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第二章 国境の街リスタ(4)

「イシュラ殿、よろしいかな」


 その日、昼前に書庫を訪れたのは、このリスタ聖堂を預かるリド司祭だった。


「リド司祭……あ、はい……」


 イシュラがめくっていたのは、この書庫の本ではない。

 食堂で出会った巡礼帰りの中年男と桃と物々交換した本だ。表紙が青一色であることから青本と呼ばれるこの薄い冊子は、聖堂が発行しているものである。

 イシュラの青本は、聖地の簡単な絵地図と繁華街の詳細図、有名な店の情報、また、聖地での決まりなどについて書かれているちょっとした観光ガイド本だ。


「おお、本山の観光ガイドですな」

「ええ。……オレはローラッドの辺境で生まれた田舎者で……聖教のことも、聖地のこともほとんど知らない。姫さんと違って、難しい本だとよくわからんので、まずは簡単なきまりだけでもおさえておこうかと思いまして……」


 イシュラは頭をかく。

 自分だけの事なら別にかまわない。だが、イシュラの振る舞いは、すべてリースレイの名にかかるのだ。自分の無知で、リースレイに恥をかかせるようなことだけはしてはならない。


「ふむ。……それでは、私が聖教について簡単にお話しましょうかな」

「ぜひ、お願いします」


 にわか弟子となったイシュラは、姿勢を正してリド司祭に頭を下げた。

 まがりなりにも、騎士叙任を受け、正規の軍人として生きて来たイシュラだ。その気になれば、作法通りの所作で丁寧な言葉遣いもできる。


「まず、ティシリア聖教は、およそ1800年くらい前には現在の原型が成立していたと言われておりますのじゃ。元となっておるのは、魔導王国の国教であるとも言われておりますが、なにぶん、魔導王国の時代というのは記録がありませぬでな……今よりも優れた文明国家であったとも言われておりますのに、一切の記録が無いのは不思議で仕方がありませぬ」

「はあ」


(……じいさん、なんかしょっぱなから脱線してねーか?)


「聖教の教えは聖典にまとめられております。これは、正典が13巻。外典が7巻。一般的に聖書と呼ばれておるのは、この正典の有名な説話を抜書きしたものですのじゃ。俗に新約聖書と呼ばれておるものがこれですな。……そして、聖職者でなければ読まない旧約聖書というのが、母なる神の事績を抜き書いたものです。……イシュラ殿は聖書をお読みになったことがおありかな?」

「……何度かめくったことはあります」


 18歳の時、戦で死んだ男の遺品として聖書をもらった。熱心な聖教徒でいつも聖書をめくっている男だった。


(……聖書の最後のページには、あいつの家族の絵姿がはさまってたっけ)


 神聖皇国で聖騎士になるのが夢だと、いつも言っていた。

 転属するたびに持ち歩いていたその聖書も、ラシュガールの炎の中に消えた。


「そうですか。……新約聖書は、初代から17代の歴代の教皇倪下にまつわる幾つかの説話を記したものですのじゃ。これは、倪下方の慈悲深い行いを通じ、『奉仕』と『愛』について知ってもらうためのもの。皇国の精神の源といっても過言ではありませぬ」

「なぜ、17代目までなんですか?」

「聖書を13冊の正典として編んだのが、18代目教皇……いえ、初代法皇のファラザスである為でしょうな。彼の時代に、ティシリア聖教は驚くほどの発展を遂げたのです」


 ファラザスが生きていた時代から既に1000年以上が過ぎている。司教はこんな風に実在の人物のように話しているが、彼に関する事績は未だ謎も多い。

 イシュラにとってもそうだが、世間一般からすれば、ファラザスはおとぎ話の中の……あるいは、伝説の中の人物だ。


(剣持つ法皇……リェス=ファラザス・ザーランド)


 戦乱の大陸の中、異端扱いされ、迫害されていたティシリア聖教教団を砂漠の中の小さなオアシス都市であったアル・メイダ・オルカダールに導いた男。

 アル・メイダ・オルカダールを聖地と定め、ティシリア神聖皇国の建国を宣言し、彼は、剣を手に戦った。祈るだけの聖職者ではなかった。

 彼が戦ったからこそ、今のティシリア神聖皇国がある。そのため、歴代の教皇・法皇の中でも、特別な尊崇を集めている。

 イシュラの思うファラザスは、聖職者としてより、武人としてのイメージが強い。肖像などでも、火竜ザーリンガムを従え、左の手に十字架、右の手に剣を持った姿で描かれることが多い。

 ティシリア神聖皇国の紋章が火を吹く竜であり、教皇の座が火竜の玉座とも呼ばれるのは、ファラザスの死後も彼の僕たる火竜ザーリンガムが聖地を守ったからだと言われている。


「ファラザスの功績は、ティシリア神聖皇国の建国・教皇権の確立・教典の整備であるとされております。ですがな、それ以上に評価されていいのは、現在に至る法術体系の基礎を築いたことではないかと、私などは思っておりますのじゃ」

「法術?」

「……神聖魔術とも言いますな。広く知られている治癒術や魔力板の練成などは法術の中の一分野に過ぎぬのです」

「へえ」

「わしなどが、曲がりなりにも司祭として恥ずかしくない治癒の術が使えますのも、ファラザスの編み出した法術のおかげですのじゃ」


 リド司祭は、己の白い髭を伸ばすようにひっぱる。どうやらそれが司祭のクセらしい。


「……ですが、リースさまは、そのわし以上の力をお持ちじゃ」

「へ……はぁ?」


 へえ、と相槌をうとうとして、思わずすっとんきょうな声をあげる。


(うへ、じいさん、いきなり何だよ!!)


「イシュラ殿、リース様には、類い稀な魔力をお持ちなのじゃ」


 リド司祭はまるで睨みつけるような真剣な顔でイシュラを見る。


(……知ってますって)


「……かの方が、どなた様であるかはお聞きすまい。ですが、リース様の御身が危険であるというのであれば……ぜひとも、聖地にお逃れ下され」


 熱心な様子で、リド司祭は身を乗り出す。


「はあ?」


(いや、確かに逃げてきたわけだけど……じいさん、何か勘違いしてねえか?)


「隠された青き薔薇の流れの御身とお見受けいたす……いやいや、深くは問いませぬ。我らは母なる神の使徒でございますのじゃ。尊き御身をお託しいただければ、必ずや守って見せましょう」


(……じーさんが何言ってるかさっぱりわかんねー)


 台に手をつき、更に身を乗り出してくる姿には何かこう奇妙な迫力がある。


「……リドじい、なにかかんちがいしているのではないか?」


 舌足らずな甘い声がして、イシュラはほっと安堵した。

 何か盛大に勘違いされているようなのだが、それが何なのかイシュラにはまったくわからなかった。リースレイならば、あの謎の暗号のような言葉もきっとわかるに違いない。


「リースさま。このジジイめにお話できないのはわかりまする。じゃが、もし、御身の助けになることができるのであれば……そして、御身が、教団に身を投じてくださるのであれば、教団は……いえ、皇国は、国をあげて御身の安全をお守りいたしましょう」

「だから、それがかんちがいだというておる。わたしはべつにいのちをねらわれてはおらぬし、にげねばならぬわけもない」

「……本当でございますか?」

「ほんとうだ。……まあ、いくさばからにげてきたのではあるが、それはいくさばであるのだからとうぜんであろう。わたしのみはイシュラがまもるゆえ、べつにほかのだれかにまもられるひつようはない」


 イシュラは思わず頬が緩みそうになるのを引き締める。


「……………では、リース様は、ローラッド帝室の方ではないので?」


 イシュラはその言葉にぎくりとした。

 リースレイはただの伯爵令嬢だが、リースレイの母の双子の姉は、皇帝の妃だ。


「ちがう」


 はっきりきっぱりとリースレイは言い切る。


「なぜ、そのようなごかいを?」

「リース様からは確かな魔力を感じますのじゃ。魔力は血に宿りまする。リース様が内包する力は常人とは思えぬ強いものでありえぬものですゆえ、てっきり帝室のどなかの隠し子であられるのかと……」


(あー、姫さんの中身、『魔導師』だもんな……。そういうのって聖職者にはわかるんだ)


 へぇ、とイシュラは感心する。

 どうやら、彼が思っていた以上にリド司祭は聖職者として優秀なのかもしれない。勘違いはしているが。


「たしかにわがやは、だいだいつづくきぞくのいえで、わたしはそのひとりむすめだ。だがわたしのいえには、それとわかるようなこい『ち』は、ながれてはおらぬはずだ……わたしはとつぜんへんい……いや、かくせいいでんなのだとおもうぞ。きぞくであるからして、まったく、ていしつのちがまじっておらぬ、というわけではないのだし……」

「左様でございますか。それはとんだ勘違いを……」


 おはずかしいと笑うリド司祭に、リースレイも笑みを見せる。


(っつーか、姫さんが、あんまりにもえらそうだから、それも誤解の種になったんじゃねえの?)


 リースレイは別に威張っているというわけではない。変にプライドを振りかざしているわけでもなく、ただ、ごく自然にえらそうなのである。


(口調も、話す内容も、まったく子供らしくねえしな……)


 やや舌足らずなこの声で長々と難しい話をする。

 時々、舌を噛みそうになっているのだが、イシュラは気付かないフリをしている。

 万が一にでも噴き出したりしたら、足を踏みにじるくらいでは怒りをおさめてくれないだろう。


「……魔力は血に宿ると、さきほど司祭はおっしゃいましたが、王家や皇家に生まれれば必ず強い魔力をもつんですか?」

「高い確率でそうなることは事実ですのじゃ。彼らはその血の濃さを失わぬ為……その血の宿す魔力を失わないような婚姻を繰り返しているのですからな。その為の政略結婚でありますのでしょう」


(……ん……?)


 何かが頭の端を掠めた。思い出せそうで思い出せないもどかしさが生まれて、もやもやした。


「お二人の国……ローラッドでそれはもっとも顕著でありますまいか?ローラッドの皇家は神の末裔を名乗り、皇帝は自らを現人神と称します。その為、皇族は特別な尊崇を受け、皇帝の第一の妃は必ず皇族から選ばれると聞きます。それはすべて、初代皇帝アスガールの血を伝える為にございましょう」


(……あ!!……)


 イシュラの脳裏に白い光が閃く。

 思い出したのは、五年前のある日。皇宮中に……いや皇都中にローラッドの薔薇の紋章が掲げられたその光景だ。


(あれは……)


 皇帝の第五皇子の生誕を祝っての事だった。

 第五皇子アーサー=ジョサイアを産んだのは、皇帝の最愛の帝妃カザリナ=アディライン……リースレイの母の双子の姉だ。

 アーサー皇子とリースレイは、同じ日に生まれた。

 その偶然を祝い、カザリナの希望で、二人は生後一週間とたたぬうちに婚約が成立したはずだ。

 皇宮中がその話で持ちきりだった。


「…………イシュラ、どうかしたか?」

「あ、いや……」


 皇帝の寵愛を一身に受けているカザリナ妃の産んだ第五皇子が、名門とはいえさほど勢力があるとはいえぬ伯爵家の令嬢を妃とすることは、継承順位が上の兄弟やその母、それからその後援者の大貴族達からも歓迎された。

 それは、母であるカザリナ妃が、次の帝位に対する野心はないこと示したとされたからだ。


(……もしや、ただの伯爵家の姫ならいざしらず、皇子の婚約者だったら、本国も行方を探すんじゃねえの?)


 突如降ってわいた可能性に軽く眉をしかめる。


(いやいやいや、あの城砦の様子で生きていると思う方がおかしいだろ……)


 あのラシュガークの最後を知れば、五歳の女の子が生き延びられたと考える者はいないだろう。

 イシュラの煩悶をリースレイは黙殺する。何を思い悩んでいるかは知らないが、その百面相をしているような表情を見る限りたいしたことはあるまい。


「……それにしても、リドじいは、めずらしいちからをもつのだな」

「自分ではそれほどとも思わぬのですが、存外珍しいもののようでしてな。とはいえ、私めは、魔力の強弱を光として感じる程度……フィリ・エーダであれば、もっと明確におわかりになるでしょう」

「エーダだいしきょう?」


 フィリという称号が意味するのは大司教位だ。


「はい。古王国アルマディアスの第三王子であられた方にございます」

「なるほどな……」

「聖職に俗世の地位は関係ないといえど、我らとて霞を食って生きているわけではござませぬのでな……実際のところ、充分な法力もお持ちでもらっしゃいます。末はラヴァスかとも言われていらっしゃる御方ですよ」


 司祭は人の良さそうな好々爺の顔で笑う。


(……意外に辛辣だな、じーさん)


「ラヴァスというのは『きょうこう』のいみであったな?」

「はい。リース様はよくご存知で……」

「ここのれきししょをよんでいて、ぎもんにおもった。きょうだんのさいこうしどうしゃをさすしょうごうに、『ラヴァス』と『リェス』があるのはなぜだろう、と」


(あー、姫さんとじいさんがこの手の話を始めるとなげーんだよな……)


 リド司祭は、かつて本山の神学校で教鞭をとっていたことがあるという。そのせいか、教え好きだ。ことに自分の専門分野であるこの手のことになると饒舌になる。

 元はイシュラに対する『かんたん!ティシリア聖教のまとめ』だったはずが、何やら深く突っ込んだ話になりつつあり、イシュラはこっそりあくびを噛み殺した。


「おお、さすがリース様は賢くいらっしゃる……『ラヴァス』とは『教皇』、『リェス』とは『法皇』を意味します。敬称はどちらも『聖下』とお呼びし、最高指導者を指す称号でありますが、同時に立たれることはございませぬ」

「なぜ?」

「選出方法の違いもありますが……『法皇選定』により定められた者が現れた場合、その時点で『教皇』の座にある者は退位することになっておるからです」


 終身制である教皇が退位する唯一の事例ですな、とリド司教は髭を伸ばした。


「では、きょうこうとほうおうのせんていほうほうのちがいとは?」

「『教皇』とは、12名の枢機卿による『教皇選出会議』によって選出された者を言い、『法皇』とは、『法皇選定』によって定められた者をいいますのじゃ。『法皇』を選定するのは、12使徒であると言われており、これまでの歴史上、『法皇』となったのは……」

「つるぎのほうおうファラザス、しらゆりのせいじょリュシエンヌ、せいてんのしゅごしゃギルネスト……みっかほうおうのサヴォイアもはいるのか?」

「……なんと!幻の法皇サヴォイアまでご存知か」


 リースレイは答える代わりに小さく笑った。

 イシュラのみたところ、リースレイはティシリア聖教についてそれなりの知識を持っている。リド司祭と話をするのは、曖昧な部分を明確にする確認作業にすぎない。


(ってことは……)


 ティシリア神聖皇国での滞在は長期化する、とイシュラは推測する。


(これだけいろいろ知ってる姫さんが知りたいこと……その答えは滅多なところにはねえだろうな)


 おそらく、この書庫にその回答はなかったのだ。

 だからこそ、聖地にある大陸最高の蔵書を誇るという『ファラザスの大図書館』に行く必要があるのだろう。


「…………リースさま。リースさまは、いずれ御家のご再興をとをお考えでございますか?」

「いいや。まったく」


 あっさりとリースレイは首を横に振った。


(姫さんがローラッドの没落貴族の娘っていったのを、このじいさんも信じてるってわけだ)


 おそるおそる尋ねたリド司祭は、その回答にやや驚きをみせる。それも当然だ。

 貴族であれば家名第一。その子女は、家名を高める為に努力するのだと教えられて育つ。通常ならば、没落した貴族は、家名再興を何よりもの望みとするはずだった。


(本当に没落貴族ならばな……しかし……)


 リースレイは違う。そんなもの縛られることはない。


「わたしは、ていこくをすてた。……にどと、ていこくにかえるきはないのだ」

「それは…………」


 リド司祭はごくりと唾を飲む。

 彼の希望は、リースレイに洗礼を受けてもらい、ティシリアの聖職者になってもらうことだ。そして、今、その希望に実現の可能性があることを知った。


 ティシリア聖教団では、常に魔力を持つ子を集めている。

 母なる神のおかげで、わずかな魔力でも鍛えればそれなりの術の使い手になるが、もとより魔力が強いにこしたことはない。

 とはいえ、それとわかるほどの魔力の持ち主は今やとても貴重だ。

 王族・皇族などの血を引かぬ限り、中級程度の術がやっとなのだ。

 だが……。

 だが、リースレイほどの強い魔力を持つ子供であれば、将来、どこまで伸びるかわからない。スカウトが成功すれば、教団の者達がどれだけ喜ぶかもしれない。


「……わたしは、わたしのゆくみちをじゆうにえらべるということだ。……そう。せんれいをうけることもできる」


 リースレイが笑った。

 この年齢の子供とは思えぬ、妖艶な……とさえ言える微笑みに、意識を奪われる。


(……やべ……)


 背筋がぞくりと震えた。

 性的な興奮にも似た、何か。

 あるいは、戦場で命のやりとりをする瞬間にも似た、何か。

 イシュラは、リースレイが時折垣間見せるそれに、囚われている。


「リースさま……」


 ぼんやりとした老人の眼差し……熱を帯びたその眼に何が写っているのかイシュラは知らない。

 わかっているのは、この老人もまたリースレイのものになってしまったということだ。


「おまえののぞみをかなえよう」


 それはまた、私の願いでもある、とリースレイは静かに告げる。

 司祭は、大きく目を見開き……そして、歓喜に身を震わせた。


「なをすて、けつぞくをすて、このみのもつすべてをすてて……えらべるのはひとつだけ」


 そうであったな、と、紫水晶の瞳が笑みをたたえて問い掛ける。


「……はい」


 何かに操られるように……あるいは魅入られたように、老人はうなづいた。


「では、すぐにしたくをするがよい。わたしはあすにはしゅっぱつするゆえ、こんやじゅうのほうがよい」


(姫さんの聖職者……うわ、似合わねぇ……)


 見た目は似合うかもしれない。何といってもとても整った顔立ちをしている。ティシリア聖教の白の聖衣はさぞかし似合うに違いない。

 だが……。


(死体から財布強奪する聖職者……やべえだろ……)


「とんでもございません!洗礼をおうけあそばすのでしたら、このような田舎の聖堂ではなく、ぜひ本山でしかるべき教父をたてて……」


 だが、リースレイは、ゆるゆると首を横に振る。

 ただ、そのしぐさでリド司祭は、押し黙る。……黙らざるをえない。

 目の前の、この少女の意志に反する事をしてはならない……そういう気にさせられる。


「そなたがきょうふとなり、せんれいをとりおこなってくれればそれでよい」


 愛らしい笑み。

 先ほどの艶やかなものではない……年齢相応の無邪気さすら感じさせる笑み。


「リースさま……私などが教父では、御身が苦労をいたしましょう」

「かまわぬよ。わたしは、べつにたかいちいにのぼりたいわけではないのだ。ただ、しりたいことがある……。そして、つたえたいことがあるのだ」


 その言葉に、リド司祭は感激の涙を流す。


(じいさん、その言葉には恐るべき意味が隠されてるから。俺にもわかんねえけど、絶対に言葉どおりの意味じゃねえから……)


 きっと、真実が明らかになった時、リド司祭は別の意味で涙を流すに違いなかった。

 だが、リースレイは天使もかくやという、清らかな笑みを浮かべてみせる。

 慈愛の微笑み……それだけを見ているのならば、うっとりと見惚れたくなるような麗しさだ。

 だが……リースレイは、イシュラを見て、わずかに口角をあげる。


(……………ほらな)


 背筋を駆け抜けた快さを、イシュラは奥歯を噛み締めてやりすごす。


(……なんかこう……天使っつーより、悪魔の微笑に見えるのはオレだけかね……)


 なぜいきなり、洗礼だとか、教父だとかという話になったのだと思わないでもないが、どうやらこれはリースレイの計算のうちのようだ。

 そして……。


(たぶん……姫さんは、最初からそのつもりだった……)


 宿ではなく、聖堂に泊まると言った時から、きっと何かがあったに違いない。

 おそらく、リド司祭は、リースレイの望む何らかの条件を満たしていたのだ。だから、いろいろな話をしながら観察していた。

 そして、さまざまな計算の結果、こうすることが一番都合が良かったに違いない。


(じゃなきゃ、姫さんがいかにも親しげに『リドじい』なんて呼ぶはずがないもんな……)


 まだ出会ってそれほどでもないが、リースレイの騎士であるイシュラだからこそ知っている。

 リースレイには、やや人嫌いの傾向がある。

 それが、ラシュガークから今に至るまでの出来事のせいなのか、あるいは、過去の記憶のせいなのかはわからない。

 だが、リースレイは自分から積極的に他者と関わろうとしない。向こうから関わって来た場合でも、自分がそれを必要とする理由が無い限り、見事なまでにスルーしてのける。


「さいわいなことに、こんやはまんげつだ。とくべつなしゅくふくがあろう。すみやかにじゅんびをするがよい」

「はい」


 司祭は深々と頭を下げ、しずしずと書庫を出た。


パタンと目の前で扉が閉められる。


「ユースタ、ユースタ、どこじゃーーーーーっ」


 一拍置いて、助祭を呼ぶ大声が響きわたった。

 リースレイとイシュラは顔を見合わせる。

 どたどたどたという足音が遠ざかり、途中で途切れると、びたんと奇妙な音がした。


「………………………」

「………………………ぶっ、あの音は転んだぜ」


 イシュラは耐え切れずに噴き出した。リースレイも笑っていた。


「ユースタ、ユースタ、いそげーーーーーっ」


 ややして、再び助祭の名を呼びながら、どたどたどたと走ってゆく。


「………なあ、姫さん、なんで皇子の婚約者じゃなく、聖職者?」


 イシュラは目元をぬぐいながら、リースレイに向き直った。


「……しっていたのか。ゆうめいなのか?」


 帝国では、子供は七歳までは人の子ならずと言われている。七歳までは一人前に扱われないのだ。

ゆえに、リースレイの婚約はごく内輪のものだった。


「いや。……姫さんが生まれた時、ちょうど、皇宮にいたもんでね」

「なるほど……」


 納得したというようにうなづく。


「りゆうは、おおきくわけてふたつある」


 小さな指をニ本立て、すぐに人差し指をおった。


「ひとつには、ラシュガークのかんらくだ。ていこくはわたしたちをすてた。とりでにいたぜんへいしを、わたしのちちを、ははを……そして、わたしをすてた。ならば、わたしがていこくを、おばを、おうじをすててももんくをいわれるすじあいはあるまい」

「恨んでいるのか……?」

「うらむ……?いや、べつにのろいをかけるつもりもないし、おとしいれてしゃかいてきまっさつしようともおもわないし、らくなしにかたをさせぬようどりょくをするつもりもないぞ」


(……姫さんの恨みの定義って……)


「……ただ、わたしが、このさき、ていこくのみかたになることはない。てきになることはあってもだ。……わたしはラシュガークをけっしてわすれない」

「……姫さんが、ラシュガークを背負って生きてくれるって?」


 チャカした口調になるのは、こみあげてくる熱いものを隠すためだ。


「とうぜんだ」


 当たり前だと胸を張る。


「それが、いきのこったわたしたちのぎむであり、おまえのあるじであるわたしのせきむだ」


 唇を噛み締める。


「わたしは……ぶじんであるおまえに、めいよあるしをあたえなかった。なかまをみすててにげだすことはくちおしかったであろう、イシュラ。……だが、わたしは、けっしてそれをわすれぬ。いきのびれば、わたしたちのかちだといったな。わたしたちはいきのびた。いずれ、あれらにおもいしらせてくれよう」


 穏やかな口調が、その言葉の確かさを、その重みを、はっきりと伝える。

 リースレイは心底本気だった。


「充分、恨んでるじゃん」


 報われている、と思う。

 その言葉だけで充分だとさえ、思う。あの城砦で死んだ部下や同僚達に聞かせてやりたかった。


「うらんでなどいないぞ。ただ、わたしは、いっぱつなぐられたらひゃっぱつなぐりかえすしゅぎなんだ!」


 可愛らしく口を尖らせて、かなり不穏なことを主張する。


「……………なあ、姫さん、聖職者になるつもりなんだよな?」

「そうだぞ」

「…………………」


 何かが、ものすごく間違ってる気がする。

 どうやって思い知らせるつもりなのかを聞こうかと思い、やめた。

 イシュラごときが何を言おうと、リースレイを変えられる気はまったくしなかった。聖職者になろうが、他の何かになろうが、リースレイはリースレイであり、彼の主だった。


 それから、リースレイは、真面目な顔で二本目の指をおる。


「ふたつめは、『ファラザスのだいとしょかん』にはいることができるのは、せいしょくしゃだけだということだ」


 ここの書庫で目的が果させなかった場合は、遅かれ早かれ、大図書館に入るために洗礼を受けるつもりだった、とリースレイは言う。


「『ファラザスのだいとしょかん』はたいりくすべてのえいちがあつまっているという。ここでなら、わたしのしりたいことがわかるのではないかとおもう。いや、もうそこにしかない、と、よそくしているといったほうがただしい」

「……もし、それでみつけられなかったら?」

「……そうだな……そうしたら、さいごのしゅだんだな」

「さいごのしゅだん?」

「そのときは、なぜ、アル・メイダ・オルカダールがせいちであるのか、そのりゆうをおしえてやろう」

「…………………知りたいような、知りたくないような……」


 知らない方が幸せでいられる予感がありありとしている。


「なにをいう、わがきしイシュラ。おまえは、どこまでもわたしについてくるのだろう?」


 軽く小首をかしげるようにして問われた。答えなど最初から決まっている。

 だが、口にする事が大切だった。だから、同じ言葉を何度も繰り返す―――まるで決まり文句のように。

 言葉には、魂があるのだとリースレイはよく知っている。


「当然だろ……オレは姫さんの騎士なんだから」


 『我が騎士』―――――リースレイの口からそう聞くたびに、あるいは、自身が彼女の騎士であることを口にするたびに、イシュラの中で生まれるものがある。

 剣士としての誇りも、軍人としての名誉も、男の矜持も……何もかも捨ててかまわなかった。

 己に残るのは、主だけでいい。

 リースレイが在れば、それだけでいい。


「うん」


 リースレイの満足げな笑みに、イシュラも笑った。


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