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男爵家からの脱出 4

 久し振りに落ち着いて食べることができたせいか、失敗リメイクの簡単夜食だったにもかかわらず、とても満足な食事だった。


 結局、さらに追加で焼いたパンを二人と一匹で分けて食べ、贅沢にも今は食後の紅茶をいただいている。

 ローラはテーブルの角を挟んでフレディの隣に座っており、犬は二人の間にゆったりと横になっている。気持ち良さそうに揺れるふさふさの尻尾がのどかだ。


(はあぁ、ヴィトック産のベーコン、おいしかった……! それに卵も新鮮なんだなあ、ちっとも臭みもなくて濃厚。オムレツにしたらいいだろうな)


 野菜もバターも、キッチンに常備されているすべてが最高品質だった。さすがは侯爵家である。

 幸せいっぱいの食事を噛みしめつつ、さて皿を洗うかと立ち上がろうとしたところ、さきほどからなにか考え込んでいたフレディが不意に話しだした。


「それでですね、ホイストン卿のことですが」

「……はい」


 せっかく良い気分だったのに忘れたい名前が耳に入って、低い声が出てしまった。


「逃げるとおっしゃいましたけど、行くあては? 仕事の目処や、誰か頼れる人は?」

「……ありません」


 祖父母が生きていたら助けてくれたかもしれないが、それならそもそも今の状況に陥っていないはずだ。

 ローラの母や伯母が育った領地は、王都からだいぶ離れている。それにノークス子爵家が没落したときに王家に戻されて今は直轄地になっていると聞いている。運良く辿り着いたところで、ローラのことを知っていて、助けてくれる人は誰もいないだろう。


(無謀だったかな……)


 唯一の身内は敵同然で、頼れる人はなく、できることといったら家事だけだ。

 この先、紹介状も無く身元も明かせないローラが就ける仕事など限られる。逃げ出したことが間違いだとは思わないが、容赦のない現実を前に気が重くなる。


(それでも、出ていくって自分で決めたもの)


 だが、なんとか前向きになろうとするローラにフレディが追い打ちを掛けてくる。


「ホイストン卿は蛇のようにしつこい男です。もし彼がローラさんを既に『自分のもの』と認識しているなら、逃げきれるとは思えません」

「う……」


 自分でもそう思う。あの視線、あの態度。思い出すたびに鳥肌が立つ。


「それに、リドル男爵も黙ってはいないでしょう。貴族二人に探されて、いつまでも見つからないわけがない」

「……はい」


 俯いてしまったローラに、フレディが淡々と話し続ける。


「というわけで、ローラさん。あなたが得意なのは料理だけですか?」

「家事全般できます。お菓子作りは特に好きですが……?」

「ああ、レモンメレンゲパイを作れるくらいでしたね。チェリーパイやレイヤーケーキは」

「おまかせください」


 唐突な質問に首を傾げつつ、ローラは素直に答える。


「苦手な動物は?」

「ありません、動物はみんな好きです。あ、でも蜂だけは刺されてすっごく腫れて大変だったことがあるので、ちょっと苦手です」

「なるほど。まあ、昆虫はないでしょうから問題ないですね」

()()?」

「いえ、お気になさらず」


 ますますなんのことだか分からない。傾げた首が肩につきそうになっているローラに、フレディが驚くことを提案してきた。


「この家で働きたいと言いましたね。よろしい、受け入れましょう」

「えっ」

「仕事内容は、炊事を含む家事全般。ローラさんは一応男爵令嬢ですし、侍女やパーラーメイドのほうをお望みでしょうが、その必要がない家ですので」

「構いません!」


 今だってオールワークスだ。それに、皿洗い専門のスカラリーメイドだろうが、下働きのホールガールだろうが、雇ってもらえるなら文句なんてない。

 立ち上がって大きな声を上げたせいで、犬も驚いてワフ、と咆えた。おかげでちょっと和んだが、突然の提案にローラの目は丸くなったままだ。


「でも、いいんですか?」

「この料理の腕は逃すには惜しいですね。そうでしょう? ええ、そうですね」


 フレディは犬に同意を求めて勝手に頷いているし、犬もワフワフとなにやら言っていて、本当に話していそうに見えてしまう。

 いや、犬のほうは不満があるようで、フレディのズボンの裾を噛んで引っ張っている。お腹がいっぱいになったから遊びたいのかもしれないが。


「えっと、ワンちゃんじゃなくて、侯爵様の許可が必要なのでは……?」

「私がいいと言えばいいのです。そもそも、使用人の雇用は執事の裁量ですから」

「は、はあ」


 ローラは知らなかったが、貴族家では一般的に、下級使用人の人事権は家政婦や執事などの上級使用人が持っているのだそう。そして、筋金入りの人嫌いである侯爵閣下は使用人の採用可否面接もしないそうだ。

 呆気にとられるローラを置いて、フレディは着々と事を詰めていく。


「ただ、雇用条件は厳守していただきます」

「それはもちろん!」

「ダンフォード侯爵家の一員となれば、伯爵家や男爵家などが軽々に文句を言ってくることもないでしょうが、しばらくは外出禁止で屋敷の中だけで働いてもらいます。それと、ここで見たことや知ったことを口外しないという誓約書も書いていただきます」


 続けていろいろと制約事項を伝えられる。主に人嫌い侯爵様の意向が反映された約束事がたくさんあるが、それを差し引いても願ってもない提案だ。


「そうですね、下町のあの酒場で以前に知り合っていたということにしましょうか。使用人の引き抜きは珍しいことではありませんし、急に人手が必要になって、私から声を掛けたということに」


 そんな設定まで考えてくれて、ようやく実感が湧いてきたローラは目を輝かせる。


「ひと月は仮採用です。勤務態度が悪かったり、少しでも約束に反する行動が見られたら、すぐに出て行ってもらいますよ」

「はい! ありがとうございます!」

「礼なら完食したその犬に言ってください」

「ありがとう、ワンちゃん! おいしいごはんを作るね!」


 ローラはばっと床に膝をついて、犬の首に抱きつく。ぎょっとした犬にびくりとされたが、吠えられはしなかった。

 その様子を見たフレディは楽しげに笑い声を上げ、ガラリと口調と態度を崩した。


「よし、じゃあ決まり……っていうことで、外向きの言葉も終了ー。これからはラクにやらせてもらうから」

「は、はい」

「ははっ、固いなあ! 僕ね、執事の肩書きはあるけどシリルとは乳兄弟なんだ。家族みたいなもんでさ、あいつにもこの態度だから」


 さっとラフな口調に変えたフレディにローラはまだついていけないが、明日の心配が無くなった心はぐっと軽くなっていた。


「さ、今日はもう遅いし休もうか。使用人部屋は使ってなくて埃っぽいから自分で掃除して。それと、明日の朝食からよろしく」

「期待してください!」


 満面の笑みで張り切るローラを、フレディは面白そうに、犬は怪訝そうに見つめる。


(よかった……! よし、がんばる!)


 ――こうして、ローラの新しい勤務先が決まったのだった。


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