混乱の中
『思い返せば……相当ウザイ子だったわよね、私』
前世の記憶を思い出して思ったのはそれだった。
いくら好きだといっても、相手の気持ちも考えずにただひたすらに猪突猛進する、恋愛脳だった自分が酷く恥ずかしい存在に感じた。
そして、グイグイと想いばかりを押し付けられていたジェラスに申し訳なさを感じてしまった。
嫌いな相手から毎日突撃を受けて、グイグイ押し付けられる想いなんて苦痛でしかなかっただろう。
前世の記憶を思い出したからこそ考えられるようになった相手の気持ち。
『押し付けがましいだけの女の事なんて好きになれるはずもないわよね』
自分がしてきた事が酷く幼く感じて非常にいたたまれない。
嫌いな相手と末は結婚しなければならないジェラスが気の毒にも感じてきた。
だから解放してあげようと思った。
「お父様。私はジェラス様に心底嫌われております。嫌われている事は分かっておりましたが、どうしても諦めが付きませんでした。嫌いな相手と添い遂げるなんて苦痛でしかありませんわ。ですから、ジェラス様を私という枷から解放して差し上げたいと思うのです。婚約を白紙に戻して下さい。お願いします」
胸が酷く痛んだが、涙を堪えて懇願した。
「ダリアはそれでいいのかい?」
「ええ……今は胸が痛みますが、時が経てば笑って話せる日が来ると思います」
「そうか……ダリアも大人になったのだね」
「私、立派なレディでしてよ!」
「そうだったな」
こうしてダリアとジェラスの婚約は白紙に戻される方向で話が進められる筈だったのだが、これに待ったを掛けたのがジェラス本人であった。
元々正義感と責任感が少々強いジェラスは、故意にではなかったとはいえ、ダリアの顔に怪我を負わせた事で持ち前の責任感が思い切り発揮されてしまい、両家の親達が婚約の白紙を話し合う場に乱入し「婚約はそのままで! 僕は絶対に婚約解消は認めません!」と宣言してしまったのだ。
「そうは言っても……ダリアは君との婚約を白紙に戻して欲しいと言っているんだよ? 君はダリアを嫌っているのだろう? だったらこの婚約は君にとって苦痛でしかないはずだ。怪我を負わせた責任なんて感じなくていい。そんな責任感で婚約を続けたって、二人が幸せになれるとは思えない」
ディーノの言葉にジェラスは一瞬だけ躊躇の表情を浮かべたのだが、すぐに決意を固めた表情になり「責任感ではありません!」と言い切った。
結局二人の婚約は様子見という形で継続する事となったのだが、ディーノはその事を敢えてダリアには告げなかった。
婚約が白紙に戻されたと思っているダリアは暫く沈み込んでいたが、一週間もすると以前と同じように明るく振る舞うようになっていた。
心はまだ苦しく、痛みを伴っていたのだが、自分を気遣う家族にもう大丈夫だと伝えたくて、気丈に振舞っていただけではあったのだが。
*
ダリアがジェラスに恋をしたのは、初めて顔を合わせたその日だった。
サラサラの黒髪の綺麗な顔の男の子は、それまでダリアが接して来た親戚の男の子達とはまるで違い、王子様のように映った。
ジェラスはダリアが自分の婚約者になる女の子だなんて思ってもいなかった為、両親に教わったようにダリアを拙いながらも優しくエスコートし、へミリーにするように親切ににこやかに接しただけなのだが、意地悪な悪戯ばかりするダリアの親戚の子供達とは大違いなその大人っぽい対応に、ダリアはすっかり心を奪われてしまった。
二つ返事で婚約を了承したダリアとは対照的に、ジェラスは婚約を嫌がったのだが、ジェラスがへミリーに恋心を抱いている事を知っていたオルティニア伯爵は、ジェラスの答えを無視して婚約話を進めてしまった。
へミリーの家であるグリンス子爵家は、オルティニア伯爵家の隣に小さな領地を持つ新興の子爵家だ。
一階級下の子爵家であるから伯爵家へ嫁ぐ分には何の問題もなかったのだが、オルティニア伯爵家にとってグリンス子爵家は全く旨味のない家柄であり、逆に親戚関係になると厄介な相手であった。
グリンス子爵領は、オルティニア伯爵領と隣同士の領地であったが、鉱山資源の豊富なオルティニア伯爵領とは違い、大きな特産もない小さく慎ましやかな領地である。
へミリーは婿を取って後を継がずとも兄がいた為に嫁に出せる娘で、その容姿は評判になる程に愛らしかったのだが、へミリーの父親であるポアラ・グリンスは、一部で危険視される思考を持つ過激派と呼ばれる新興貴族グループの中心的人物であり、穏健派とされるオルティニア伯爵家とは対立する関係でもあった。
子供同士であれば問題ないだろうと幼馴染として接点を持つ事を許していたが、婚約や結婚となれば話は変わってくる。
へミリーと結婚したいと言われてはたまったもんではないと考えたオルティニア伯爵は、同じく穏健派であり、恩人でもあるムスリカ伯爵家との結び付きの重要性を考え、この婚約を早急に進めたのだが、その時にへミリーの家との関係性をジェラスに話す事をしなかった。
話していれば、ジェラスがへミリーへの想いを拗らせた結果、ダリアを嫌う事もなかったのかもしれないが、何も知らされないままにへミリーとの恋を強制的に壊されたと考えたジェラスは、大いに拗らせる事となってしまった。
後にその事はジェラスも知る事となったのだが、盛大に拗らせた後だった為に、聞いた所でダリアを好きになれるとは思えなくなっていた。
そうしての今回である。
ジェラスはこの時初めてまともにダリアを見た気がした。
拳が頬にぶつかる瞬間の、ぷにっとした女の子特有の柔らかさの直後のガツンとした骨がぶつかる衝撃。
自分の力で軽々と吹き飛ばされた小さな体。
慌てて駆け寄り抱き上げた時の、思いもよらぬ軽さと腕に伝わる女性特有の柔軟さに、初めてドキッと心が揺れた。
「とんでもない事をしてしまった」という罪悪感と痛ましい姿に心が酷く痛んだ。
事故であろうと、自らの手で傷付けてしまった少女への贖罪と、自分に対する自己嫌悪と、腕に胸に残る何とも言えない甘やかな感覚。
心の中は複雑怪奇に絡み合い荒れ狂っていたのだが、ダリアからの思わぬ提案はジェラスを更に困惑させた。
猪突猛進に自分への好意を押し付けてきたダリアだから、怪我をこれ幸いと「責任を取って結婚して!」と言われると思っていたのだが、まさか「婚約を白紙に戻して欲しい」と言われるなんて思ってもいなかったのだ。
「どうして……」
その話を両親より聞いたジェラスの口から出たのはそんな言葉だった。
その後、両家の両親達による話し合いの場に乱入し、婚約継続を宣言したのは、ジェラス自身にとっても意外な行動だった。
──あんなに好きだと言っていたのにこんなに簡単に手放すのか?
──僕が殴ってしまったから怖がらせてしまったのだろうか?
──こんなに簡単に心変わりするのか?
心は更に荒れ狂い、謹慎を言い渡されて見舞いにも行けず、手紙を出しても「そっとしておいてほしい」と突き返される日々。
そんな中でも未だに消えていかないダリアの感触。
──僕はおかしくなってしまったのか?
ジェラスは自分の感情が何なのかが全く分からず混乱の中にいた。