虐げられた令嬢
同名コミカライズの原作として書きました。レーベル様の許可をいただき、webで公開します。
2024/2/20 コミックライドアイビーvol.13 より、漫画連載開始。作画は夏チヨ子先生です。
漫画も小説も、両方お楽しみいただけたら嬉しいです!
大陸の北東に位置するレザント王国の都は、王宮を中心にして網の目のように大小の通りが広がっている。
大店が軒を連ねる大通りは、魔法灯に照らされて夜でも明るい。しかし、一本奥に入れば途端に雰囲気があやしくなるのはどこの国でも同じ。
酔っ払いがたむろし、ガラの悪そうな者が賭博場に出入りする名もない通り。
夜更けこそ賑わうその一画にある酒場の木戸を、お仕着せ姿の若いメイドが迷いなく押した。
カランと鳴ったドアベルの音に、カウンター奥で飲み物を作っていた黒髪の女将が顔を上げる。
「あらぁ。いらっしゃい、ローラ」
「おかみさん、こんばんは!」
店内は赤いシェードのランプに照らされており、痩せたメイドの平凡極まりないブラウンの髪やヘーゼルの瞳も幾分か美しく見える――が、左の頬は不自然に腫れていた。
痛々しいそれには触れず、客たちはローラと呼ばれたメイドに陽気な声をかける。
「おっ、ローラ。今夜も意地悪ババァのお使いか?」
「ははっ、強突く張りなオヤジのほうかもな!」
「もう、分かっているなら通してちょうだい! 急いで戻らないといけないの」
慣れた様子で酔客をあしらいながら混雑した店内を進み、ローラはカウンターに近寄る。女将はステアが終わったグラスを置いて、形のいい唇をにんまり上げた。
「ようやくウチで働く気になった? あんな家にいるより可愛がってあげるわよ。少なくとも……殴りはしないわ」
言いつつ、女将はさっと冷水に浸した手拭きをローラの腫れた頬に当てる。痛みに一瞬しかめた顔をすぐに戻して、ローラは無理に笑ってみせた。
「……あはは、そのときはお願いするね。あのね、レモンを分けてほしくて」
そう言って、ローラはカウンターに手提げ籠を置く。
夏という季節はあるものの、一年を通して気温が低めのこの国で柑橘はたいして実らない。最近、輸入されるようになったレモンやオレンジは、見栄っ張りな王都のご夫人を中心に大流行中だ。
販売網は貴族が独占しており、買うには会員制の商会を通して高級果物店に注文する必要がある。値段も高いが、それ以上に入手が困難な果物の筆頭である。
それを分かった上で、レモンメレンゲパイを朝までに作れと、ローラは「奥様」からつい半時間前に命令された。
台所の床磨きをしていたローラは思わず、無理ですと言ってしまって、口答えするなと扇で打たれた。これもいつものことである。
どんなに理不尽な要求であっても、反抗は許されない。生まれてからの十九年でそう身に沁みていた。
「あのねえ、ローラ。ウチはたしかにこの辺で一番気の利いた店よ。でも、貴族の占有品なんてあるわけないでしょ。見つかったら難癖つけられて没収や罰金――」
スッとカウンターに置かれた銀貨に、女将は眉を上げて黙りこむ。
カウンターの下から黄色い果実を二つ取り出すと、ローラの手提げ籠にさっと入れた。
「……気を付けて帰るのよ。最近、城下に人攫いが出るらしいから」
「うん、ありがと!」
ぱっと笑みを浮かべて店の外へとって返すローラを見送って、店内の客たちは大きな溜め息を吐いた。
「あんないい子を殴るなんて、お貴族サマはろくなもんじゃねえな」
「ろくでもある貴族なんて、俺ら見たことないだろ」
「違いねえ!」
誰かの言葉に、どっと乾いた笑いが起こる。
ローラは、この下町から少し離れた貴族街に居を構えるリドル男爵家の令嬢だ。にもかかわらずメイドの格好をさせられて、雑役女中としてこき使われている。
というのも、リドル男爵夫妻はローラの実の両親ではない。リドル夫人マチルダは、ローラの伯母だ。
実母のオリビアは未婚のままローラを産んで亡くなった。
子供のいない伯母夫婦が姪を引き取ったのは愛情からではなく、父親が誰かも分からない私生児という醜聞が発覚するのを防ぐため仕方なくのことだ。
表向き実の娘として王宮に届けはしてあるが、ローラ本人にも養女であることは隠していない。
金持ちゆえに吝嗇家の夫は使用人を雇う代わりにローラに一切の家事をさせているし、ヒステリックなその妻は憂さ晴らしのはけ口にしている。
今夜のように、商店が全部閉まった夜中に買い物に行かされたり、手に入るはずが無いものを用意しろと言いつけられたりなどの嫌がらせもしょっちゅうだ。
淹れた茶の味が気に入らなくて、吹雪の晩に頭から水をかけられて屋敷を閉め出されたこともある。ちょうど巡回で通りかかった警察に保護されなければ、命が危なかった。
そんなふうに伯母夫婦に虐げられているローラだが、屋敷の外には味方がいた。下町の住民たちである。
伯母夫婦に虐げられ、気を抜けない生活をしているせいか、ローラは妙に勘が働いた。
昼でも夜でも、無茶なお使いを言いつけられるたび下町に足を運んでいたが、その際に小火を発見して大火事になるところを食い止めたり、廃屋で梁の下敷きになっていた子供を保護したりということが幾度かあった。
この酒場の女将も、ローラに助けられた一人である。
客が隠し持っていた刃物にローラが気づいて強盗を未然に防ぐことができたし、その前には王宮騎士による抜き打ち検査を小耳に挟んだおかげで摘発を免れたこともあった。
偶然とはいえ何度も助けてくれたローラに下町の者は恩と同情、そして愛情を感じている。
いつかはあの家から抜け出させてやりたいと隙を窺っているが、平民が貴族の家に横やりを入れることは難しい。それに強引に進めようとすれば、今以上にローラが傷つけられることは目に見えていた。
「あぁ、もう! 灰色狼がやってきて、あのいけすかない義両親を森に連れて行って埋めちゃえばいいのに」
「そうだな、女将! 魔女に呪われちまえ、でもいいな!」
そうだそうだと喝采が上がる。女将が言った物騒な文言は、古い子守歌の一節だ。
夜更かしな子供に「早く寝ないと、狼が来て森に連れて行かれるぞ」と脅す詞だが節は美しく、歌い継がれている。
どこからかギターを持ち出した客が伴奏をつま弾くと酔っ払いの合唱が始まり、店にはまた喧噪が戻った。