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白昼堂々

作者: 葵陽

それは、夏が始まったばかりの頃でした。梅雨が明けたばかりだというのに未だジメジメとしたまとわりつく湿気が鬱陶しい、七月はじめのことです。




私はとある私立大学の二回生で、心理学専攻だ。心理学を受講してはいたけれど別段職業にするつもりもなくて、いわゆる不真面目な学生というやつである。

今日は一限目から講義のある日で朝早くから大学に行っていたのだが、偶然が重なって全て休講になってしまった。喜び半分、徒労半分。

同じ講義をとっていた友人と今日はどうして過ごそうかと話していたのだが、どうにも欠伸がやまない。苦手な早起きをしたせいで眠気が酷かった私は、おとなしく家に帰ることにした。

「また明日ねー。」

「うん。バイバイ。」

友人と別れて、帰路につく。持ってきた教科書が重いのは、眠いせいなのか。

大学の最寄り駅に来ると、実家の最寄り駅行電車がちょうど着いた時だった。私は慌ててその電車に飛び乗る。

時刻は正午近く。私の実家は山の奥深いところにあり、その最寄り駅も林と田んぼに囲まれた田舎だ。そんな駅行きということもあって乗客は少なく、おじいさんとおばさんのふたりしかいない。

正午、電車が発車する。心地よい揺れが、朝早かったせいでウトウトしていた私を眠りへと誘ったのである。


覚醒したのは、眠ってからどれくらい経ったころだろうか。気が付くと、まったく見覚えのない駅に止まっていた。乗っていたおじいさんもおばさんもいなくて、電車の中は私ひとり。貸し切り状態だった。

車窓からは、綺麗な青い海が見えていた。私は寝過ごしたと、青ざめていた。

しかし冷静に考えると、内陸に向かうはずの電車を乗り過ごしたとしても海へ行ってしまうことはないのでは。ということは乗り過ごしたわけではない、のだろうか。私は不思議に思うものの、電車を降りる。

私が降りてすぐに、電車はドアを閉ざして行ってしまった。

腕時計を確認すると、正午半過ぎ。まだ空は、美しい青のままだった。


構内に設置されていた、ボロボロのベンチに腰をおろす。かつては飲料企業のロゴが書いてあったであろうそのベンチは、雨風にさらされたせいかペンキが剥げて無残な姿だ。

次の電車までどれぐらい待つだろうか、と駅に貼りだされた時刻表を見に行く。なんとベンチと同じく、ボロボロで時刻が確認できない。私は「新しいの貼っとけよ!」と内心憤慨する。スマートフォンで確認しようと取り出すも、目に入ってきたのは見るも久しい「圏外」という文字だった。いくら田舎といえども、近代化したおかげか圏外など見たことがなかったのに。仕方なく私はスマートフォンをカバンに仕舞い、正面の雄大な海を眺めることにした。いくら田舎でも、三十分か一時間もすれば電車の一本はくるだろう。

未だ昼ということもあり、私に焦りはなかった。

カモメが気持ちよさそうに、空を飛んでいる。

海からくる潮風も、心地が良い。たまにはこういう、寄り道もいいかもしれないと思った。

今年の夏は海に行こうかな、なんてことを計画していた。




海を眺めて五分くらい、経ったころ。海側の、向かいのホームに小太りの男が現れる。

はじめはただ茫然と、男性を視界の隅に置いていただけだったのだが。男性の手に持つものが目に入って、私は青ざめた。その小太りの男が持っていたのは、お腹の大きな女性である。

太っているのではない、妊婦だ。

男は妊婦の髪を持って、引きヅり歩いていた。男の顔ははっきりとは見えずただ、ニタリと笑っている口もとだけが見えた。咄嗟に私は自分の口を塞ぎ、その光景を見ていることしかできなかった。正直見ていたくはなかったが、目を逸らすことも出来なかった。

そのまま男は、妊婦を引きヅって海の方へと消える。此方には気づいていなかったようだ。

向かいのホームには、血痕だけが残っていた。


茫然としていると、遠くの方で学校のチャイムが聞こえてきた。

その音に覚醒すると同時に、ビクリと肩を震わせる。

時間帯は昼間で、こんなにも陽光を浴びているところなのに真夜中よりも怖い場所のように思えてきた。

早く、早く家に帰りたい。


チャイム音が合図だったかのように、電車が来る。ようやく帰れるという安心と、凄惨な光景を見てしまってどうしようという不安が襲ってきた。

電車が到着し、ドアが開いた。

そして、私は閉口する。

乗っていたのは皆、顔の見えない人たちだった。老若男女が降りてくるが、誰も彼も、顔が見えない。口もとだけが怪しいくらいに、見えた。

彼らはブツブツとなにかを囁いていた。

その声を聞きたくなかったが、耳に入ってくる。


「痴漢痴漢痴漢痴漢痴漢ちかんちかんキモイキモイキモイキモイきもきもきもきもきもきも」「席席席席席席席せきせきせきせきせきせきせき譲れ譲れ譲れ譲れゆずゆずゆずゆず」「近頃の若者は近頃の若者は近頃近頃近頃近頃ちかちかちかちちかちか若者若者若者わかわかわかわかわか」

よくわからない、しかし意味は分かる言葉を繰り返し呟いていた。

私がベンチで小さく縮こまっていると、「若者」と呟いていたおじさんらしき人が近づいてくる。「若者若者若者」と呟きながら、私に拳を振り上げてくる。

怖くなって私は目を閉じて、頭を抱えて身を守った。



いつまでたっても予想していた痛みはなく、私はそっと目を開ける。

「大丈夫かい、あんた。」

目の前には、優しく私に声をかけるひとりの婦人がいた。

柿渋染めの日傘をさした、和装の婦人だ。彼女は金髪だったが、妙に和装が馴染んだ美人だった。買い物袋を右手に、左手に甚平を着た五歳くらいの男の子を連れていた。男の子はラムネを持っている。つぶらな瞳で、親子のはずだが男の子の髪は茶色だった。



「ひどい汗だよ、これでお拭き。」

そう言って婦人に木綿のハンカチを差し出される。

私はつい、受け取ってしまった。


「顔が真っ青。あんた、どこの子だい。うちは、遠いのかい。」

婦人は私の背を優しく撫でる。とても暖かい手だった。

夏もはじまったというのに、私は妙に寒さを感じていた。手が驚くほど白くて、冷たくなっている。

私は婦人に対して何も、応えられなかった。


「ねえ、ラムネ飲む?」

男の子も心配そうな顔で、聞いてきた。飲みかけのラムネを差し出される。


「ばっちいから口つけたもんをよそ様にあげるんじゃないよ。

すまないね、あたしので悪いけどまだ口つけてないから、これをお飲み。」

そういって買い物袋から、ラムネを手渡される。


「あ、ありが、とう、ございます。」

私はどうにか、お礼だけを発することができた。

喉は渇いていたけれど、その場でラムネを飲むことはできなかった。


「あと少しで次の電車、来るからね。それに絶対、乗るんだよ。」

婦人はまた、私の背中を優しく撫でた。



しばらくして本当に電車が来た。乗客は、いない。

正直怖かったが、婦人がポンと背中を押すので私は電車になんとか乗ることができた。


「ヤチ、ねえねにバイバイは。」

男の子の名前だろうか、ヤチというらしい。

「バイバイ。」

ニコッと笑って、こちらに手を振る男の子。

私も気力をなんとか振り絞って、手を振り返した。

電車のドアが閉じ、動き出す。

窓から外を見ると、親子はこちらにまだ手を振っていた。

彼らが見えなくなるまで、私も手を振っていた。


体をなんとか動かして、席に座る。まぶたが重い。

少しだけ、と思って目を閉じる。


気が付くと、実家の最寄り駅に着いていた。

林と田んぼに囲まれた、見覚えのある景色に胸を撫でおろす。

夢かと思っていたのだが、日はとっぷりと暮れていて。


カバンの中には見覚えのないラムネと、木綿のハンカチが入っていた。


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