男爵家からの脱出 3
「フ、フレディさん」
「なんでしょう、ローラさん」
「あの、今、もしかして、お料理を……食べ物を作っています?」
フライパンの中にあるのは、ごろりとした黒い塊だ。多分肉だろうと思われるそれは、完全に炭化している。
(どうりで焦げ臭いと思った!)
その隣の小鍋には、焦げ茶色のものがグズグズに煮溶けている。
「……料理以外のなにに見えると言うのです」
「ええと、その、呪いに使うなにかを作っていたりとか」
ネズミ避けの毒餌とは言えなかった。だって、ネズミだって食べなそうだ。
しかしフレディはムッとして明らかに機嫌を悪くする。
「私と旦那様の夜食です」
「は!? 食べるんですか!? それを!? 本気で!?」
「失礼ですね。食べ物を加工しているのですから、食べられるに決まっています」
料理ではなく加工と言うところがなんとも怪しい。思わず怯んだローラに、フレディは自慢気に顎を上げた。
「ヴィトック産のベーコンですよ」
「高級品じゃないですか!」
即座に反応してしまったが、専用に育てたブランド肉を使い、塩にもこだわって一流の職人が丹精込めて作る、とんでもなく高価なベーコンだ。
さっと炙ると外はカリッと中はジューシー、とろけるような脂身としっかりした赤身のバランスが最高で、シンプルながら極上の一品になる。
リドル家でも、伯母主催の見栄張り晩餐会で一度だけ使ったことがある。もちろんローラの口には入らなかったが。
価格の面でレモンよりはるかに入手困難な品の、なれの果ての姿がフライパンにあった。
(なんてこと……!)
悲愴な顔で手元を覗き込むローラのつむじに、フレディの不機嫌な視線が刺さる。
「なんですか、文句でも?」
「文句というか……あの、わたしが作りましょうか?」
「つまり、見ていられないと」
フレディから冷気が発せられた気がする。まずいと思ったが、このままでは最高級のベーコンが浮かばれないし、料理をする者として言い出した以上は引けない。
「い、いえ、決して侮辱するつもりはなくて! で、ですが、こうなった原因は深夜に突然お邪魔して、お料理の手を止めさせてしまったわたしのせいかなーって、それで、お役に立てればと! 料理は得意ですので!」
「まあ確かに、その点はローラさんに責任がありますね……普段はここまで焦がさないんですよ」
「ですよね、そう思います!」
なんとか言い繕えば少しだけ空気が和らいで、ほっと胸をなで下ろす。
「よろしい。では、お手並みを拝見しましょう」
「おまかせください!」
トンと胸を叩いて、場所を譲ってもらう。
驚いたことに、消し炭かと思われたベーコンは中には一切火が通っていなかった。外側がこれほど真っ黒なのに、逆に器用である。
そのベーコンは、無事な部分を取り出し切り分けて、焦げを落としてきれいにしたフライパンで軽く火を通す。
小鍋の茶色は玉ねぎのスープだそうだ。煮込みすぎのこちらは水を足して塩味を調整し、ついでに卵を落としたら復活した。
次々と手際よく食事を作っていくローラを見て、最初は懐疑的だったフレディの雰囲気も次第に感心するものに変わってく。
「言うだけはありますね。そういえば、昨晩お渡ししたレモンは」
「あっ、おかげさまで、とってもおいしいレモンメレンゲパイになりました。逃げてきたので食べていませんが」
使っていいと言われた野菜をサッと湯がいて簡単ドレッシングで和えて温野菜サラダにし、棚にあったパンも焼いてバターを塗れば、夜食の完成だ。
「お待たせしました!」
「うまそうです」
「へへ、ありがとうございます。こちらのキッチン、すごく使いやすいですね。おかげで楽しくなっちゃいました」
「料理が楽しいとは、これまた奇特な」
「そうですか?」
あの家で家事を押しつけられているのは事実だが、ローラは料理自体は好きだ。ところがフレディは、本当は料理が苦手なのだと打ち明ける。
「やむにやまれず作っていますが、自分で作らずに済むならそれに越したことはありません」
「はあ」
深夜でコックがいないから、夜食は仕方なく自分で作っているのだろう。
(それなら、先に用意してもらっておけばいい気もするけど)
そうしていないのは、なにか理由があるのだろうとローラは考える。
その家ごとの決まりとか慣例とかは、けっこう意外で様々だ。そして、他家の者が嘴を挟むところではないので、これ以上は突っ込まないでおく。
「わたしだったら、こんな立派なキッチンで料理できるなら、どんなご馳走でも張り切って作っちゃいますね。……あれ、さっきのワンちゃん?」
皿に盛り付けていると、半分開いたキッチンの扉の向こうに先程の犬の姿があった。
怪我の手当ても済んだせいか、ローラに向かって唸ることはもうしていないが、不審そうに鼻先にシワを寄せてこちらを覗いている。
(わあ、やっぱり大きかった! それに賢そうだなあ)
明かりの下で見ると、ますます立派な犬だった。艶やかな毛は銀に近い灰色で、精悍な姿には犬というより狼っぽさが漂う。
「おや、珍しい。普段は呼ばなければキッチンに近寄らないのに」
「そうなんですね」
不思議がるフレディに、ローラは曖昧に相槌を打つ。犬は嗅覚が人の何倍もあるというから、焦げた匂いはキツいだろう。
(それなら今は「おいしい匂い」って思って、来てくれたのかな?)
そう思うと、ローラは嬉しくなった。
「ふふ、いらっしゃい。あなたも食べる?」
屈んで尋ねると、顔はそっぽを向いているが、太く長い尻尾がパタパタと揺れた。可愛い。
「ああそうですね。ローラさん、その犬にも食事をさせてください」
「はーい。あ、でも犬ってたしか食べさせちゃいけない食材がありましたよね。玉ねぎはダメなんでしたっけ。ベーコンも塩気があるし」
「この犬は大丈夫です、特別ですので」
なにか別に用意しようとしたら、今作った食事を与えていいと言われてしまった。不安はあるが、重ねて「大丈夫」だと言われれば従うしかない。
「それなら、少し冷ましてから」
「そのままで」
「えーと……じゃあ。はい、どうぞ」
(いいのかなあ)
けれど、犬のほうも期待しているようで、早く寄越せと言わんばかりの圧を発して待っている。言われるままに盛り付けて出すと、フレディも犬もあっという間に完食した。
「わあ、いい食べっぷり。嬉しいです。おいしかったですか?」
「それなり……いえ、そうですね。なかなかです」
適当に返そうとしたフレディだが、犬に唸られて訂正する。味方をしてくれたようで、ますますこの犬が可愛く感じる。
「お代わりもありますよ」
「魅力的な提案ですが、それはローラさんがどうぞ。あなたも空腹でしょう」
「え?」
「お話を伺うに、今日はなにも食べていないのでは? 今夜の乗り合い馬車はもうありませんし、朝一番に出られるにしても空腹では満足に動けないでしょう」
逃げるにも体力が必要だと言われてしまった。
色々ありすぎて空腹も忘れていたが、返事のようにお腹がぐぅと鳴ってしまった。恥ずかしい。
「ふふふ、体は正直ですねえ」
「な、なんかその言い方って、違う意味に感じるんですけどっ?」
「おや、食べないとおっしゃる」
「いただきます! おいしい!」
赤い顔で反論をするローラにフレディがクスクスと笑う。犬にまで訝しそうに眺められながら、ローラはしばらくぶりのまともな食事にありついた。