第三章 王都ルティウス(9)
耳障りな音をたてて、皿が床に落ちる。
ルドクが白いテーブルクロスを乱して倒れこんでも、イシュラも……そして、シェスティリエも動かなかった。ただ、ほんのわずかに視線を動かしただけ。
「………予測しておられたか?」
どこか、興味深そうな様子で、リュガルトは静かに問う。
「ええ」
シェスティリエは、小さくうなづいた。
予測通りでつまらない、というような表情だ。
「………いつから?」
手にしていたグラスをテーブルに置き、リュガルトは足を組む。食卓でするには無作法な仕草だが、既に食事を続けるつもりはないのだろう。
「………たぶん、はじめから」
食事を続けるつもりがないのはシェスティリエも同じだった。細い指先が、首もとのナプキンをはずし、テーブルの上に置かれた。
イシュラは、シェスティリエの椅子の背後に立つ。
「初めから、か……最初から、私が何をしようとしているか知っていたと?」
「……すくなくとも、あなたがこころからわたくしたちに『ほうし』してくださるつもりがあるとは、おもっていませんでした」
シェスティリエははっきりとうなづく。イシュラは薄々何かを感じていただろう。……もしかしたら、ルドクも。
でも、それは彼が何かしたからというよりは、シェスティリエの態度からに違いなかった。それほど長い時間を共に過ごしたわけではないが、二人はシェスティリエという人間をよく見ている。
だから、彼女がいつもと違うことをすれば、それぞれに心構えをする。
そういう回転の良いところが、シェスティリエが二人を気に入っている理由の一つだ。
(それに、ふたりとも、おどろくほどじゅうなんせいがたかい……)
イシュラなど、シェスティリエが過去の人間の生まれ変わりだと言う言葉を信じて、受け入れているほどだ。
「なぜ?」
「……あなたのめは、『わたくし』というこじんをみていませんでした。さいしょは、わたくしのおさなさにおどろいたのでしょう。もしかしたら、そのときだけは、じゅんすいに『ほうし』をかんがえてくださっていたかもしれない……でも……」
「でも……?」
リュガルトは、どこか倣岸さを感じさせる表情でシェスティリエを見る。
「それは、わたくしのかおをみたしゅんかんに、かわった……」
いつもより、ワントーン低い声でシェスティリエは言葉を紡ぐ。
「ははははは……私が、幼い少女に興味を示すと?いくら貴女が類い稀な美貌を持つとはいえ、初潮もまだの子供に食指は動かぬよ」
嘲りを含んだ言葉……乾いた笑いががらんとした食堂に響く。
剣の柄に手をかけたイシュラを、シェスティリエが目線で止めた。
そのような空虚な言葉は、シェスティリエを傷つけることなどできやしない。
「あなたがきょうみをしめしたのは、わたしのかおではなく、わたしのめでしょう、ガーナはくしゃく」
ぴたりとどこかつくられた笑い声が止まった。
その目に浮かぶのは、純粋な驚き。
「まりょくをやどすといわれるむらさきのひとみ……そう。おそらくは、だいさんおうじょもむらさきのひとみなのでしょう?」
「どうして……」
驚きは驚愕へと変わる。シェスティリエは薄く微笑むだけでその問いには答えない。
「ずっとかくしてそだててきたひめに、あなたは、それなりにあいじょうをもっている。だから、さんねんまえのできごとは、あなたにはせいてんのへきれきで……そして、そのために、あなたのたちばはとてもくるしいものになった……」
だって、王妃が姫の存在を許せるはずがないのですもの。
「おうひは、あなたにひめをころせといったの?」
小さく首をかしげる。
無邪気なしぐさだったが、シェスティリエは、無邪気さとはほど遠い存在だ。
図星だったのだろう。リュガルトは大きく目を見開く。
「それとも……」
シェスティリエはその言葉の響きを楽しむように、そこで区切り……そして嗤う。
「……それとも、むらさきのめを、しょうことしてもってこいとでもいわれた?」
驚愕は……一瞬にして、恐怖へと変わった。
背筋を走る悪寒を押し殺し、蒼白な表情でリュガルトは目の前の少女を見る。
まっすぐと彼を見据える紫の瞳……それは、夕闇を映した紫であり、深みを帯びた紫水晶の色だ。
「でも、あなたはおうじょをころせない。ときおり、にくしみをおぼえることはあっても、あいするあねのわすれがたみだから……」
イシュラは、冷ややかな眼差しでリュガルトを見ていた。
シェスティリエの言葉通りなのだろう。いまや、彼の顔色は蒼白だ。自身の内心を言い当てられて、平然としていられるほど豪胆な性格ではないらしい。
「めいもんであるということは、おうけとえんをもつということ。ガーナはくしゃくけもまた、そのれいにもれない。ゆえに、あなたはじじつをしったとき、おどろき、かなしみ、そして、いかりをおぼえた………こくおうにたいして」
それは当然よね、とシェスティリエは続ける。
「……おうけのおうじょをつまにしただけのおとこのくせに」
その言葉にうたれたかのように、びくっとリュガルトの肩が大きく震えた。
「あいするあねのなをけがし、かのじょがしんだときもけっしてなのりでなかったひきょうもの!……そのうえ、あなたをぬきさしならぬたちばにまでおいこんだ……」
目を逸らしつづけていた真実……考えないようにしていたはずだった。
だが、三年前、事実を知ったその時から、それは頭の奥から決して離れる事がなかった。
椅子の肘掛を握り締めた手が、小さく震えている。
「ほんらいだったら、こくおうをこそころしてしまいたい……ちがって?」
心の奥底を言い当てられた。
くすくすと小さな笑いが響く。
「……姫さん、ここでそういう風に笑うのは悪役だから」
やや場違いなほどに能天気な声で、イシュラは言う。
「あら、あくやくでかまわないのよ、わたくしは」
なんどもいってるでしょ。いい人で死んじゃったら、むいみだわ、と付け加える。
「………あなたは……」
……掠れた、声音。
「………あなた…は、何者だ?」
やっとのことで搾り出した、言葉。
リュガルトは、自分の目の前にいる少女が、見ている通りの存在でないのだとはっきりと理解していた。
何か、まったく別の……自分を遥かに超越した存在なのだと、おぼろげに思った。
その顔に先ほどまでの倣岸さはまるで見られない。椅子がなければ、床にへたりこんでいただろう。
「わたくしは、ただのせいしょくしゃだわ」
軽く肩を竦める様子は可愛らしいものだ。
だが、今のリュガルトにはまったく違って見える。
その幼さも、その美貌も、その子供らしい舌足らずな声音も……すべてが、彼女の真の姿を隠すための仮面であるように思えた。
「………なあに、イシュラ。いいたいことがあるなら、いいなさい」
シェスティリエは、頭上のもの言いたげな視線に微笑を見せる。
「いいえ……ただの聖職者というのは、いささかそぐわないな、と思っただけですよ、我が姫」
取り澄ました顔をしているが、実際のところ、イシュラは今にも笑い出しそうな気分だった。
イシュラは、シェスティリエの言葉に今更驚いたりしない。
彼女が何を知っていたとしても、イシュラは驚かない。
目の前で内心を言い当てられ、半ば放心しているリュガルトを見下ろして、皮肉げな笑みを浮かべる。
「まあ、まだちかいをたてたばかりの、みならいのようなものだけれど」
「そういう意味じゃありませんよ……その気になれば姫ならば、枢機卿にだってなれるでしょう」
何になったって、かまわない。イシュラは共に行くだけだ。
それが例えどのような道であってもだ。
「んー……とりあえず、しさいになれればいいわ」
「なぜです?」
「しさいになれれば、じゆうにだいとしょかんにはいれるもの……あら、きたみたい」
顔をあげたシェスティリエは、大きな樫の扉の方に視線をやる。
「来た……?」
勢い良く開かれた扉から、まばゆいばかりの金の光がこぼれた。