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第五章 襲撃(1)

 夜半過ぎ、さらりという衣擦れの音をわずかにたてただけで、シェスティリエは寝床を抜け出した。

 グレイの聖衣をかぶりながら着て聖帯をかけると、少し考えて髪を高い位置で二つに分けて結んだ。

 いつもは髪を整えるのはイリかアルフィナがやる。

 自分では複雑なことはできないが、動きやすければ用は足りる。

 身支度を終えると、目を閉じて周囲の気配を探ってみた。


(……30、いや、もう少しいるか……)


 不特定の人間の気配をとらえることは難しい。

 自然、数もやや大雑把な感じでしかわからない。

 けれど、シェスティリエはまったく不安を覚えていなかった。


(イシュラがいるし……)


 己の騎士であるイシュラの気配は鮮明だ。

 たぶん、目が見えなくなったとしても、シェスティリエはイシュラを見失うことはないだろう。


(それほどに、私たちは分かちがたく結びついている……)


 『運命』などというものをシェスティリエは信じていないが、己が新たな生を享け、彼と出会ったことは何か特別な事であったように思う。


(…………とはいえ、それが何かはまだわからぬが)


 とはいえ、とりあえずは目の前の厄介事を片付けるのが先決だろうとシェスティリエはいったんその思索を棚上げすることに決めた。

 自分の左側に寝ていたアルフィナを踏まぬように気をつけながら、馬車の後ろにかけていた布をあげて外に出ると、火の番をしていたイシュラが顔をあげる。


「……なんだ、姫さん、起きちまったのか」

「こんななかで、ふつうにねていられるほうがおかしい」

「はは、大概の人間は姫さんほど鋭くはねーよ。寝てんだし」


 まあ、俺にはさっきから、ちらちらと気配がうるさすぎるけどな、と小さくぼやく。


「どうすんかね」

「むこうのでかたしだいだな。てをださぬならよし、てだしするのなら100ばいがえしだ」

「……姫さんの仕返しのレートって何気にたけぇよな」

「きほんレートだ」


 まじめな顔であっさりと言うのがどこかおかしくて、イシュラは思わず頬をほころばせる。


「基本レートが100倍って暴利だろ」

「いいんだ。わたしのしゅみだ」

「俺の趣味は、先手必勝なんですがね」

「ときとばあいによるな」

「数、多すぎるでしょう」

「だいじょうぶだ。せいぎょがややあまいが、はんぶんくらいにわたしがへらしてやる」


 そのために昼寝をしてずっと魔力を貯めてきたんだ。と、シェスティリエは天使もかくやという笑みをみせた。

 それは、こういう場合じゃなければうっとりと見惚れたいほどで、イシュラは小さく溜息をつく。


(かなわねえ)


 ルドクがイシュラの内心の声を聞いていたら、かなうはずがないと笑うだろう。

 いや、ルドクだけではない。イリやアルフィナだって言うはずだ。

 そもそもの前提条件が間違っている────イシュラは最初からシェスティリエにまったくかなってなんかいないじゃないか、と。

 どこまでわかっているのかは知らない。

 だが、シェスティリエにとって先ほどからこの馬車を遠巻きに囲む襲撃者たちの存在は完全に想定内だったらしい。


(それも、随分と前から)


 昼寝をしはじめたのは、昨日今日のことではない。

 イシュラとルドクは追いつかないと見ていたが、シェスティリエは今日のあることを予測していた。

 中身はどうあれ身体は幼い子供のこと。魔力を貯めているという発言もそれほど深く気にしていなかったが、こうなってみると深謀遠慮であったと思えるから不思議だ。


「イシュラ、ひざまづいてめをつぶれ」

「はい?」

「いいからさっさとめをつぶれ」

「へいへい」

「へんじは1かいだ、ばかもの」


 小さな足がイシュラの大きな足を容赦なく踏みつける。

 体重がほとんどないので鍛えているイシュラにはあまり痛みを感じないのだが、痛そうな顔をしてみせる。

 そうでないと、本当に痛い目に遭うので要注意なのだ。


 イシュラは大柄な身体でありながらそれを感じさせないなめらかさで膝まづいた。

 イシュラとて騎士の端くれであれば、一通りの作法は修めている。

 軽く顎をひき、ゆっくりと目を閉じた。


 月の明るい夜の中に、甘くやや舌足らずな声が響く────それは、囁くようなかそけき音でありながらも不思議とイシュラの耳には良く聞こえていた。


「そのみは、わがつるぎ」


 流れ出た音の連なりが、どこの国のどういう言葉なのか、イシュラには想像もつかなかった。

 それは、彼の知るどんな言葉とも似ていなかったし、少しも意味のある音には聞こえていなかった。

 まるで美しい音楽のようだ、と思った。


「そのこころこそが、やいば」


 そして、不思議なことに、その意味だけはイシュラにもわかった。

 音を言葉として捉えることは出来ないのに、意味としては理解ができる。


「わがいのりここにありて」


 それに気づいて、思い出す。


(……神聖言語)


 さまざまな戦場を渡り歩いたイシュラは、話にだけは聞いたことがあった。

 古の魔術師たちの使っていたという『力ある言葉』……あるいは、『はじまりの言葉』。

 すべての生あるものに通じるというその言葉のことを。


「なんじにぜったいのしゅごをあたえる」


 澄んだ声の四言詠唱。

 軍に魔術師は皆無ではない────だが、これほどまでに短い詠唱を聞いたのは初めてだった。

 簡略化された神聖言語の呪。

 それがどんなにも稀有なものであるのか、イシュラは知っている。


(本当に、魔導師なんだな)


 神聖言語を研究している人間はいるだろう。

 各種の学術機関や魔法王国と言われるローデシアの魔法院や、それこそ教会にだっているに違いない。

 だが、それを使う人間は……おそらくは、いない。少なくともイシュラは聞いたことがない。


 空気が震えていた。


 普通の人間だったら気づかないかもしれない。だが、イシュラは剣で身をたててきた人間の常として、気配を読むことに長けている。

 その感覚を持つからこそ、わかるのだ……シェスティリエの唇から紡ぎだされた言葉が、まぎれもなく力を持ち、世界をゆり動かしているのだと。


 目を瞑っているイシュラには見えていなかったが、シェスティリエの右手は空中に古い……今となっては彼女以外には知らないだろう呪を描き出していた。

 青白く発光する神聖言語の呪は、その唇から紡ぎ出た詠唱の呪と交わり、イシュラの身体をまわるようにして螺旋を描く。

 シェスティリエはそれを満足げに眺め、そして、限りない祈りと与う限りの慈しみとをこめて、静かに呪の終わりを結んだ。

 それは、どこか神聖なものを感じさせる光景だった────そこは聖堂でもなく、立ち会う神官もおらず、何の儀式もなかったけれど。

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