第1話 海辺にて(表紙イラストあり)
むかしむかしのお話です。
遠い遠い海の底に、人魚の王国がありました。お城には王様と六人の人魚が暮らしていました。中でも一番下の人魚姫は飛びきり美しく、思いやりのある優しい娘でした。
人魚達は大人になると海から出て人間の世界に行くことができるようになります。人魚姫も、お姉さん達から人間の世界の話を聞き、海の外の世界へ憧れを持っていました。
ついに大人になった人魚姫は、喜びと期待を胸に海の上へ上がっていきました。
水面から顔を出すと、夕闇の中に大きくて立派な船がありました。たくさんの灯りがついており、綺麗な服を着た人達が歩き回っています。甲板には誰かが立っていて、海を見ていました。
近づいてそっと見てみると、凛々しい顔をした、立派な男の人が立っていました。その人はこの国の王子様でした。王子様は日の光に煌めく水面を涼しい顔で眺めていました。
その美しい横顔を見たとたん──人魚姫は一目で恋に落ちました。
――
太陽の光が海の中にまで届いている。天から注がれる光が白い筋となって水中を照らし、色鮮やかな小魚たちが海の中を虹色に彩る。まるで宝石のように輝く色彩豊かな海の世界を人魚のエレオノーラは優雅に泳いでいた。
光のカーテンをかきわけるように上を目指して進んでいく。とぷんと軽い音を立てて水面から顔を出すと、そこは木々に囲まれたいつもどおりの場所だった。
透き通るように薄い、青みがかった豊かな巻き毛をふんわりと水面に広げながら待っていると、やがて遠くから木々を掻き分ける音が聞こえてきた。瞬時にエレオノーラの胸もドキドキと鼓動をうち始める。
(きっとエドワルド様だわ)
待ち望んでいるのは愛しい彼の姿。船着き場に王家の紋章がついた船が停まっている時は、彼は必ず自分に会いに来てくれるのだ。
足音が近づくに連れて高鳴っていく胸の音を抑えながらエレオノーラは両手を地面にかけてザバリと水際の岩の上にあがった。同時にエレオノーラの美しい全身が現れる。海色のゆるやかな髪に深海の色をした青い瞳。身につけているものは、ふっくらした柔らかそうな胸元を覆う薄布だけだ。そして透き通るような真珠色の体は尾ひれにかけてうっすらと桜貝の色になっており、太陽の光を受けて宝石のように輝いている。
胸の前で手を組みながらソワソワと待っているとやがてガサガサ、バキバキと枝を踏む音が聞こえ、一人の男が姿を現した。
「……どうしてあなたなのよ」
エレオノーラは男の姿を見た途端、がっくりと肩を落とした。
現れたのは、長身で体躯の良い男だった。湿った大地を思わせる黒茶の髪を片側だけ撫で付けており、切れ長の目の中央で光る灰色の瞳はダイヤモンドの様に鋭い。高い鼻梁と太い眉。がっちりした体格のその青年は、仕立ての良い服をきっちりと着こなしていた。腰には剣を佩いている。
むぅと唇を尖らせながら、エレオノーラは青年を軽く睨み付けた。
「どうしてエドワルド様じゃなくてギルバートが来るの! エドワルド様はどこ?」
エレオノーラが文句を言うと、ギルバートと呼ばれた青年は射るような眼差しでエレオノーラを見やる。
「相変わらず騒がしいやつだな。殿下の居場所ならむしろ俺が聞きたい。ここには来ていないのか?」
「まぁ騒がしいだなんて失礼な人ね! たとえ来ていてもそんな優しくない言い方をする人には教えてあげないわ」
「そうか。こちらに来ていないのなら用はない」
「あ、待って。行かないで!」
あっさりと去っていくギルバートの腕を引こうと身を乗り出した瞬間、ぐらりと体が傾いてエレオノーラはべちんと地面に叩きつけられた。幸いそれほど高くない岩の上に腰かけていた為にすりむくことさえなかったが、痛いものは痛い。
地面の上に横座りになりながら顔をしかめるエレオノーラを、ギルバートが冷たい目で見降ろしていた。
「まったく美しい人魚というのが聞いて呆れるな。用がないなら行くぞ」
「用ならあるわ! 私、今日こそエドワルド様に告白の返事をもらいたいの。だからお願いギル、もしエドワルド様がいらしたらここに連れてきてもらえないかしら」
「無理な相談だな。殿下はお忙しいんだ。お前の恋愛ごっこに付き合っている暇などない」
「恋愛ごっこだなんて酷いわ。ギルの意地悪!」
ぷんぷんと頬を膨らませて怒りながら、エレオノーラはプイと顔を横に向けた。久しぶりに会ったというのにこの物言い。幼い頃から知った仲だが彼は昔からエレオノーラに冷たいのだ。特に大人になってからは突き放した態度を取られることも多い。
むくれるエレオノーラに、ギルバートがため息をつきながら近寄ってくる。そのままエレオノーラの前で屈んだかと思うと、突如横抱きに抱き上げた。
「きゃあ何をするの! ギルのエッチ!」
「おいコラ暴れるな。どうせその魚の半身では歩けないのだから大人しくしてろ」
「この距離ならちゃんと戻れるわ。それに魚なんて言わないで。人魚はこの世で一番美しい生き物なんだから!」
「他の人魚はそうかもしれないがお前は別だ、エレオノーラ。こんな型破りな人魚なぞ俺は見たことがない。人魚だと言われたいならもう少し淑女らしい振る舞いをするんだな」
「あなたこそエドワルド様の従者なのにいつも眉間にしわを寄せてばかりじゃないの。そんな気難しい顔をしてばかりだと、エドワルド様に愛想を尽かされてしまうわ!」
「言わせておけば好き勝手なことを……」
エレオノーラの言葉にギルバートが口の端をひくつかせる。お互いにバチバチとにらみ合っていると、森の中からサクサクと草を踏みしめる足音が聞こえた。と同時に木々の間から一人の男が現れた。薄い金色の髪を後ろで縛った優しい顔つきの美青年だ。複雑な意匠を凝らした服を着ており、大変身なりが良い。
その男を見た瞬間、エレオノーラのむくれ顔がパッと笑顔に早変わりした。
「エドワルド様! お待ちしておりました!」
「やあエレオノーラ! 会いたかったよ」
エレオノーラの言葉に、青年──エドワルドが駆け寄ってくる。新緑を思わせる新緑の瞳が優しげに弧を描き、にこりと笑った口からは白い歯が覗く。
だがエレオノーラを横抱きに抱えているのがギルバートだとわかると、バレたかという顔で頬をかいた。
「やぁギル、先回りしているなんてまた一段と探索の腕をあげたね」
「そんな呑気なことを言っている場合ではありません。先ほどまで船着き場にいたと思ったら突然主君のお姿が見えなくなった私の気持ちもお考え下さい」
「だってギルに頼んでも反対されるだろ? 少しの間だけならバレないと思ったんだ」
「殿下、あなたはもう少しご自身の立場をご理解ください。こんな所で時間を潰していないで、早く皆のもとへ戻りますよ」
そう言いながらギルバートがエレオノーラの体を水中に入れる。王子に帰ってほしくないエレオノーラもバタバタと暴れて必死に抵抗するが、問答無用で泉の中にポイと戻されてしまった。
「酷いわギル。私がエドワルド様に会いたかったのを知っているくせに」
「何度も言うが殿下はお忙しいんだ。明日俺たちは航海に出る。こんなところでお前と喋っている暇などない」
「まあなんてことを言うの! ほんとにあなたって失礼な人ね」
エレオノーラの懇願をギルバートが一蹴する。慈悲のかけらもない対応にまたもやエレオノーラがむくれていると、エドワルドがおかしそうに笑った。
「はは、君たちは本当に会うと喧嘩ばかりだね。でもギル、もう少しだけここにいさせてよ。僕達は明日にはまた海の上だ。彼女と会えるのはほんの少しの時間だけしかないんだから」
「あなたには人魚に構うより他にやるべきことがあるはずですが」
「でも君だってこの場所がわかったのは、僕らが昔から彼女とここで会っていたからだろう? それに、船に戻ればまた僕は第一王子殿下だ。エレオノーラと一緒にいる時だけが僕がただのエドワルドでいられる時間なんだよ」
「殿下……」
エドワルドのお願いに、ギルバートは大きなため息をつくと腕を組みながら一歩退がった。どうやら許しをもらったらしい。こちらを向いてにこりと微笑むエドワルドに、エレオノーラは目を輝かせながら岸辺に近づく。
「エドワルド様。私、今日は贈り物を持って来たんです。どうか受け取ってくださいませんか?」
エレオノーラが上目使いでエドワルドを見上げ、そわそわした様子で胸元に手を置く。そのまま少しだけ躊躇いの表情を見せた後、首に下げていた青い石のついたペンダントを手渡した。
「とても綺麗だね。これはなんだい?」
「これは『人魚の涙』と呼ばれる石で、私達人魚が航海の無事を祈って船乗りに渡すものです。総じて、女性が恋した男性の安全を祈る時に渡すお守りとも言われています」
「これを僕に?」
エドワルドが青い宝石を陽の光に煌めかせながら嬉しそうに微笑む。その優しい笑顔を見て、エレオノーラの胸が高鳴った。
「はい、どうぞ受け取ってください! 私、エドワルド様のことをお慕いしているんです!」
「はは。嬉しいなぁ。僕も君のことが好きだよ、エレオノーラ。僕にとって君は可愛い妹みたいに大事な存在だからね」
太陽のように輝く笑顔でエドワルドが返す。その返事を聞いて、エレオノーラは内心でがっくりと項垂れた。もう前々からずっと彼に気持ちを伝えているのに、彼は一向に気付いてくれない。いや、気付いているのかもしれないが、種族の壁があるからか、いつもこうやってアッサリとかわされてしまうのだ。
「これで三百二十一回目の告白も玉砕だわ……」
「三百三十三回目だ。いい加減諦めたらどうだ」
「もう! そんなことをいちいち教えてくれなくていいじゃないの! ギルのバカ!」
「それでもエレオノーラ。君の気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
淡々と告げるギルバートとは裏腹にエドワルドが優しい笑みを返してくれる。その甘い表情にまたもやエレオノーラがときめいていると、一連のやり取りを見守っていたギルバートがエドワルドの腕を取った。
「さ、殿下。戯れはこれくらいにして、そろそろ行きましょう。皆待ちくたびれています」
「あ、ああ。そうだね。じゃあ、また来るよ、エレオノーラ。ペンダント、大事にするね」
ギルバートの言葉に、エドワルドが土を払いながら立ち上がる。名残惜しいが、今度こそ別れの時間だろう。エドワルドを見ると、彼は少しだけ申し訳なさそうに微笑んでおり、反対にギルバートはやっと解放されたというような顔をしていた。
「用件はそれだけか。ならば行くぞ」
そう言って彼はくるりと背を向け、エドワルドの背に手を添えながら森の奥へと消えていく。名残惜しそうに何度もこちらを振り向くエドワルドと違って、彼は一度も振り向かなかった。そのそっけない振る舞いに、ムカムカと怒りが沸いてくる。
──もうもうもう! 私、本当にあの人のことは嫌いだわ!
エレオノーラは森の奥へ消えていく大きな背中に向かってべっと大きく舌を出した。
表紙イラスト:MACK様(https://twitter.com/cyocorune)