ローラと少年 2
「でも」
子供らしい高めの声だが、滑舌がはっきりとしていて、話し方はまるで大人のようだ……とすると、しっかり教育を受けている貴族の子だろう。ますます家族や使用人が心配しているに違いない。
男の子は、困惑顔のローラに向かって眉をひそめる。
「お前、さっきの奴らに殴られたのか」
なにを訊かれたのか分からなくて首を傾げ、男の子の視線がローラの頬にあることに気づく。
「あ、これ? 違うよ。最初からだから、気にしないで」
「最初から?」
自分を助けようとしてローラが怪我をしたと思ったのだろうか。自分のほうこそ大変だったろうに気にしてくれるなんて、優しい子だ。ローラはにっこりと微笑んだ。
「そんなことより、警察に行こう。誘拐犯も捕まえてもらおうね」
「警察は行かない。ダンフォード侯爵家に帰る」
「ダンフォード……ええっ?」
男の子が告げた家の名にローラは目を丸くする。
貴族令嬢としての教育など受けていないローラだが、この国の上位貴族の家名くらいは知っている。
ダンフォード侯爵家は五大候家のうちのひとつだ。ローラのリドル男爵家などとは同じ貴族とはいえ天と地ほど差がある、名家である。
家族構成までは知らないが、言われてみれば、男の子にはそこはかとない品がある。
夜だから髪や目の色ははっきりしないものの顔立ちは整っているし、ローラの膝から立ち上がって服に付いた埃を払う仕草でさえ様になっている。
なにより、ダンフォード侯爵家の者は代々、人嫌いで有名だ。
子供らしからぬこの落ち着きぶりや、ぶっきらぼうな態度がその一端だと思えば妙に納得できる。きっと子息か、侯爵家に近い親戚筋の子だろう。
「マーカムという執事がいるから、そいつに言えば――」
「あなた、ダンフォード侯爵家のお坊ちゃま? それともその執事さんのお身内?」
侯爵家に連れて行くと即答しなかったからだろうか。男の子はローラの質問には答えず軽く目を眇めると、くるりと背を向けて歩き出した。
「いい。ひとりで帰る」
「ま、待って! あいつらが戻ってくるかもしれないでしょう!」
ローラも慌てて立ち上がり小走りで追いつくと、男の子を抱き上げた。そうされるとは思っていなかったようで、男の子は分かりやすく慌てた。
「なっ、なにをするっ」
「大丈夫、お家まで運んであげるだけ」
「下ろせ!」
「ダメですよ。痛いところはないって嘘吐いたでしょう、お坊ちゃま。足、ちょっと引きずったの見ましたよ」
「そっ……」
指摘すると気まずそうに目を泳がせる。図星のようだ。
「隠さなくていいのに」
「隠してなんか、いないし」
ぼそりと呟く声に、ローラの胸がちくりと痛んだ。
(言えなかったのね……怖い目に遭ったばかりなのに)
伯母たちはいつも剥き出しの悪感情をそのままローラにぶつけてくるが、ちゃんとした貴族は喜怒哀楽を、その中でも特に弱みになりえる感情を他人に見せてはいけないのだという。
こんなに幼くともそれを徹底していることがいいのか悪いのか、ローラには分からない。
けれど、怖かったはずなのにそうと言わずに強がるこの子が無性に不憫に思えてしまった。
よいしょ、と揺すり上げて、しっかり抱きかかえる。
突っぱねようとしたのか摑もうとしたのか分からない小さな手が、ローラの薄い肩に所在なさげに乗った。
「落とすつもりはないけど、くっついて、ついでにしがみついてくれると楽だな」
「だ、誰が」
「まあまあ。私ね、ダンフォード侯爵様のお屋敷の場所って、だいたいしか知らないの。近くなったら教えてくれる?」
「……いいぞ」
「ありがとう。じゃあ、それまでは眠っていいですよ、お坊ちゃま」
「寝ないし、お坊ちゃまって呼ぶな」
「あら、ふふ」
そっぽを向いてしまったのが可愛くて思わず笑ったら、ますます顔を背けられてしまった。
かろうじて見えているのは顔半分で、その右目の下にほくろがあった。安心させるように、そこに軽く唇を当てる。
「んなっ!?」
「おやすみなさい。子守唄も歌う?」
「こ、子供扱いするな!」
「子供でしょうに。怖い目に遭ったときは、ぎゅってしてキスしてもらうって、大昔から決まっているの。知らない?」
わなわなと唇を震わせて抗議してくるが、頬や耳どころか首まで真っ赤である。
つんと澄ましていると大人びて見えるが、こうしているとちゃんと年相応に見えた。やはり背伸びをしていたらしい。
「し、知らない……!」
「今日、知ったね」
にっこり笑ってみせると、驚いたように目を見開いて、またあわあわと狼狽えて、しまいには顔を伏せてしまった。そうするとローラの肩口に密着することになるのだが、それよりも表情を隠すことを優先したようだ。
声を出さずに笑って、ローラはもう一度男の子を抱え直して収まりよくする。なにか小さく文句を言ったのが聞こえたが、もう抵抗はされなかった。
(かーわいい……って言ったら、怒るんだろうな)
「さあ、帰ろう」
心の中で思ったことは秘密にして、ローラはダンフォード侯爵家へ向けて歩き出した。