シリルの事情
顔合わせを終えたローラが階下に消えるのを見届けて、フレディは執務室に戻る。部屋の中では侯爵――シリル・ダンフォードが不機嫌を露わに待っていた。
(おー、怒ってるな)
整った顔立ちのシリルだが、髪は冷たい銀の色。濃い紫の瞳は薄暗い陰りを帯びており、気安い雰囲気ではまったくない。
やれやれと心の中だけでなく実際に肩を竦めると、表向きの仮面を脱いたフレディの雰囲気がふわりと変わる。
それはローラに見せていたものとも、リドル男爵たちに見せていたのとも違う、幼なじみに対する気安さと粗雑さの混じった表情だ。
「フレディ。どういうつもりだ」
「どうもこうもないだろ。僕たちには料理上手なメイドが必要だ」
険のある眼差しでシリルから睨まれても、フレディは畏まるところか内心に同情を浮かべた。
(旦那様――前侯爵様が亡くなってから五年か。よく保っているよな……いや、耐えていると言うべきか)
五年前、十八歳でシリルは家督を継いだ。本来ならば今は宮廷政治の表舞台に立ち、社交の真ん中にいるはずの年齢だ。
なのに、屋敷に引きこもるばかりの人嫌い侯爵として認知されている。
領地にも足を運べず徹底的に他人を避けているのは、その身に負う「呪い」のせいだと知っているのはごく僅かな忠臣だけ。
「俺が反論できない状況で、勝手に雇うなんて決めて」
「反対したところで採用したし、辞めさせないよ。あのな? あんな都合のいいメイド、他にいないって」
シリルに見せつけるように、フレディは指を折って申し立て始める。
「うまい料理を作るだろ、それに気もきく。こっちの事情を見ないフリをする賢さもあるな。しかも、養い親が下衆なおかげで絶対に逃げ出さない。元の家に帰って変態に売られるより、ここにいるほうがずっとマシだから」
ローラの正式な身分は男爵令嬢だが、周囲に認知されていないのもいい。
縁のある貴族はリドル男爵夫妻だけで、他からダンフォード侯爵家を探れと命ぜられることも、こちらの情報を漏らす心配もないからだ。
そんなことを次々と、噛んで含めるようにシリルに言い聞かせる。
「ホイストン卿に売られたら半年であの世行きだろうな。リドル家にいたって、あんな奴隷みたいな扱いじゃ、もって数年だ。それなら最悪、なにかあってここで消しても誤差で済むしな?」
「フレディ」
「怒んなよ、やらないって。僕が言いたいのは、そうできるくらい安全ってこと。それに、彼女に害意がないことはシリルのほうが知ってるだろ。ダンフォードになにか仕掛けるつもりなら、見返りもなく若様を助けるはずがない」
日が落ちた室内に点けられた明かりの下で、シリルは整った顔をますます顰め、銀色の前髪を邪魔そうにかきあげる。あらわになった左目の下にはほくろがあった。
「だからといって、新しい使用人なんて」
「そうは言うけどさあ。いや、もうね、料理するの本気で嫌。シリルだって飽き飽きだろ」
信頼できるコックが加齢による体調不良で辞めて半年。フレディの料理の腕は一向に上がらず、侯爵家の食事情はひたすら下降線を辿っていた。
食に対する――というより、その先の、生に対する執着が薄いシリルは、放っておくと最低限の食事さえ抜きがちだ。
自分からは進んで食事を摂らないシリルが料理をするわけがなく、結果、フレディが調理場に立つことになる。
乳兄弟でもあり、幼なじみでもある弟分をどうにか生きながらえさせたいと思っても、人には努力では変えられない向き不向きがある。
フレディの場合、それが料理だった。
執事の仕事は難なくこなすし、それ以上のことも軽々やってのけるのに、食材と調理道具だけはフレディの意のままにならないのだ。
その結果、できあがるのは、食べられはするが二度は食べたくないものばかり。
「別に、フレディの料理に文句は……」
「いつも残すくせによく言うよ。でも、彼女の作った食事は完食しただろ。それがシリルの出した答えだ」
ない、とは言えずにシリルは口ごもる。否定できない事実をフレディが指摘すると、気まずそうに視線を逸らした。
「そういう問題じゃ――」
「いーや、そういう問題。それにさ、塵も積もれば、っていうだろ。我慢できる程度の小さな不満が積み重なって、最終的に人生をつまらなくさせるんだってなにかで読んだぞ」
「本の受け売りなんてどうでもいい。それに、人生ならもうずっとつまらない」
「だからこそ、飯くらいうまいものを食べたいじゃないか」
やけに実感のこもったシリルのひと言に、フレディは軽く息を吐いて天井を見上げた。
「……オルグレン魔術伯のことは、残念だったな」
言うかどうか少しだけ迷った唇が、昨日の来訪者の名を発する。
「……別に。予想通りだろ。この呪いは解けない」
「解けないとは言われなかった」
「実行不可能な解呪方法なんて、存在しないのと同じだ」
声にいっそうの冷たさをのせてシリルが吐き捨てるように言う。
フレディの再三の説得により、屋敷に招いた客が出した回答は、シリルの――ダンフォード家にかけられた呪いは事実上解呪不能というもので、祖父の代から知っていたことの再確認にしかならなかった。
シリルと同じくらい生きることに意味を見出せてなさそうな、気怠げな宮廷魔術師長との短い面会を思い出して、二人は束の間黙り込む。
周辺諸国と同じく、この国でも魔法や呪いは忌避する対象として恐れられている。
その魔法と呪術を操り、人間を破滅へ導く禁忌の存在――それが、魔女である。
魔女は人の形をしているが人ではない。闇と時の狭間に棲む魔性の生き物だ。
決して関わってはならないと言われるその魔女に、シリルの祖父は運悪く遭遇し、呪いを受けた。
本人だけでは終わらずに代々引き継がれる呪いはまず祖父の、そして父の命を奪い、今はシリルの中に巣くっている。
人間を惑わし玩び、戯れに命を取る魔女は災厄の象徴である。
人でも物でも、少しでも関わったものは同じに穢れたとみなされ、徹底的に排斥される。魔女と遭遇したことが知られたり、表立って呪いの解呪方法を探したりすることは社会的な死を意味した。
祖父が呪われたとき、シリルはまだ幼くて、事態を正確に理解していなかった。
ただ、目の前で何か恐ろしいことが起きたという事だけは分かった。
それ以来、父と、呪いの事実を知る数少ない使用人とだけで秘密裏に解呪の方法を探してきたが、タブーとなっている魔女について記したものは極端に少ない。
失意のまま父も亡くなって五年。
乳兄弟のフレディが「王宮魔術師に極秘で助力を請おう」と言い出した。
魔術師は魔術を発動できる者のことで、魔女とは違ってれっきとした人間である。
彼らの魔術はむしろ、人にとっても有益だ。
しかし、その高等な魔術も傍からは魔女の魔法と同じだと誤解されており、やはり人々から恐れられ、忌避されている。
国が声明を出し、魔術師に対する迫害を禁じて何年も経つが、今も差別的な見方をする者は少なくない。
魔術師たちは身元を保証するため王宮に所属し、さらに魔術の使用に自ら制限を課すことによって、どうにか民衆が抱く恐怖心を押さえ込んでいる現状だ。
王宮魔術師の長たるエドガー・オルグレン魔法伯は、歴代の魔術師のなかでも圧倒的な力を持つ人物として有名である。
過去に類を見ない卓越した魔術技能と知識を誇る彼ならば、ダンフォード家を縛る呪いの解呪もできるかとフレディは期待したのだ。
渋るシリルを説得し、秘密裏に繋ぎを取り、ようやく叶った面会だった。
(なのに……魔女を見つけだして従わせるしか、方法がないなんてな)
呪いを上書きされる可能性だってある災厄の魔女に、どうして二度もまみえたいと思えるだろう。第一、魔女が今どんな姿で、どこにいるかも分からないのに。
実質不可能な解決法を示されるくらいなら、いっそ「無理だ」と言われたほうがどれだけよかったかしれない。
「……なにか方法が――」
「あるわけない。フレディだってよく分かっているだろ」
まるで手の中の希望を潰すように拳を握り込んだシリルは、二十三という年齢に似合わない諦念だけを顔に浮かべる。
屈託なく笑う少年だった乳兄弟の笑顔を、フレディはもう長いこと見ていない。
かといって、自分まで感情を削いでしまうのは負けを認めるようで気に食わないから、あえて子どもの時と同じに兄貴面を続けることを、随分前に決めた。
「おじい様のように撃たれて死ぬか、父さんのように自ら命を絶つ方向にいくか。俺なら、事故に見せかけるのが自然かな。三代目も死ねば、いい加減に魔女も満足するだろう」
「シリル、それ以上言うと怒るぞ」
「そうだな、この話は終わりだ」
拳を解いた手を向けて、シリルは憤るフレディを遮る。
「……あのメイドのことは、フレディが責任を持てよな」
「ああ、まかせとけ」
ようやくローラの雇用を言葉で認めたシリルに、フレディがほっとして雰囲気を戻した。
「それと、二階にはもう二度と来させないでくれ。特に夜は」
「強めに脅しておいたし、近寄らないように言ってあるから大丈夫だって。でも昨夜の件は、僕は関係ないからな? むしろシリルのほうが、あの子に近づかないように気をつけたほうがいいんじゃないかなあ」
「……うるさい」
揶揄うように口角を上げたフレディに、シリルはますます顔を顰めた。
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