと、ギルバートが腕組みしながらため息をついている姿が見えた。
「シェル、ギルにあんなことを言わないで。私の大切な人なんだから」
「ギルバートはエレオノーラがどうなったっていいと思っているんだよ。だって全然君に構ってくれないじゃないか」
「そんなことないと思うけど……」
海の中に入りながら、ちらりと砂浜に視線を送る。彼は今、砂浜に腰をおろしながらじっと自分達のことを見ていた。人魚である自分は海で溺れることはないし、今は人間の姿をしているシェルも、海のことなら熟知している。彼が何を警戒しているのかはわからないが、それでも自分達を心配して来てくれているのはよくわかった。
砂浜にぽつんと置き去りにされている彼になんとなく申し訳ない気持ちになりつつも、エレオノーラはシェルに導かれるままに海の中へ潜った。
故郷の海は青く透き通るように澄んでいた。海底を薄紅のさんごが彩り、小魚達が出す泡が光に反射して虹色に輝いている。久方ぶりの海中でシェルと戯れながらも、エレオノーラの心はずっと波打ち際に佇む彼に寄せられていた。
※※※
その晩、エレオノーラは寝支度をしてベッドに入ってきたギルバートの背中にピタリとくっついた。何事かとこちらを見るギルバートの顔に近づき、指でそっと眉間をなぞる。
「何をしている」
「眉間のシワを伸ばしているの」
「…………」
ギルバートが呆れ顔でこちらを見てくるが、それでもエレオノーラの手を払いのけることは無かった。彼の胸板の上に上半身を預けながら、じっとその端正な顔を見つめる。
「なんだかまたちょっと気難しい顔をしている気がするわ」
「そうか。心配かけたな」
「シェルのこと、気になる?」
「……お前の大切な友達だろう、俺がどうこういう筋合は無い」
「うん……シェルがね、ギルがヤキモチを妬かないから心配をしているみたいなの。ちゃんと仲良くやってるのかって」
「はっ。くだらん、ガキの発想だな」
ギルバートが呆れ顔で一蹴する。だが、自分を見つめる青い瞳を見て軽くため息をつくと、ゆっくりと身を起した。そのまま腕を伸ばし、ベッドの隣に置いてある小さな戸棚の引き出しを開ける。
中から出てきたのは小さな瓶だった。中には綺麗な石や貝の欠片がたくさん入っていて、まるで虹色の砂のように輝いていた。エレオノーラが首を傾げていると、ギルバートが瓶を手に取り、エレオノーラの目の前に置く。
「なぁに、これ」
「まぁ、覚えてはないだろうな。幼い頃、お前がくれたものだ。よく拾ってきて俺にくれただろう?」
「確かにそんなことをしていた気もするけど……もしかして全部取ってあるの?」
驚いて彼の目を見ると、ギルバートが赤くなった顔を隠すかのようにフイと視線をそらす。小瓶を手に取り、優しく揺らしてみると、中の貝や砂がカシャカシャと軽やかな音を立てた。
確かにエレオノーラは、海の底で拾ってきた海や綺麗な石をよくギルバートにあげていた。会うたびに人間の世界やエドワルドの話をせがんでいたことのお礼でもあったが、それよりも森の中の泉に遊びに来る彼の顔がいつも泣きそうに歪んでいたからだ。会うたびに喧嘩ばかりしていたが、憎まれ口の奥に潜む彼の悲しそうな顔はいつも気になっていた。
「こんな昔の物まで取ってあると思っていなかったわ。ギルは昔から私との時間を大事にしてくれていたのね」
「俺の幼少期はあまり良いものでは無かったからな。俺が色々な重圧に押されていた時も、お前は貝が綺麗だの光る石を見つけただの能天気なことばかり俺に話していた。それでも」
言いながらギルバートが腕を伸ばし、エレオノーラの頬に手を添える。
「お前の無邪気さに救われていたよ」
端正な顔が近付いてきて、額に柔らかいものが触れる。おでこにキスをされたのだと気付いた瞬間、エレオノーラの胸がカッと熱くなった。赤くなった顔を見せるのが恥ずかしくなり、ギルバートの胸元にしがみついて顔を埋めると、太い両腕が伸びてきてしっかりと抱き締めてくれる。
この気持ちには、覚えがあった。
――ねぇギル、お金ってどういうもの? 見せて。
――お金? そんなもの海の中では使わないだろ。まぁ、良いけど。
閉じた瞼の裏に映るのは、森の奥にある泉で遊んでいた頃の幼い自分達の姿だ。彼がやってくる度に、隣に意中の王子様がいないことに落胆しながらも、仏頂面をしている彼が気になって仕方なかったのは、その男の子がいつもどこか泣きそうな顔をしていたからかもしれない。
幼いエレオノーラは泉の縁に座り、尾ひれを水につけながらピタリと少年姿のギルバートに寄り添う。彼は懐から何枚か硬貨を取り出して手のひらに並べていた。
ギルバートの説明を、エレオノーラは無心で聞いていた。人間の世界のことをもっと知りたくて、夢中で硬貨を眺めていると、隣から腕が伸びてきてそっと自分の髪を掬い上げる。はっとして顔をあげると、彼の灰色の瞳がこちらを向いていた。
「ギル?」
「髪が顔にかかっていたから……よっぽど真剣に聞いていたんだな」
「あ、ごめんなさい」
慌てて謝ると、ギルバートが掬った髪をそのまま耳にからげてくれる。指先が頬を掠めた瞬間、エレオノーラの胸が微かな音を立てた。でもその胸の内に宿る熱の正体がわからなくて、エレオノーラは慌てて視線を下げた。
「私も人間の世界に行ってみたいなぁ」
「そうか? 別に楽しいことなんてないと思うけど。逆になんでお前はこっちに来たいんだよ」
「だって一人ぼっちは寂しいもの。でもね、ギルがお話してくれるから寂しくないわ。ね、これからもここに来て、お願い」
「お前がそう言うんなら……来てやらなくもないけど」
「本当に? 嬉しい。ねぇ今度はエドワルド様も連れてきて。私、エドワルド様とお話したい」
「……殿下は忙しいんだ。お前に会う為だけに、来られるわけないだろ」
「どうして? だってここに来る度に、君に会いたかったよって言ってくれるわ。エドワルド様だってここに来たいって思ってくれてるはずよ」
「あれは公務でこの近くに来ている時についでに寄ってるだけだ! もう少し考えろ、馬鹿」
「馬鹿ですって! まぁなんて酷いことを言うの! そんな意地悪を言う人なんて、私嫌いだわ!」
「俺だってお前みたいな可愛くないやつはごめんだよ!」
幼い胸の内に響く甘い恋の囁きは、最終的にはお互いへの憎まれ口で隠されてしまっていたけれど。
きっと自分達はもうずっとずっと前から――自分達が自覚する前から――お互いに同じ気持ちだったのかもしれない。
今、ベッドに横たわりながら頭を撫でてくれるギルバートの手は驚くほど優しかった。まるで壊れ物を触るかのように、大事な思い出に触れるかのように、指先ひとつひとつに気持ちが込められている。
少し骨ばった温かくて大きな手の温もりを感じながら、エレオノーラはギルバートの胸に顔を埋めた。
今更言葉にする必要なんてない。
彼が自分を愛してくれているのは、もう十分に伝わってくるのだから。
「今日は私が抱きまくらにしてあげるわ」
「……なんだそれは」
ギルバートの広い背中に手を回しながらクスクス笑うと、上から苦笑まじりの低い声が降ってくる。
エレオノーラは温かい腕に包まれながら静かに目を閉じた。




