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第5話 人間になる薬

  エレオノーラが話し終えると、シェルが合点したかのようにくるりと水中で一回転する。


「なるほど、君がエドワルドのことを好きになったのはそういうことか。それでもエレオノーラ。人魚は人間と結婚できないじゃないか。もしエドワルドが君の気持ちに答えてくれた時はどうするんだい?」

「その時はおかあさまに相談するわ。人魚はね、人間の体になれるのよ」

「人間の体に? 本当かい? そういえば君を育てたのはウミヘビの一族だったね」

「そうよ。人魚の世界にはね、昔から伝わるおとぎ話があるの。王子様に恋をした人魚姫が、声と引き換えに人間の体をもらって海の上へ行くお話よ」


 そう言うと、エレオノーラが静かな声で語り始めた。


 それは海の悲しい、恋の物語。


 王子に恋をして陸にあがった人魚姫は王子に恋人ができたことを知って嘆き悲しむが、最終的には彼に思いを告げることなく泡となって散ってしまう遠い昔のお話だ。

 エレオノーラの話を聞いたシェルが、切なそうにその黒い目を瞬かせる。


「とても悲しいお話だね」

「そうね。それでも、ひとときでも好きな人と一緒に生活できたのは羨ましいわ」


 そう言ってエレオノーラは静かに目を伏せた。脳裏にウミヘビ達の言葉が蘇る。

 

 ──人魚姫はバカな女だよ。人間の男に恋をして、無駄に命を散らして。

 ──そのせいで私達が面倒なことを抱え込むことになったんだよ。私のばあさんが人魚姫の為に海の精霊と取引なんてしちまうから、その後大貝から生まれる人魚を必ず育てなきゃいけなくなっちまった。

 ──他の人魚が住んでいる海に連れて行こうとしても、不思議とすぐに死んでしまう。ああ恐ろしや。人魚姫の呪いがこの海に縛り付けているのかもしれない。

 ──今度生まれた人魚がこの子かい? 面倒だが、捨ててもまた生まれてくるんだから育てるしかないねぇ。

 

 エレオノーラがおとぎ話の人魚姫のことを話すとウミヘビ達は口々に彼女を(ののし)った。

 海の世界は一人で生きていくには広すぎる。だからエレオノーラは人間の世界に憧れていた。互いに愛し合い、寄り添って生きる人間たちはエレオノーラの夢そのものだった。


「私いつか人間の世界に行きたい。人間として生きてみたいの。そして叶うならずっとエドワルド様の側にいたいわ」

「君がいなくなってしまったら、僕が悲しいよ」

「でも私はもうひとりぼっちは嫌なの。その時はシェル、あなたもついてきてくれる?」

「もちろんだよ、エレオノーラ。君がどんな姿になったって僕はずっと君の友達だ」


 シェルの言葉にエレオノーラは微笑んだ。同時に心の中に一つの決意が生まれる。

 エドワルドが自分の気持ちに答えてくれる素振りを見せないのは、人間と人魚という種族の壁があることが大きいだろう。だが、もし自分が人間の体を手に入れたらどうだろうか。彼の真意はわからないが、少なくともあの時洞窟で彼がしてくれたキスに甘い熱を感じたのは本当だ。


「シェル、お話を聞いてくれてありがとう。私、おかあさまに相談してみるわ」


 エレオノーラの言葉にシェルがコクリとうなずく。小さな友人に勇気をもらったエレオノーラは、彼に手を振ると尾ひれをくゆらせて海の奥へと泳いでいった。



※※

 


 明るい色をした海の中を泳いでいくと、視線の先に岩で出来た塔のようなものが見えてきた。山のように高く、ここら一体では最も巨大な建造物だ。所々に大きな穴が開いており、そこから何匹ものウミヘビが出たり入ったりしている。エレオノーラは最上階まで泳いでいき、てっぺん付近の穴から中へ入った。

 中は簡素な部屋になっていた。海草が敷き詰められた寝台と、岩でできた椅子がちょこんと置いてあり、その椅子にウミヘビが腰かけていた。

 上半身は人間の体をしているが、下半身はヘビのようになっており、その体は黒と白の斑模様で彩られている。背中まである艶やかな黒髪を水中にふんわりと広げ、は虫類を思わせる細い瞳孔と金色の瞳はどこを見ているのかぼんやりと水中をさ迷っていた。まだら模様の体をとぐろを巻くように折りたたみ、尾の先を水中にくゆらせている。


「おかあさま」


 エレオノーラが呼び掛けると、ウミヘビはゆっくりとこちらを向いた。見た目は若い女の姿だが、何百年もの歴史を見てきたその金色の老獪な目が真っ直ぐにエレオノーラを捉える。


「なんだ」


 少し低めの、しゃがれた声だった。育ての親と言えど、エレオノーラは未だに彼女とうまくしゃべることができない。エレオノーラはきゅっと両手を胸の前で握ると、彼女の金色の瞳をしっかりと見つめた。


「おかあさま……私、人間になりたい」


 意を決して放ったエレオノーラの言葉に、ウミヘビが射るような視線を向ける。


「やはり来たか。大貝から生まれた人魚は皆陸に上がりたがるというのは本当だったのだな。お前も人間の男に恋をしたのか」

「はい。私、どうしても人間になりたいんです」


 エレオノーラの言葉にウミヘビが頷き、とぐろをほどいて部屋の後ろに備え付けられている飾り棚の方へと泳いでいった。手の中に収まってしまいそうな程に小さな瓶を棚から取ると、エレオノーラのもとへスイと泳いでくる。小瓶を手渡されたエレオノーラはしげしげとその瓶を眺めた。

 何の変哲もない、空っぽの瓶だ。彼女の意図がわからず、困ったようにウミヘビを見上げると、ウミヘビは無表情で瓶を指差した。


「今から海の精霊と契約をするんだ。お前が人間になりたいと願うなら、精霊に向かって祈りをこめろ。なぜ人間になりたいのか、その理由をしっかりと祈りにのせるんだ。そうすれば、海の精霊はお前に力を与えてくれる」

「はい……わかりました」


 ウミヘビに言われるがままに瓶をしっかりと両手で握りしめると、エレオノーラは静かに目を伏せた。

 頭の中で想い人の姿を思い浮かべる。蜂蜜色の金髪と優しそうな新緑の瞳。彼の隣にずっといたいと願いを祈りにこめると、ほんの一瞬だけだが、あの冷たい灰色の瞳を持つ彼の顔も脳裏によぎった。

 祈りを終え、静かに目を開ける。手の中の瓶は何も変わっていなかった。

 否、次の瞬間には目の前にふわっと真珠色の光が現れ、海の水に溶けるかのように左右に光を散らす。あっと声をあげる前にその温かい光は螺旋を描き始め、まるで小さな竜巻のように瓶の中にしゅるりと収まった。

 いつの間にか手の中の小瓶には、真珠色の液体が入っており、揺らすと微かにちゃぷん

 と水音がする。驚いてウミヘビを見ると、彼女は鷹揚に頷いた。


「その薬を飲めばお前は人間になれる。ただし、薬の期限はお前がそれを飲んでから一年だ。冷たい海の氷が溶け、海に花の匂いが混じるようになるまでにお前が想い人と結ばれなければ、お前は泡になって消える。お前がもし想い人と結ばれないと悟ったのなら、そいつを殺せ。そうすればお前は人魚に戻れる」


 ウミヘビがエレオノーラの手から瓶を取り上げ、瓶の上についている小さな輪に細い鎖を通す。鎖を通した小瓶を受け取り、エレオノーラはそれをじっと見つめた。

 想い人と結ばれなければ泡になって消える。人魚に戻りたければ想い人を殺す。一度この薬を飲めば、愛する人と結ばれるか殺すかの二択を迫られるのだ。使う時期は慎重に見分けなければならない。

 鎖を首にかけ、瓶を喉元にくるように調節していると、横でウミヘビが大きなため息をついた。


「一体いつからこんなことになったのかわからないけど、面倒なことだ。私はこれを人魚姫の呪いだと思っているよ」

「呪い?」

「ああそうさ。王子を人間の女に取られ、嫉妬に狂ったまま海に身投げした人魚姫の無念がこの現象を生み出したに違いない。大貝から生まれる人魚に、自分と同じ道をたどらせる為にね」

「彼女がそんな悲しいことを願うのでしょうか」

「さあ知らないね。だが、これだけは言わせてもらうよ。その薬を飲んだ人魚は、誰一人として二度とこの海には戻ってこなかった。皆泡になって消えちまったよ。お前も死にたくなければ、軽々しくその薬を口にするんじゃないよ」


 ウミヘビの言葉に、エレオノーラはゆっくりと頷いた。そしてウミヘビに礼を言うと、尾ひれをくゆらしながら静かに部屋を出ていった。

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