呪いの実態 1
ドアがそっと閉められた微かな音で、ローラは目を覚ました。
ベッドにうつ伏せていた上半身を起こすと、朝日が差し込むそこに少年の姿はなく、遠ざかっていく足音が廊下から聞こえる。
(坊ちゃま……? もしかして、起きて、一人で戻ろうと? そんな、私も行かないと!)
夜中に少年を見つけて保護したことは、まだフレディにも侯爵にも説明できていない。今頃、姿が見えない彼を捜しているかもしれない。
そんなところに一人で戻って、怒られたら可哀想だ。
フレディなら分かってくれるとは思うが加勢と証言は必要だろうし、ローラから説明すれば無駄がない。
数秒に満たない間に脳内を整理して、迷わずローラは部屋を飛び出した。
廊下の突き当たり、階段へ下りていく影がちらりと目に入って消えた。少年にしては大きくて、どう見ても成人男性である。
「えっ、誰?」
この屋敷にいるのはローラとフレディと、普段は侯爵の三人だけ。
あの背中にダークブロンドの尻尾は揺れていなかった――ということは、フレディではない。
ならば、必然的にシリル・ダンフォード侯爵だ。
(うそでしょ、このタイミングで!?)
もしや、少年を捜しにきて、連れて行ったのだろうか。いや、ほかの理由などありえない。
まさかの人の登場にローラの胸が色々な意味で騒がしくなる。
(人嫌いな侯爵様に会っちゃって、辞めさせられたら……いや、待って。前向きに考えよう。お礼を言うなら今しかない!)
だって、この機会を逃したら今度いつ会えるか分からないのだ。
立ち入り禁止の二階に入ったわけではないから、これは不意の事故ということで許される、千載一遇のチャンスに違いない。
慌てて駆け出し階段に向かい、追い越して、土下座の勢いで頭を垂れる。
「ま、待ってください、侯爵様ですよね! あの、お坊ちゃまは悪くないんです。私が無理にお連れして――」
考える前に話し出したローラだが、顔を上げて言葉に詰まる。
腕に抱えられているのは黒いジャケットで、眠っている少年ではなかった。
「あ、あれ?」
さらに視線を上げれば、ばちりと目が合う。
絵に描いたように整った容姿だ。すっと通った鼻筋に引き締まった口元、朝日にきらめく銀髪。
どこか緊張したような面持ちなのは、予定外に人と会ったからだろうか。
少し長めの前髪の下には濃い紫の瞳があって――。
(かっこいいって噂は本当だったんだ……でも、よく似た人を私、知って……?)
ローラの凝視に耐えかねたのか、侯爵は気まずそうに顔を背ける。銀の髪を払う手を目で追えば、横顔もあらわになった。
右目の下には、見覚えのあるほくろが見えて――昨夜、眠そうに擦った目の下にも、同じ位置にほくろがあったことを思い出す。
(え、この人って)
強がりで可愛い少年の顔がスライドのように重なる。
「お坊ちゃま……」
「……っ!」
思わず漏れ出た言葉に、目の前の男性の肩が思い切り揺れた。
「えっ、わ、私なにを!?」
あちらは子どもでこちらは大人だ。
でも、だって、似ている。
身内の「似ている」ではなく、本人だと思ってしまうほどに。
「す、すみません! ご親戚ですもの、似ていて当然ですよねー、って……っ」
「あはは、バレてるー」
「フレディさん!?」
自分の言ったことが信じられなくて、取り繕うことも忘れて動揺するローラの後ろから、すっかり聞き慣れた呑気な声がかかった。
「おはよう、ローラ。いい朝だねえ」
ばっと勢いよく振り向くとそこにいたのは、いつも通りのフレディだ。
「お、おはよう、ございます、フレディさん……」
パンパンと手を叩きながらにこやかな笑みを浮かべて近寄ってくるが、今のローラたちを見て「いい朝」と言い切るあたりさすがである。
「ローラが来てから半月かあ、まあ僕の予想より長くかかったかな。シリル、だいぶ頑張ったじゃん」
「……うるさい」
「え、えっと、あの?」
「こーんなでっかい男が子どもに変わってて、ローラも驚いただろ。魔女の呪いが本当にあるなんてね」
「呪い!?」
「ん、あれ。まだ全部は聞いてない?」
「全部っ?」
全部どころか、なにも聞いていない。
すっかり混乱しているローラを置いて、フレディはするすると話し続ける。
「たとえば、シリルが人間の時もそうでない時もローラの食事を喜んで完食していることとか――」
「はぇっ!?」
「フレディ!」
目の前の男性が厳しい口調でフレディを制止する。
「えっ、待って?! いったい、なにがどうなって……」
今、すごく嬉しいことが聞こえた気がするが、ローラの思考はとっちらかったままだ。
あわあわと狼狽えるローラと不機嫌そうに自分を睨むシリルを交互に見て、フレディは「おや」と肩を上げた。
「シリル、もしかして話す前だった? あちゃー、僕やっちゃったか」
「お前はなんでそう軽率なんだ」
「いやだって、さすがにこのシチュエーションで打ち明けていないなんて思わないだろ。昨夜は子どもになったまま帰ってこないし、捜したらローラの部屋で寝てるし」
「おい。見つけたなら連れ出せよ」
「邪魔をするのも忍びなくて」
「あ、あのっ」
ごめんごめんと口では言うが、フレディに反省している様子はない。
それどころでないローラは勢い込んで二人の会話に割って入ると、改めてシリルに向き合った。
(シリル、って呼ばれたし「子どもに変わって」に「魔女の呪い」ってフレディさんが言って……っていうことは)
「こ、侯爵様なんですね? 昨夜のお坊ちゃまも、侯爵様っていうこと? ま、魔女の呪いでそんなことに?」
「……ああ」
詰め寄られ押され気味になりながら、半分諦めて半分は覚悟を決めたような表情でシリルが肯定する。
「そうなんだよ。シリルはねえ、夜になると呪いで姿が変わっちゃうんだ」
「へ、へええええぇぇ……」
「ぷはっ、なにその間抜けな声!」
腰を抜かさんばかりに驚くローラが面白かったらしい。フレディに笑われたが、しかめ面でそっぽを向くシリルを眺めるのに忙しくてそれどころではない。
大きく開いた瞳でぱちりと瞬く。階段の高低差に身長差が加わって、ほぼ垂直を見上げた。
(あのお坊ちゃまと、このやたら美形な男の人と、ダンフォード侯爵様が同じ人……!)
顔を背けたまま、ちらりとこちらを窺う表情が、今度こそしっかりとあの男の子と重なる。
――ああ、本当だ。
ローラの口から詰めていた息が小さく溢れた。これで、ようやく。
「いや……その、黙っていて悪かっ――」
「侯爵様、雇ってくださってありがとうございます! それに私のごはん、喜んでくださっていたんですね!」
「は?」
「ええ、そっち?」
両手を胸の前で組み満面の笑みで礼を言うと、シリルはあっけにとられ、フレディの膝がカクリと崩れた。
「どうしよう嬉しい! 毎日張り切ってごはん作ってよかった! 侯爵様、なにがお好きでした? 昨日のかぼちゃスープも食べてもらえてたんですね。よかった、すごく美味しくできたので私――」
「うん、めちゃくちゃはしゃいでいるなあ。シリルもそんな顔で僕のことを睨むなよ」
「フレディ、誰のせいだと――」
「さーてね。ローラ、まずはいったん落ち着こうか。朝食の支度を頼む。今日は三人でブレックファーストティーと洒落込もう」
「喜んで!」
ぶんぶんと何度も頷くローラと、にまにまと満足そうなフレディを交互に見て、シリルは一際大きな溜め息を吐いた。