ローラと少年 1
酒場を出たローラは、スキップする心地で夜道を小走りに進んでいた。
(レモン、あってよかった! さすが女将さん!)
流行に敏感で目端が利く女将なら、平民には入手の難しいレモンも隠し持っていると信じていた。
御用達の果物店で買うよりかなり高くついたが、構うものか。
リドル夫人は「見つけたが、手持ちの金が足りなくて買えなかった」という言い訳をローラにさせないため、無茶な買い物を言いつけるときは金を惜しまない。それならば使わないのはむしろ損である。
(どうせ家のお金を節約したところで、私の食事が増えるわけでもないし)
休む暇なく用事を言いつけられて、今日は固く薄いパンを朝に一切れ食べただけだ。思い出して腹がぐうと鳴るが、二日も三日も水だけのこともあるから固形物が食べられただけマシである。
手提げ籠に収まる明るい黄色のレモンを覗き込み、ローラは自嘲気味に笑う。
(レモンメレンゲパイか……自分が一口も食べられないお菓子をこれだけ焼いているのは、王都広しといえども私がきっと一番ね)
伯母夫婦が着飾って行くような高級レストランで豪勢なディナーをしたいとは思わない。けれど、自分が作った菓子や食事を思う存分食べてみたい。
(いつかあの家から自由になれたら……ん?)
そんなささやかなことを願って顔を上げたローラの耳に、誰かの押し殺した声が聞こえた。
「なに……?」
貴族街はもうすぐそこだ。夜に賑わう裏通りとは違い大通りの店は閉まるため、たまに馬車が通るくらいで歩く人もまずいない。
――嫌な気配がする。
ローラの勘がそう告げてくる。
心を落ち着けて辺りを見回す。どうやら、角を曲がった先に人がいるようだ。
足音を忍ばせてそっと塀越しに覗くと、夜なのに帽子を目深に被った男が麻袋を担ぎ上げ、路肩に停めた馬車に近付いていくのが見えた。
(……!)
魔法灯に照らされて、その麻袋が不自然に動く。まるで、縛られて押し込められた人間がもがくように。
よく耳をそばだてれば、言葉にならないうめき声もその袋から発されている。
――気を付けて帰るのよ。最近、城下に人攫いが出るらしいから――
女将の声が耳元に蘇る。迷っている暇はない。ローラは大きく息を吸い込むと、籠に手を突っ込み男に向かってレモンを投げつけた。
「きゃーー! 人攫いー!!」
「なっ!?」
見事、後頭部に命中し、ぎょっとして振り返った男の顔を目がけて、駆け出しながらレモンをもうひとつブン投げる。
「その袋を離しなさい! この、人攫いっ!」
「うぐっ!」
固いレモンに眉間を直撃され、男がたたらを踏む。ずるりと麻袋が肩から滑り落ちたが、また袋の端は握られたままだ。
ローラの叫び声に驚いたのか、麻袋を抱えた男を置きざりに馬車が走り出す。
「チッ」
「あっ、待ちなさい!」
空になった籠を思いきり振り回すと男の腕にガツンと当たり、麻袋がドサリと地面に落ちる。男は一瞬迷ったものの拾うことはせず、馬車を追いかけ飛び乗った。
ガラガラと音を立てて去っていく馬車をそのままに、ローラは肩で息をする。
「逃げ、られた……でも、よし!」
不意を突くことができたが、ローラは非力なメイドだ。成人男性に力で敵うわけもなく、夜は無人の店ばかりで駆けつけてくれる人はいない場所である。
圧倒的にローラに不利だという事実に誘拐犯が気づく前に、助けられただけで上出来だ。
地面に膝をつくと麻袋を抱き起こす。ごわついた布の向こうには、たしかに人の形があった。
「大丈夫? 落ちたとき痛かったよね。今、出してあげるからね……!」
大きさからいって子供だろう。下町で仲良くしている小さな子の誰かが攫われたのかもしれないと思うと、心臓をぎゅっと摑まれた心地になる。
(なんて酷いことをするの! 天罰があたりますように!)
麻袋の口は固く結ばれていた。今頃になって指が震えてしまい紐を解くのに時間がかかったが、中からは後ろ手に縛られ猿ぐつわをかませられた、四、五歳くらいの男の子が出てきた。
髪は白金……いや、銀色だろうか。大きく見開いた瞳は今は濃色としか分からないが、非常に整った顔立ちをしている。こんな子なら人攫いも目を付けるというものだ。
街灯の下でさっと検めたところ、見える部分に怪我はなくて心底ほっとする。
「怖かったでしょう。もう大丈夫だからね」
安心させるように微笑んでみせながら、口に噛ませた布も外す。そのまま膝の上に座らせて小さな体をぎゅっと抱きしめる。
(こんな目に遭って、震えてもいないのね)
呼吸が乱れ心臓が煩く鳴っているのは自分ばかりのようだが、肝が据わっているのではなく、茫然自失しているだけかもしれない。
そっと身体を離すと、手を縛ってある縄も解きにかかる。こちらも固く結ばれていて、ハサミがあればよかったとしみじみ思った。
「どこか痛いところはある?」
「……」
男の子は小さく首を横に振って答えた。まだ声を出す気にならないのだろう。
「そう、よかった」
(下町の子ではないわね)
男の子は立派な布地のジャケットとシャツを身につけて、革靴を履いていた。
袋に押し込められたせいで髪は乱れているが、きちんと切り揃えられているし、肌も滑らかだ。
「私はローラ。リドル男爵家の……って、知らないかな。でも安心して、あいつらの仲間じゃないよ」
口周りを拭いてあげ、擦れて血が滲んでいた手首を軽く撫でながら言うと、男の子はこくりと頷く。
「警察に行こうか。手当てもしてくれるし、お家の人たちも探しているだろうから」
「……嫌だ」
「えっ?」
初めて喋ったことと、拒否されたことの両方にローラは驚く。
「警察には行かない」




