歓迎いたしかねる客 1
誘拐未遂事件に居合わせた翌朝。
キッチンの硬い椅子で仮眠をとっただけのローラが朝食の支度をしていると、いつもは起こさないと起きてこない伯母が現れた。
美しいが、意地の悪い表情を浮かべた伯母マチルダが、勝ち誇ったように声を張り上げる。
「ローラ! あなた、パイは用意できたの? まさか、レモンが手に入りませんでしたなんて、見え透いた言い訳を――」
「あ、はい。このとおり」
棚を開いてパイを見せると、伯母は悔しそうに口元を引き攣らせた。
「……できているならいいのよ」
レモンメレンゲパイは無事に焼けた。
爽やかで甘い香りのおいしそうなパイは、見た目も完璧だ。文句が付けられなくて伯母は不満そうだが、体を張って手に入れたレモンがこうして無事に形になってローラは満足である。
「あなたみたいな穀潰し、料理くらいしか取り柄がないんだから。せいぜい役に立ちなさいよね」
「はあ」
「まったく。オリビアは碌でもない男に引っかかって、余計なお荷物を残して死んで。いい迷惑だわ」
(またこの話……)
オリビアとはこの伯母の妹で、ローラの実母。そして、余計なお荷物とはローラのことだ。
デビュタントの晩に出会った見知らぬ男と恋に落ちた母は、家族に隠れて交際を始めた。
結婚の約束をしたそうだが、オリビアが身籠もったと分かると男は姿を消した。世間知らずな田舎娘と不実な男の間には、よくある話である。
失意の中で出産はしたものの、生まれたばかりのローラを置いてオリビアは天に召されてしまった。
「赤ん坊なんて産みたくない、こんな子はいらないってずっと言っていたのよ。そんな子を、どうして親でもない私が引き取らなきゃならないの……!」
オリビアは結局、ローラを抱くこともなく亡くなった。
何度も繰り返し聞かされて、すっかり覚えた話だ。
「お父様さえ、もう少ししっかりしてくださればよかったのに。いつも私ばっかり貧乏くじを引かされて! それもこれも、オリビアとあなたのせいよ!」
「……」
赤ん坊のローラに責任があるとは思えないが、ここで反論すると余計に折檻されるだけなのは分かっている。ローラはぐっと堪えて嵐が過ぎ去るのを待った。
母と伯母の生家は細々と続いていた子爵家だったが、才覚のない当主が数代続いた結果、順当に没落した。
娘の過ちと破産の心労がたたって、ローラの祖父母もオリビアのあとを追うように相次いで亡くなっている。
片親だけとはいえ血筋が分かっており、肉親がいる赤子を孤児院に送るのは外聞が悪い。そのため、リドル家に嫁いでいた伯母マチルダが、姪のローラを引き取るしかなかったのだ。
(だから死ぬまで働いて、恩を返せ――でしょ)
その伯母も、好きで伯父と一緒になったわけではない。
一般的に見て、伯母は美しいと言われる容姿をしている。伯母はその外見と子爵家令嬢という身分を望まれて、資産家ではあるが自家より下位のリドル男爵に売られるように嫁がせられたのだ。
伯母の好みは舞台俳優のような男性だそうだが、伯父は容姿も体型も正反対だ。顔の造作や背の高さはどうでもいいと思うローラでも、あの性格の悪さが滲み出た顔立ちは好きになれない。
没落寸前の実家にいくばくかの猶予を持たせるためだけに、伯母は好きでもないそんな相手に売られたのだ。
(……伯母様に同情しないわけではないけれど)
実家が落ちぶれなければ。
今の夫に嫁がなくて済めば。
妹が恋に盲目にならなければ。
そして、ローラが生まれてこなければ、自分はもっと幸せになれたはずだと、伯母の愚痴は結ばれる。
実家が零落したことも、伯母の結婚も、ローラには一切関係ない時代の話だ。
文句の半分以上は八つ当たりだと頭では分かっているが、自分が父にも母にも望まれなかった子供だということは、言われるたびに地味にローラの心を抉る。
親の顔を知らないのはいい、仕方ない。
けれど、望まれずにこの世に生を受けたことは、自分が悪いように感じられてしまう。
産みたくなかった母から生まれ、育てたくなかった伯母のもとで育った。
その事実は、普段は朗らかにしていても常にローラの心の片隅から離れず、重くのしかかっている。
「――だから、いいこと。今日は大事なお客様をお迎えするのですから、くれぐれ粗相のないようになさい」
「はい、伯母様」
「……本当に可愛げのない子ね。きっと、どこの馬の骨とも分からない父親に似たに違いないわ。ああ、嫌だこと!」
気が済むまで言うだけ言って、伯母はキッチンを後にした。
ようやく静けさが戻ったキッチンで、ふうと長く息を吐いてローラは顔を上げる。さんざん罵られても、ヘーゼルの瞳は暗く濁ってはいなかった。
「さあ! やることはまだあるんだから、頑張ろ!」
ローラが傷つくことを伯母はことさらに喜ぶ。自分より不幸な人間を見るのが好きなのだ。
(ショックなんて受けてあげない。あんなの、いつものことだもの)
鬱憤の吐け口にされるのは我慢できても、ローラの感情まで利用されるのはごめんだ。
そんなふうに気を取り直して、ローラは茶会の準備にかかる。
いつもなら締まり屋な伯父があれこれと支度に文句をつけるのだが、今日は一番いい茶器と茶葉を使えとローラに指示が届いた。
茶会は主に女性の社交だが、伯父も支度をしているようだから夫婦で客人を迎えるのだろう。
(特別なお客さんなのかな)
伯父の交友関係について、ローラは詳しくないから考えたところで分からない。ただ黙々と支度を調え、やがて客人を迎える時間になった。
玄関先で待っていると、二頭立ての馬車がやってきた。洒落た箱形馬車が停まると、男性が降りてくる。
フロックコートをきっちり着込んで、手には艶やかなステッキを持っている。帽子を深く被っているせいで顔はよく見えないが、伯父と同年代であろう。その証拠に、への字に曲げた口元には白いものが混じった髭が蓄えられていた。
帽子のつばの陰から剣呑な空気を感じた気がして、ローラは顔を伏せて礼をする。
「ようこそおいでくださいました。ご案内いたします」
「ああ」
馭者に馬車の待機場所を教え、客人を中へ案内する。先導し始めると、まとわりつくような視線を背後に感じた。
(……なんか、ちょっとこの人……)
初めて来る客のはずだが、ローラのことを知っているかのようだ。
応接室に到着したときはほっとした。こんな伯父伯母でも、この客と二人でいるよりずっとマシな気がしてしまったのだ。