婚約者でした
ジェラスから走って逃げたダリアはその後ジェラスに遭遇することなく入学式を無事に終えた。
帰りの馬車の中でディーノに「ジェラス君との婚約は様子見という形で継続されているよ」と言われたのだが、ぼんやりとしていたダリアの耳には全く届いていなかった。
翌日からダリアはひたすらジェラスと遭遇しないように心掛けて学院生活を過ごすこととなった。
『まるで隠れんぼしてるみたいだわ』
ジェラスというよりは男子生徒と鉢合わせることがないようにコソコソとするダリアは周囲から見ると奇妙にしか見えず、クラスメイト達は「ダリア様は何をなさっているのかしら?」と不思議な物を見る目でダリアを見ていた。
最大の遭遇チャンスはランチタイムで、ダリアは食堂でその日の軽食メニューを受け取ると席には着かずに庭で取るようにしていた。
ジェラスは仲の良い男子生徒達といつも食堂で食べており、そこでダリアまで食べてしまうと絶対に視線はジェラスへと向かってしまうからだ。
『自分でも諦めが悪すぎて嫌になる...…でも好きなのよね...…いっそ嫌いになれたら楽なのに』
一人で食べるランチはどこか味気なく、会話をする相手もいないので寂しいのだがそこはグッと堪えるしかない。
仲良くなりつつある同じクラスの女子達に誘われることもあるのだが、食堂で食べると聞くと断っている。
「今はまだ暖かいからいいけど、冬になったらどこで食べたらいいかしら...…」
「別に食堂で食べればいいんじゃないか?」
零した独り言に答えが返ってきた為、ダリアは「ヒィッ!」と小さく叫んでしまった。
「ククク、ごめん、驚かせちゃったね。」
声の方を見ると、赤茶色の髪に黒い瞳のどこか異国の雰囲気を漂わせる日に焼けた肌をした彫りがとても深い男子生徒が肩を震わせていた。
「どなた様ですか?」
「君、ジェラスの婚約者でしょ? 俺はジェラスの友達で同じクラスのマーシャル・ピエリだ。一応ピエリ侯爵家の長男。よろしくね」
「まぁ、ピエリ侯爵家の! お初にお目にかかります、私、ダリ」
「ああ、堅苦しい挨拶いらないから。君の名前は知っているしね。僕のことは気軽にマーシャルと呼んでよ。僕もダリアと呼ばせてもらうから」
「は、はぁ」
「で? ダリアはどうしてこんな所で一人ぼっちでランチしているのかな? ジェラスもいるんだし、食堂で食べればいいと思うんだけど? 君は一人で過ごすのが好きなタイプには思えないんだけど、ジェラスの話を聞いていた限りでは」
「それは...…私達はもう婚約者ではありませんし、未練がましく私がジェラス様、いえオルティニア様を追い回すようなことはしたくありませんし、かと言って私はまだオルティニア様の事をお慕いしているので顔を合わせない方が」
「ちょ、ちょっと待って! 君達婚約者じゃないの? え!? それは初耳なんだけど!」
「入学前に婚約を白紙に戻しましたので、もう婚約者ではありません」
「ちょっと落ち着こう! いや、落ち着くのは俺か!? え? でも俺、昨日ジェラスに『君の婚約者は学院に来ているのかい?』と聞いたら『避けられているようだ』と苦い顔をされたばかりだけど!?」
「え?」
「君達の婚約、本当に白紙に戻っているの? ジェラスはそうは思っていないようだったよ?」
「そ、そんな、そんなはずは!」
「まあ、事故とはいえ女の子を殴るような最低のクズ男だから君がジェラスに愛想をつかしても当然だとは」
「ジェラス様はクズ男ではありません! とても優しい素晴らしい方ですっ! ご友人と言えどジェラス様を貶める言い方はなさらないでください!」
「だそうだよ、ジェラス」
「え?」
振り返ったその先に、耳を赤く染めて気まずそうな顔をしたジェラスが立っていた。
「ダリア...…立ち聞きするような形になってすまない」
数日ぶりに目にしたジェラスはやはりとても素敵で、心臓が壊れそうな程に騒がしい。気まずげに発する声すらもいつも以上に素敵に聞こえる。
『ああ、やっぱり好きだわ...…』
ふとそう思って、いけないとその想いを閉じ込めようとしたのだが、本人を目の前にすると胸の高鳴りは一切なりを潜めようとせず、一層強くなるばかり。
こちらに歩を進め始めたジェラスを見てダリアはその場から逃げるように走り出した。
『私、逃げてばかりだわ』
そう思ったけれど今はまだ気持ちを隠して接することは出来そうにない。
「あ...…」
ジェラスは走り去っていくダリアの姿を見てツキンと胸が痛んだのだが、それが何故なのかすら分からぬままその姿を見つめていた。
「お前なぁ、こういう時は走って追いかけるもんじゃないのか?」
「え?」
「婚約を白紙に戻したって思ってるみたいだし、誤解があるならさっさと解くべきだろ?」
「あ、ああ...…」
「行け! 追えよ、馬鹿が!」
マーシャルに発破を掛けられたジェラスはダリアの姿が見えなくなってやっとその後を追い掛けるように走り出したのだが、ジェラスが予想していた以上に足の速いダリアの姿はもう見付けられなかった。
おめおめと戻ってきたジェラスにマーシャルが「お前、そういう所本当に駄目な!」と呆れたように言い放ち、ジェラスはガックリと肩を落とした。
「一途でいい子じゃん。何が駄目なんだよ? あれか? へミリー嬢のことか? 確かにへミリー嬢は可愛いが、あの家と親戚関係になんてなれないだろ? だからこそのダリア嬢との婚約なんじゃないのか?」
「それは...…」
「歩み寄る努力もしないで一方的に嫌って、避けられたら追い掛けるって、お前、何がしたいんだよ? お前がいらないなら、俺がもらうぞ、ダリア嬢。お前の話し振りだと猪女にしか聞こえなかったが、実物は凄く美人じゃないか。あんな美人に一途に想われてるのに邪険にするなんて、お前そのうち刺し殺されてもおかしくないぞ!」
「美人...…」
「お前! ダリア嬢の顔すらまともに見たことがないなんて言わないよな!?」
ダリアは収穫時期の小麦のような髪色に紫からオレンジへと変わっていく夕焼けのような不思議な色をした目の女の子だ。
初めて会った時は確かに可愛いと思ったものだが、婚約者になってからはへミリーとの仲を引き裂いたやつとしか思わなくなり、顔の美醜なんて考えたこともなかった。
「そうか...…まともに見ようともしていなかったんだな...…」
自分のことを心底最低だと思った。
*
「お父様! 私とジェラス様の婚約は白紙に戻ったのですよね?」
家に帰るなりディーノの執務室へと飛び込んで来たダリアは大声で訊ねた。
「入学式の日にも言ったけど、婚約は様子見という形で継続されているよ?」
「継続...…」
「だけど、ジェラス君はダリアの事を嫌っているようだし、お互い歩み寄れない関係のままでは可愛い娘を託す男としては認められないからね。そのうち本当に白紙に戻る可能性の方が高いとも考えている」
「そう、ですよね...…」
「だからダリアには言わないつもりでいたんだけど、模擬社交の授業ではどうしたって婚約者であるジェラス君と組むことになるだろう? だから伝えたんだけど...…聞いていなかったようだね」
「はい...…聞いていませんでした...…どうして白紙にならなかったのですか?」
「僕としては白紙に戻すつもりだったんだけど、ジェラス君が拒否したんだよ」
「え? 何故?」
「さぁ、それはジェラス君にしか分からないかな? 僕達は何も強要はしていないよ? あくまでジェラス君の意志を尊重して、その上で様子を見ることにした、それだけ。だけど今後もジェラス君がダリアを嫌うようなら、その時はジェラス君が嫌がっても婚約は白紙に戻すつもりだよ。授業でジェラス君と接する機会が今後増えていくだろうから、ダリアはジェラス君のことをしっかりと見て、きちんと判断するといい」
「...…はい、分かりました」
部屋に戻ったダリアの心の中は複雑だった。婚約は白紙になってはいなかった。
そのことが嬉しいような苦しいような...…だけど拒否したのがジェラスだったことは思いがけない嬉しさであり、もしかしてなんて甘美な可能性が顔を覗かせる。
『そんなはずがない! だって、今までの態度から見て好かれてるなんて自惚れ、抱けるはずがない!』
そう思うのに、婚約の継続を望んでくれたのだと思うと胸が甘く疼く。
『...…きっと私を殴ってしまったことへの罪悪感と責任感よね...…自惚れてはいけないわ...…だって元々嫌われているんだから』
ジェラスは正義感と責任感が強い男だ(とダリアは思っている)。意にそぐわない形でも自身が負わせてしまった怪我の責任を取ろうとしているのだろう。
『そんなことしなくていいのに...…でも、そういうジェラス様だからこそ嫌いになれないのよね...…』
好きでもない相手と添い遂げなければいけないなんてジェラスにとって不幸でしかないはずである。
『うん...…やっぱりあまり関わらないようにしよう。その方がジェラス様の為になるわ。そして行く行くは婚約を白紙に戻して、私は職業寡婦として自立するのよ』
来週から本格的に始まる模擬社交の授業ではどうやってもジェラスと関わることとなるのだが、その授業以外ではジェラスと関わらないと心に誓ったダリアだった。
職業寡婦として自立するのよ!とありますが、この世界で働く女性のほとんどが寡婦である為に働く女性=職業寡婦だと思っている主人公なのでそう表記しています。
実際の寡婦はご指摘いただいたのですが、未亡人を意味していますが、主人公その点を何も考えていませんm(*_ _)m
主人公は思い込みが激しくちょっとお馬鹿です。