男爵家からの脱出 1
婚姻許可証を取得し、公示を行わないと法的に結婚は認められない。
そのため、準備が整うにはそれなりの日数と費用がかかるはずだが、先に「行儀見習い」などと称して相手の家で生活を始めるケースは少なくない。
のんびりしている時間はないと、ローラの勘が告げていた。
(急がなきゃ……!)
まとめる荷物などない。ローラはキッチンの隅に隠してある全財産の小銭を摑むと、裏口から飛び出した。
ホイストン卿が帰るときに見送りをしなければ逃げたことがバレるだろうが、それよりもここから離れることが第一である。
目的地を決めないまま、ひとまず行き慣れた下町を目指して駆ける。
ローラが急ぎの買い物を言いつけられることはよくあるため、一心不乱に走っても誰も不審に思わないのは幸いだった。
(でも、どこに行けば……っ)
女将の顔が真っ先に浮かんだが、ローラが下町に出入りしていることは伯父たちも知っている。真っ先に探されて、すぐに見つけられてしまう。
そうなればローラを匿った女将や皆が無事で済むわけがない。
――自分のことを誰も知らないところに行こう。
女将たちにお別れが言えないのは心残りだが、ローラが出奔したことを知らないほうが安全だ。
逃亡に成功したら匿名で手紙を出そう。レモンのことを書けば、きっとローラからだと分かってくれる。
走りながらポケットの銅貨を確かめる。少ないが、隣町までの馬車代にはなる。
(でも、明るいうちだといろんな人に顔を見られるし……そうだ、あの廃屋)
以前に、梁の下敷きになった子を助けた廃屋が思い浮かんだ。今にも潰れそうで誰も来ないあそこに隠れて、暗くなったら動くのがいいだろう。
酒場がある通りを横目に眺めて、あと一区画。交差点に飛び出したローラの前に、二頭立ての馬車が現れた。
「!?」
とっさに避けようとして、思い切り転倒してしまう。したたかに膝を打ちつつも、なんとか受け身をとった。
(痛ったー……! び、びっくりした!)
向こうも驚いて、停まった馬車の馭者席から従僕らしき男性が降りてくる。道ばたに倒れたままのローラに近付いてくるのは、王宮官吏の制服だ――腰に佩いた剣にはっとして目をやると、馬車もたいそう立派である。
(も、もしかして、とんでもない人の前に飛び出しちゃった?)
王宮の役人が従者をしているなど、やんごとない御方か、重要な公職に就いている上級貴族に違いない。
さあぁ、と血の気が下がる。
とばっちりは御免だと、道行く人もローラからさっと距離を取ってしまった。
「娘! 危ないだろう! この馬車にどなたが乗っていらっしゃるか、知ってのこ――」
「大変失礼しました! どうぞお構いなく!」
(ごめんなさい! でも、逃げるが勝ち!)
「あっ、おい! ……チッ」
剣の柄に手を掛けながら咎められて、ローラは全力でその場を走り去る。
脱兎の如く、という言葉の通りに見えなくなったローラに舌打ちをひとつして、男性は馬車に戻った。
「申しわけありません、閣下。不届き者に罰を与えられませんでした。追いかけますので、少しお待ちに――」
「いい、面倒だ」
扉越しに畏まって頭を下げる従者を、乗ったままの男性が興味なさそうにあしらった。
「しかし、王宮魔術師長様の邪魔をするなど、言語道断で――」
「不要と言ったのが聞こえなかったか」
「し、失礼しました……っ」
主人とおぼしき男性の冷たい声に、従者は顔色をなくしてさらに深く頭を下げた。
カタリと馬車の小窓が開く。現れたのは、王宮魔術師のローブを身につけた中年の紳士だ。
金の髪も整った容姿もどこか精彩さを欠いているが、全身に恐ろしげな雰囲気を纏っており、従者は叱責を覚悟して震えながら身構える。
だが、紳士の興味は怯える従者ではなく、その背後の地面に落ちている物のほうにあったらしい。
手袋を嵌めた指先を向けると、それがふわりと浮いて男性の手の中に収まった。
「い、今のメイドが落としたのでしょう。あの、なにか不審な点が?」
「……いや」
気怠げに数枚の銅貨を眺めたのちに、男性はふいと視線を外す。
「馬車に支障は」
「ございません」
「では、このままダンフォード侯爵家へ」
「承知いたしました!」
無表情のまま命令を下されて従者は馭者席に戻り、やがて馬車も動き出した。
どうにか逃げ切ったローラは、そのまま人目につかないようにして廃屋に入り込んだ。
穴の開いた床を踏み抜かないよう慎重に歩き、比較的まともな部屋に落ち着いて間もなく。
「……ない。お金……」
空っぽになったスカートのポケットをひっくり返して、ローラは青ざめた。
先ほどの、馬車に轢かれそうになって転んだ拍子に落ちたのだろう。
「嘘……あー、参ったなあ」
自分が悪いとはいえ、あまりにもついてなくてがっくりと肩を落とす。
なくしたのは銅貨がほんの数枚だ。それでも、あるとないとでは心持ちが全然違う。
(今夜の馬車に乗って、王都を出たかったのに)
それも不可能になってしまった。
計画の練り直しを余儀なくされてしおしおを下を向くと、膝の怪我が目に入った。血は止まっているが、打ち付けた肌の色が変わっている。骨は大丈夫そうだが、しばらくは歩くたびに痛むだろう。
ここには包帯も傷を洗う水もない。ローラはしかたなくエプロンを脱いで膝に巻く。
本当に着の身着のまま、ハンカチ一枚すら持っていないことに、ますます気が滅入る。
「……そういえば。あの子は大丈夫だったかな」
昨日の夜、同じように足を怪我した男の子がいたことを思い出す。
送り届けた先で執事に言われたことも。
(――この御礼は必ず返す、って言ってた)
貸しなどとは思っていないし返してもらうつもりもなかったが、状況が状況だ。
「……馬車代だけ頼んでみる……?」
ほぼ見知らぬ人に縋るのは情けないし、お金をねだるのも不本意だ。
でも、ほかに打つ手がない。
貴族街に戻るのは怖いが、リドル家とダンフォード家は離れている。暗くなってから反対側を回っていけば、伯母たちに見つからないはずだ。
(いつか、ぜったいにお金は返そう。だからこの一度だけ)
そう決めると、ローラはひざを抱えて蹲った。